香り
コウモリとの戦いは、今まででトップクラスに苦戦した戦いだった。
……いや、実際に苦戦したモンスターとの戦いなんて、トンボとトレントしか他に居ないんだが。
「ふぅ……」
呼吸困難に陥ったせいで、既に若干の疲れを感じる体を労わるようにその場に腰を下ろす。
周囲にモンスターの気配は無い。ちょっとした小休止ぐらいは出来るだろう。
すり、と革のグローブの上から左手の薬指に嵌っている指輪を撫でる……トレントからドロップしたあの木製の指輪だ。
指輪の名称は『木霊の指輪』。効果は[装備している者の疲労を時間をかけて継続的に回復していく]……いわゆるリジェネというもの。
「どれくらいの効果量があるのかは分からないけど……これつけて寝ると疲れが取れてスッキリするだんな」
この休憩中も効果を発揮して、疲れを癒してくれているのだろう。そう思ったら、疲れもいつの間にか回復している気がする。
これがプラシーボというやつか……いや、実際に疲労回復のリジェネがあると考えれば、いつの間にか回復しててもおかしくはないか。
「そろそろこういうアクセサリー系にも手を出して、装備を充実させていかないといけないなぁ」
ダンジョンを進めば進むほど、モンスターは強くなっていくだろう。実際、1回戦っただけだが『淵樹の密林』よりも『黒岩窟』のモンスターの方が強い。
戦力増強は早い方が良いだろう。
「あ、ドロップアイテム……」
そんな事を考えていると小袋がすぐ側に落ちているのを見つけた。コウモリのドロップアイテムを回収し忘れていたらしい。
少し手を伸ばして小袋を掴めば中に入っているコインがジャラ、と音を立てた。
封を開き、少し中を覗いてみれば沢山のカッパーコイン。
「重さ的に……50枚前後かな?」
一瞬死にかけた事というのに、報酬はカッパーコインが約50枚程度。
果たして、命の危険があるのに比べてこれは割に合わないと言うべきか……ただ1匹のモンスターと戦うだけで1日分の生活費が手に入ると考えれば、破格と言うべきか……
「……さて、休憩終わり!」
別に答えを求めている訳でも無い事を考えている暇は無い。
コインの入った袋をポーチの中に入れて立ち上がる。ズボンの土埃を払って……鉄の戦槍を構えた。
道の先からズリズリ、ヌチャヌチャと粘性の高い液体のような物が地面を這うような音が聞こえてきている。
十中八九モンスターが立てている物音だ。
「……うわぁ」
道の先、曲がり角から姿を現したのは緑色の液状の体を持つモンスター。
顔は無く、身体らしい輪郭は無い。
「……」
液体の体内に小さな丸い石が浮かんでいた。その石が動くと周りの緑色の液体がその動きに追従する。
つまりあの石が本体である可能性が高い。
「うーん。スライム、って所かな」
残っていた記憶から適切な呼び名を考える。
スライムとはファンタジーでは定番の存在、だったはずだ。
ただ俺の知るスライムはもう少し可愛い見た目をしていたと思うが……目の前のスライムは粘度の高い液体が不気味に蠢いているだけで、可愛いも何もありはしない。
「あの石の核を壊したら、多分倒したって判定になると思うんだけど……」
石の核がスライムの本体なのだとしたら、あのスライムの身体である液体は一体何なのか。
緑色だし、粘性が高いからただの水ではないだろう。つまり石の核がわざわざ身に纏うくらいの意味があの液体にはあるということ。
「うーん……」
ズズ……ズズ……と前に進むスライムの動きは酷く緩慢だ。1回の進行で数cmくらいしか進んでない。
それ故にどう対処したものかと、スライムを前にして悠長に悩む余裕があった。
「触りたくは、無いよなぁ」
スライムの身体に触れるのは危険だと直感でも感じている。ただ、俺の現状の装備では触れなければ石の核に攻撃も出来ない。
「まあ、様子見も兼ねてこれ一択か」
鉄の戦槍の石突で『黒岩窟』の壁を殴る……いや、削る。
結構な力を入れた為、ガキッ!と大きい音が鳴り岩肌の一部が割れる。
その中で小さすぎない手頃な大きさの壁の欠片を拾い上げ……
「ぽーい」
試しにスライムに向かって放り投げる。
石ころとなった壁の欠片は放物線を描き、スライムの丁度目の前に転がって行った。
「……」
相変わらずズズ……と進むスライムの身体に石ころが取り込まれていく。
ちょっと近付き過ぎてるかも……とスライムとの距離を取りながら取り込まれた石ころを観察していると、石ころの周りに気泡が生まれていくのが見えた。
──溶けている。
「ははーん、やっぱり触らないで良かった」
石ころは10秒も経たないうちにすっかり小さくなってしまった。あの気泡は石ころが溶けた時に発生したものだろう。
それに動きが遅い理由も分かった。わざわざ攻撃を当てる必要も無く、攻撃を防いだり避けたりする必要も無いからだ。
スライムにとって、1度触れてしまえば絶対勝ちなんだろう。
「多分、その粘性の高い身体を活かして普段は天井に張り付いるのかな?」
そうして獲物が下を通った時を狙って……取り込むんだろう。そして溶かした養分を石に蓄える。
そう考えると、あの石も単純な石ではないのか。
「これから先は天井も注意しとかなきゃ」
だがタネが分ればこっちのもの。動きがノロくて、本来罠を仕掛けるよう戦い方をするようなモンスターは、今更俺の敵では無い。
再度鉄の戦槍の石突で、岩肌を割る。
投げるのに丁度良い大きさの石ころは、いくらでも補充出来る。
「よい、しょ!!」
野球選手さながら、石ころをスライムの核に向かって全力投球する……球じゃないから、投擲か。
そして飛んでいった石ころは、核に当たりはしなかったが粘性の身体を弾き飛ばすくらいの勢いはあった。
「……」
体積が目減りしても、スライムの進行は止まらない。いっそ不気味な程、機械的に俺の元に進むだけで……おそらくスライムには意思も感情も存在しないんだろう。
「そー、っれ!」
2回目に投げた石ころが、スライムの身体を弾き飛ばしながら石の核に命中し、粉砕する。
形を保てなくなったように粘性の高い液体が地面に広がり……他のモンスターを倒した時のように爆散して消える。
「よしっ」
今度は苦戦せずに『黒岩窟』のモンスターを倒すことが出来た。
コウモリを倒した時と同じような重さのコインの小袋を回収する。
「凶悪な生態系のモンスターだったなぁ」
石をも溶かす強力な酸性に液体の身体を持つモンスター。もし取り込まれでもしたらと考えると鳥肌が立ってしまう。
「弓とか遠距離攻撃手段も揃えないとな」
ただ今まで目玉商品に弓なんてものが並んだ所を見たことが無い。
そもそも矢は消耗品だ。そういう意味でも弓本体だけがあっても扱いに困るが。
「確か売店に小さいナイフみたいなの売ってたな」
それを持って戦うには心許ないような、そんな果物ナイフのような小さなナイフ。
一応金属の刃を持っている為、相応の値段はするが……それを投擲用にいくつか持ったっていいかもしれない。
「……まあ結局必要なのはお金か」
ダンジョン内を歩きながら呟く。
そういった消耗品を揃えるにはまとまったお金が必要だ。
買い揃えたとしても、それを使い捨てても懐が痛まないくらい金銭的余裕がないと、使うのに躊躇が生まれるだろう。
いつになっても金銭難から抜け出せない。
「世知辛いもんだよ……」
次のエリアに進んだことでモンスターのドロップするコインの量は多くなっている。それに今俺にお金が無いのは売店が新しくなった事で、色々出費がかさんだだけ。
必要なものは既に買ったから、あとは出費は落ち着くだろう。
「……いや、待てよ?」
ダンジョンの更新日は、文字通りダンジョン内が新しいものに更新する。
地形しかり、それまで住んでいたモンスターしかり……その更新が、ボスにも影響があるとすれば。
「またトレントと戦える……?」
数の減ったモンスターが補充されるように、ボスも補充されると考えれば、3日に1回ゴールドコインが手に入る。
1度戦ってどういう戦い方をするのかは分かっているし……大きくなった売店にはライターが売っていた。それを使えば、もっとトレントとの戦いは楽になるだろう。
「ただボスモンスターは特別だから、1回倒したらもう戦えません……みたいな事もありそう」
ダンジョンの更新は明日。リターンが遥かに大きい分、確かめてみる価値も大きい。
もしかしたら天才的な思い付きをしてしまったかもしれないと、心が浮つく。
「ん?この匂いは……」
そんな浮ついた心を落ち着かせるような香ばしい匂いが、洞窟の先から漂ってきた。
「確か、コーヒーの匂い……なような」
ダンジョン内で感じるはずのないものが、この先から感じる。
思わず走って、匂いの元を辿ると……見えてきたのは、石レンガの空間への入口だった。
「あそこからだ」
スン、と鼻を鳴らしあの入口がら濃いコーヒーの匂いを感じる。
俺は石レンガの拠点でコーヒーを飲んだ覚えはないし、あんな所に拠点への入口を開いても無い。
取捨選択の部屋みたいに、看板を介さずに入口が出現するような……そんな空間なのだろう。
入口から中を覗いてみれば……広い空間が広がっていた。
壁や床が石レンガである事は変わりない。だが今まで見てきた殺風景な拠点とは比べ物にならないくらい、沢山のものが置いてあった。
大きいカウンターが部屋の端に置いてある。相変わらず無人だが、機械らしきものが沢山並んでいた。
その横には……自動販売機?……に見えるような大きな機械も置いてあった。
そしてそれ以上に目を引くのは……焦茶色の落ち着いた色合いの木製のテーブルやイスが沢山置いてあること。
観葉植物のような植物も様々な種類が至る所に設置されていた。ここからではよく見えないが、壁にも何か立て掛けてある。
明らかに人工的に設置されたとしか思えない景色。
コーヒーの匂い。テーブルとイス。まるでお店のようなカウンター。
これではまるで……
「……喫茶店?」