前編
リネは祈る。愛の女神の安寧を。今日も健やかであらせられますように。
他の巫女が、次々に祝福されていく。しかし、リネには、何も起こらない。
他の巫女たちの目が、可哀想なものを見るように突き刺さる。
「やっぱり……私が悪いのかしら」
リネは立ち上がった。
祈りが足りなかったのだろうか。
言葉が正しくなかったのか。
それとも、心が濁っていたのか。
分からないまま、祭壇から一歩、距離を取る。
他の巫女たちは、視線を逸らす者もいれば、
ひそひそと声を潜める者もいた。
「……また、何もなかったのね」
小さな声。
同情とも、安堵ともつかない響き。
リネは、聞こえなかったふりをする。
慣れている。
祝福が降りないことにも、
理由を問われないことにも。
ーー仕方がない。
そう思おうとして、胸の奥が、かすかに痛んだ。
愛の女神ミレイアは、今日も沈黙している。
像は美しく、微笑みは慈愛に満ちているのに、
その視線が、自分には向けられていない気がした。
「……女神さま」
誰にも聞かれないよう、声を落とす。
「どうか、今日も安らかで……」
最後まで言えなかった。
自分の願いを、混ぜてはいけない気がしたから。
そのとき。
風が、神殿の奥を撫でた。
扉は閉じている。
窓も、開いていない。
それなのに、空気だけが、ゆっくりと変わる。
重くはない。
けれど、確かにーー近い。
リネは、思わず息を止めた。
祝福ではない。
加護でもない。
ただ、見られている感覚。
名を呼ばれる気配がして、
けれど、声は降ってこない。
リネは、ぎゅっと両手を重ねた。
――いけない。
理由のない期待を、抱いてはいけない。
自分は、愛の女神の巫女なのだから。
そう言い聞かせて、
リネはもう一度、祭壇に背を向けた。
背後で、誰かが、静かに笑った気がしたことには――
気づかなかったことにした。
まただ。
また、“あの神”が私の邪魔をしている。
ミレイアは、苛立ちを隠すことなく、神殿の奥で腕を組んだ。
私の神殿で働く巫女。
リネ。
祈りは丁寧で、雑念もない。
見返りを求めることもなく、ただ毎日、私の名を呼ぶ。
……可愛い巫女だ。
だから、少しだけ意地悪をした。
少しだけ、距離を置いた。
それなのに。
「……どうして、あなたが手を伸ばしたの」
視線の先。
神殿の空気が、わずかに歪む。
姿を現さなくても分かる。
あの気配。
世界の上に座る神。
最高神、ルゥ。
彼は、いつもそうだ。
何も奪わない顔で、
すべてを持っていく。
リネに祝福を与えられない理由も、
本当は分かっている。
私が力を注ごうとすると、
その魂が、彼のほうへ傾いてしまう。
加護が弾かれる。
私の光が、届かない。
「……私の加護は、あの方に遠く及ばないもの」
呟くと、胸の奥が、きゅっと縮んだ。
分かっている。
比べるものではない。
けれど。
「それでも……」
ミレイアは、目を伏せる。
「それでも、私が祝福したかったのに」
可哀想で、健気で、
何も知らずに祈るあの子を。
私の手で。
私の名で。
ーー独占されているわけではない。“まだ”、私の巫女だ。
そう言い聞かせても、納得できない。
だって、あの神は。
奪わない顔で、
離さないのだから。
ミレイアは、ため息を吐いた。
「……ずるいわ、本当に」
それが嫉妬だと認めるのは、
少しだけ悔しかった。
けれど、次の瞬間。
リネが祈りを終え、立ち上がる気配が伝わってくる。
――今日も、何も起こらなかった。
その事実に、胸が痛んだ。
最初は八つ当たりだった。
分かっている。
可哀想な子だと思う気持ちも、
きっとあの神と同じ。可哀想で、可愛い。
「……ごめんなさいね、リネ」
届かないと分かっていても、
ミレイアは、そっとそう呟いた。
愛の女神として。
そして、少しだけ拗ねた神として。
今日もまた、
祝福は、与えられないままだった。
ルゥは、待っている。
最高神、ルゥ・ラハ。
世界の上に在り、すべてを見下ろす神。
彼が、今、欲しているものはひとつだけだった。
愛の女神の神殿に仕える巫女、リネ。
その心。
信仰でも、忠誠でもない。
与えられる祝福の対価でもない。
ただ――
自ら差し出される、その在り方。
「……リネ」
名を呼ぶ。
声は風となり、
祈りの余韻に溶けて、彼女の背に触れる。
祝福と呼ぶには、あまりに静かなもの。
加護と呼ぶには、あまりに個人的なもの。
けれど、リネはそれを拒まない。
顔を上げ、
誰もいないはずの神殿を見回し、
それでも、何も言わずに目を伏せる。
――まだだ。
ルゥは、距離を測る。
彼女は、自分を責めている。
祝福を受け取れない理由を、
自分の中に探している。
それでいい。
その心が、
どこにも逃げず、
誰のものにもならず、
ただ祈り続ける限り。
ルゥは、奪わない。
手を伸ばせば、終わる。
名を呼ばせれば、境界は消える。
それでも――
「……もう、いいだろうか」
独りごちる声は、
誰にも届かない。
もう少し近づいても。
もう少し、与えても。
彼女が気づかぬほどの距離で、
彼女が選んだと思える程度に。
待つことは、苦ではない。
神は永遠を持っている。
そして、彼女がこちらを見る瞬間を、
確かに知っている。
ルゥは、今日も動かない。
ただ、見ている。
――呼ばれる、その日まで。
最近、妙に運がいい。
そう思うたび、リネは胸の奥がざわついた。
落としたはずのハンカチが、誰にも踏まれずに戻ってきた。
外出の予定が、些細な理由でずれて、
あとから聞いた崖崩れの話に、背筋が冷えた。
奇跡と呼ぶほど派手ではない。
けれど、偶然にしては、続きすぎている。
「……神さま?」
そっと口にすると、声は神殿の空気に溶けた。
愛の女神ミレイアの神殿に入ってから、
ときどき、視線を感じることがある。
像の前でもない。
祝福の光でもない。
ただ、背後に立たれているような、
近い気配。
名を呼ばれた気がして、振り向いても、誰もいない。
風が通っただけだと、自分に言い聞かせる。
ーー考えすぎ。
そう思うたび、
胸の奥で、小さな安堵が広がるのが、不思議だった。
「ミレイア様……」
リネは、静かに跪く。
「どうか、お許しください」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
祝福を受け取れない巫女が、
身に余る幸運を得ていること。
それを、どこかで後ろめたく思っている。
だから。
両手を組み、
声をさらに落とす。
「……もし、他の神さまが見守ってくださっているのなら」
言葉が、途中で止まる。
名を知らない。
呼び方も分からない。
それでも。
「……ありがとうございます。どうか、感謝を。そして、ミレイア様の安寧を」
祈る。
その瞬間。
空気が、わずかに揺れた。
風が、背中を撫でる。
祝福と呼ぶには、静かすぎる感触。
――ああ。
リネは、なぜか、確信してしまった。
これは、
与えられている。
名も知らぬ神は、
何も求めていないふりをして、
ただ、そこにいる。
リネは目を閉じる。
これ以上、踏み込んではいけない。
そう思いながらも、胸の奥が、ほんの少しだけ温かかった。
知らないままでいい。
そう願う気持ちが、
すでに誰かに届いていることを、
彼女はまだ、知らない。
「リネ、おいで」
ルゥは、甘やかに呼ぶ。
祈りではない。命令でもない。
それは、世界そのものの引力だった。
リネは、はっと顔を上げる。
誰もいない。
神殿は静まり返っている。
それでもーー
足元の感覚が、わずかに変わった。
知らず知らずに、
彼女は一歩、踏み出していた。
祭壇と、自分の間に引かれていたはずの線。
巫女として守ってきた距離。
それが、音もなく、薄れていく。
「……?」
名前を呼ばれたわけではない。
それなのに、呼ばれたと分かってしまう。
胸の奥が、きゅっと締まる。
いけない。
ここから先は、踏み込んではいけない。
そう思うのに、
拒む理由が、どこにも見つからない。
風が、髪を揺らす。
祝福でも、奇跡でもない。
ただ、近い。
その気配の中で、
ルゥは、静かに微笑んだ。
「もうすぐだ」
誰に告げるでもなく。
けれど、確信をもって。
名を呼ばせるには、まだ早い。
手を取るには、少しだけ足りない。
けれどーー
リネは、もう境界線の上にいる。
戻れる場所を、
自分から探さなくなった、その瞬間に。




