表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
お仕えしている愛の女神に嫌われている巫女ですが、最高神さまに溺愛されています  作者: 絹ごし春雨


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/3

前編

 リネは祈る。愛の女神の安寧を。今日も健やかであらせられますように。


他の巫女が、次々に祝福されていく。しかし、リネには、何も起こらない。


他の巫女たちの目が、可哀想なものを見るように突き刺さる。


「やっぱり……私が悪いのかしら」


リネは立ち上がった。


祈りが足りなかったのだろうか。

言葉が正しくなかったのか。

それとも、心が濁っていたのか。


分からないまま、祭壇から一歩、距離を取る。


他の巫女たちは、視線を逸らす者もいれば、

ひそひそと声を潜める者もいた。


「……また、何もなかったのね」


小さな声。

同情とも、安堵ともつかない響き。


リネは、聞こえなかったふりをする。


慣れている。

祝福が降りないことにも、

理由を問われないことにも。


ーー仕方がない。


そう思おうとして、胸の奥が、かすかに痛んだ。


愛の女神ミレイアは、今日も沈黙している。

像は美しく、微笑みは慈愛に満ちているのに、

その視線が、自分には向けられていない気がした。


「……女神さま」


誰にも聞かれないよう、声を落とす。


「どうか、今日も安らかで……」


最後まで言えなかった。


自分の願いを、混ぜてはいけない気がしたから。


そのとき。


風が、神殿の奥を撫でた。


扉は閉じている。

窓も、開いていない。


それなのに、空気だけが、ゆっくりと変わる。


重くはない。

けれど、確かにーー近い。


リネは、思わず息を止めた。


祝福ではない。

加護でもない。


ただ、見られている感覚。


名を呼ばれる気配がして、

けれど、声は降ってこない。


リネは、ぎゅっと両手を重ねた。


――いけない。


理由のない期待を、抱いてはいけない。


自分は、愛の女神の巫女なのだから。


そう言い聞かせて、

リネはもう一度、祭壇に背を向けた。


背後で、誰かが、静かに笑った気がしたことには――

気づかなかったことにした。




 まただ。

また、“あの神”が私の邪魔をしている。


ミレイアは、苛立ちを隠すことなく、神殿の奥で腕を組んだ。


私の神殿で働く巫女。

リネ。


祈りは丁寧で、雑念もない。

見返りを求めることもなく、ただ毎日、私の名を呼ぶ。


……可愛い巫女だ。


だから、少しだけ意地悪をした。

少しだけ、距離を置いた。


それなのに。


「……どうして、あなたが手を伸ばしたの」


視線の先。

神殿の空気が、わずかに歪む。


姿を現さなくても分かる。

あの気配。


世界の上に座る神。

最高神、ルゥ。


彼は、いつもそうだ。

何も奪わない顔で、

すべてを持っていく。


リネに祝福を与えられない理由も、

本当は分かっている。


私が力を注ごうとすると、

その魂が、彼のほうへ傾いてしまう。


加護が弾かれる。

私の光が、届かない。


「……私の加護は、あの方に遠く及ばないもの」


呟くと、胸の奥が、きゅっと縮んだ。


分かっている。

比べるものではない。


けれど。


「それでも……」


ミレイアは、目を伏せる。


「それでも、私が祝福したかったのに」


可哀想で、健気で、

何も知らずに祈るあの子を。


私の手で。

私の名で。


ーー独占されているわけではない。“まだ”、私の巫女だ。

そう言い聞かせても、納得できない。


だって、あの神は。


奪わない顔で、

離さないのだから。


ミレイアは、ため息を吐いた。


「……ずるいわ、本当に」


それが嫉妬だと認めるのは、

少しだけ悔しかった。


 けれど、次の瞬間。

リネが祈りを終え、立ち上がる気配が伝わってくる。


――今日も、何も起こらなかった。


その事実に、胸が痛んだ。


最初は八つ当たりだった。

分かっている。


可哀想な子だと思う気持ちも、

きっとあの神と同じ。可哀想で、可愛い。


「……ごめんなさいね、リネ」


届かないと分かっていても、

ミレイアは、そっとそう呟いた。


愛の女神として。

そして、少しだけ拗ねた神として。


今日もまた、

祝福は、与えられないままだった。





 ルゥは、待っている。


最高神、ルゥ・ラハ。

世界の上に在り、すべてを見下ろす神。


彼が、今、欲しているものはひとつだけだった。


愛の女神の神殿に仕える巫女、リネ。

その心。


信仰でも、忠誠でもない。

与えられる祝福の対価でもない。


ただ――

自ら差し出される、その在り方。


「……リネ」


名を呼ぶ。


声は風となり、

祈りの余韻に溶けて、彼女の背に触れる。


祝福と呼ぶには、あまりに静かなもの。

加護と呼ぶには、あまりに個人的なもの。


けれど、リネはそれを拒まない。


顔を上げ、

誰もいないはずの神殿を見回し、

それでも、何も言わずに目を伏せる。


――まだだ。


ルゥは、距離を測る。


彼女は、自分を責めている。

祝福を受け取れない理由を、

自分の中に探している。


それでいい。


その心が、

どこにも逃げず、

誰のものにもならず、

ただ祈り続ける限り。


ルゥは、奪わない。


手を伸ばせば、終わる。

名を呼ばせれば、境界は消える。


それでも――


「……もう、いいだろうか」


独りごちる声は、

誰にも届かない。


もう少し近づいても。

もう少し、与えても。


彼女が気づかぬほどの距離で、

彼女が選んだと思える程度に。


待つことは、苦ではない。


神は永遠を持っている。

そして、彼女がこちらを見る瞬間を、

確かに知っている。


ルゥは、今日も動かない。


ただ、見ている。


――呼ばれる、その日まで。





 最近、妙に運がいい。


そう思うたび、リネは胸の奥がざわついた。


落としたはずのハンカチが、誰にも踏まれずに戻ってきた。

外出の予定が、些細な理由でずれて、

あとから聞いた崖崩れの話に、背筋が冷えた。


奇跡と呼ぶほど派手ではない。

けれど、偶然にしては、続きすぎている。


「……神さま?」


そっと口にすると、声は神殿の空気に溶けた。


愛の女神ミレイアの神殿に入ってから、

ときどき、視線を感じることがある。


像の前でもない。

祝福の光でもない。


ただ、背後に立たれているような、

近い気配。


名を呼ばれた気がして、振り向いても、誰もいない。

風が通っただけだと、自分に言い聞かせる。


ーー考えすぎ。


そう思うたび、

胸の奥で、小さな安堵が広がるのが、不思議だった。


「ミレイア様……」


リネは、静かに跪く。


「どうか、お許しください」


誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。


祝福を受け取れない巫女が、

身に余る幸運を得ていること。

それを、どこかで後ろめたく思っている。


だから。


両手を組み、

声をさらに落とす。


「……もし、他の神さまが見守ってくださっているのなら」


言葉が、途中で止まる。


名を知らない。

呼び方も分からない。


それでも。


「……ありがとうございます。どうか、感謝を。そして、ミレイア様の安寧を」


祈る。


その瞬間。


空気が、わずかに揺れた。


風が、背中を撫でる。

祝福と呼ぶには、静かすぎる感触。


――ああ。


リネは、なぜか、確信してしまった。


これは、

与えられている。


名も知らぬ神は、

何も求めていないふりをして、

ただ、そこにいる。


リネは目を閉じる。


これ以上、踏み込んではいけない。

そう思いながらも、胸の奥が、ほんの少しだけ温かかった。


知らないままでいい。


そう願う気持ちが、

すでに誰かに届いていることを、

彼女はまだ、知らない。



「リネ、おいで」


ルゥは、甘やかに呼ぶ。

祈りではない。命令でもない。


それは、世界そのものの引力だった。


リネは、はっと顔を上げる。


誰もいない。

神殿は静まり返っている。


それでもーー

足元の感覚が、わずかに変わった。


知らず知らずに、

彼女は一歩、踏み出していた。


祭壇と、自分の間に引かれていたはずの線。

巫女として守ってきた距離。


それが、音もなく、薄れていく。


「……?」


名前を呼ばれたわけではない。

それなのに、呼ばれたと分かってしまう。


胸の奥が、きゅっと締まる。


いけない。

ここから先は、踏み込んではいけない。


そう思うのに、

拒む理由が、どこにも見つからない。


風が、髪を揺らす。


祝福でも、奇跡でもない。

ただ、近い。


その気配の中で、

ルゥは、静かに微笑んだ。


「もうすぐだ」


誰に告げるでもなく。

けれど、確信をもって。


名を呼ばせるには、まだ早い。

手を取るには、少しだけ足りない。


けれどーー


リネは、もう境界線の上にいる。


戻れる場所を、

自分から探さなくなった、その瞬間に。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ