1話
光書房は、等々力渓谷の南側、団地の一室にあった。
看板はない。郵便受けに貼られた小さな紙に「光書房」とだけ書かれている。
ネット専門の古本屋で、来客はほとんどない。けれど、週末になると、店主の青井は棚を磨き、器の本を並べ直す。
それが習慣だった。
その日も、朝から静かだった。
窓を少し開けると、渓谷の方から風が吹き抜けてきた。木々の葉が揺れ、光が床に模様を描く。
青井は、信楽焼の小皿をひとつ、棚の端に置いた。何も乗せずに。
器は、使われることで完成する。けれど、使われない器にも、どこかしらの気配がある。
それを眺めるのが、青井の楽しみだった。
昼過ぎ、メールが届いた。
件名は「『器の時間』という本について」。
差出人は「佐々木陶子」とあった。
はじめまして。
サイトで『器の時間』という本を見つけました。
表紙に白い湯呑みが載っていて、「器は、食べ物の服である」と書かれていた気がします。
まだ在庫はありますか?
青井は棚を見渡し、すぐにその本を見つけた。
表紙の湯呑みは、少し黄ばみが出ていたが、まだ凛としていた。帯には、たしかにその言葉があった。
ご連絡ありがとうございます。
『器の時間』、在庫ございます。
湯呑みも、帯も、まだ静かに佇んでいます。
よろしければ、発送の準備をいたします。
返信を送ってから、青井は湯を沸かし、煎茶を淹れた。
器は、使われることで完成する。
けれど、誰かがそれを求めたとき、器はまた、少しだけ光を帯びる。
窓辺の光が、湯呑みの縁に落ちていた。
それは、木漏れ日のようだった。




