第3話 森の怒りは終わらない 2; 樹に名前があるの?
二人は、より一層、細心の注意を払って、二百メートルに及ぶ竹藪とブナの林を駆け抜けた。
ほっとしたのも束の間で、またもやギョッとした。
巨大なモミの樹々――樹高八十七メートル――が、徒党を組んで待ち構えていたのだ。
「あれ、この樹って、クリスマスツリーだよね?ちゃんと若葉だけど……」
ことりは立ち止まりそうになって、木の葉に背を押された。
「突っ立つな、駆けろ!」
二人の行く手に、赤や青、薄紫など色とりどりの朝顔が開いて、紫に青みがかる紫陽花が盛んに咲いていた。
理由は分からないが、草花は普通の大きさだった。
(紫陽花が色付いてる!これ、本当に朝顔?昼顔かも、ひょっとすると夕顔?花が開く時間も、めちゃくちゃなの?)
ことりは不思議な光景を見る度に驚いて、その都度、後ろから木の葉に押し潰されて救われた。
「ちゃんと避けろ!何回言えば分かる、脳心頭おこすぞ!」
立ち上がることりの右足を、木の葉が踏ん付けた。
モミの化け樹々は、自身の化け枝を箒がわりに使って、二人の頭上すれすれを連続して掃った。
「ごめん、でも」
花々の美しさに目を奪われて、つい足が止まるのだ。
化け巨木の影戦士たち――ことりが命名した――は、広範囲にわたって右からも左からも、木の葉とことりを襲い続けたが、一向に当たらなかった。
「永久夏、おまえなんか、一生、高くなれねえよ!永久に、そのまんまだ!」
木の葉が、一番高いモミの化け樹を指差して罵った。
「樹に名前があるの?」
ことりは目を見開いた。
ここに来るまでも十分驚きっぱなしだったが、木の葉の瞳が険しかったので、はっとして口を噤むと、黙って耳を傾けた。
「あいつの右隣の樹、前に来た時よりも高くなってる。他の樹もそうだ。日光を浴びて、ぐんぐん成長してる。でも、永久夏は高くなれねえ!何でか分かるか?」
急にふられたので、ことりは、木の葉の質問を反復してしまった。
「何でか分かるの?」
木の葉が、にっと笑った。
「あいつの性格が、むちゃくちゃ悪いからだ」
「樹に性格があるの?」
ことりは驚きを通り越して呆れ返った。
(性格のいい樹なんて生えてないよ……)
「永久夏は、すかした野郎だ!仲間に、こう言ってたんだぜ。『俺が一番高いだろう、俺は真夏に愛されてる、だから俺にだけ光が来る、これが実力の差だ!』胸クソ悪い話だぜ」
「……癇に障る奴だな。確かに嫌な樹だ」
ことりは眉を吊り上げると、語気を荒げて永久夏を睨んだ。
「同じ樹で仲間なんだから、尊重し合うべきじゃないの。樹高を競い合うライバルもいるんでしょ。その樹に対しても、随分と失礼な言い方だ!相手を見下すような物言いをするんだね。僕、そういう奴、だいっきらいなんだ!かなりムカツクよね!」
仲間やライバルの樹々側に肩入れすることりを見て、木の葉は満足した。
「性格の悪い樹には限界がある!ある程度まできたら樹高は伸びねえ。性格の良い樹は伸び代だらけだ!人と同じで無限の可能性がある。何が実力の差だ!勝手に吠えてろ!雨の日も風の日も、本当に苦労して大きく育った樹は、自分と同じように努力する樹に、そんな言葉は投げ掛けねえ。偉そうにもしねえ、見下さねえ!仲間やライバルの頑張りにケチを付ける奴は、自分の頑張りを貶すも同じだぜ」
木の葉の言葉は、ことりの胸を熱くした。
「うん、トワナツは間違ってると思う。木の葉の言う通り、人と同じだよ。他人の努力を称賛できる奴が、実力を伸ばしていくんだ」
ことりも険しい顔をして言ったが、その後で、にやりとして永久夏を指差した。
「僕は君に同情する。太陽は世界を照らしてるんだ!樹高が伸びないのなら、可哀想な話だね。低くはならないけど、高くもなれないんでしょ。じきだよ、仲間にライバルに抜かれるのは!君は光に届かなくなる!いい気味だ、ざまあみろ!」
ことりが舌を突き出したので、木の葉が口の端を吊り上げた。
「けっこう言うじゃねーか。熱し易いタイプは損するぜ。次行くぞ!」
「バイバイ、アホナツ!次来た時は、君の頭上を飛び越えてやるから!今はせいぜい高みの見物してなよ!」
ことりは右目の下を、右手の人差し指で大胆に引っ張った。
それから、もう一回、舌を突き出した。
「べーっだっ!」
それを見て、木の葉が目を細めた。
「俺よりガキだぜ」
モミの化け樹々は、二人の会話に耳を澄ませていたので、もうずっと影の切れが弱くなっていた――応援してくれる子供たちを、これ以上は襲えない――彼らの想いは一致して、攻撃を止めた。
しかし、永久夏は傲慢な態度を崩さなかった。
「ほざけ、生意気な小僧ども!俺が一番だ!仲間もライバルも全員、蹴散らしてやる!おまえらなんぞ、俺の敵じゃない!おまえらごときが、俺に刃向かうな!」
怒鳴り散らして影を伸ばし続けたが、無駄に終わった。掠りもしなかった。
他の化けモミたちが、木の葉とことりを援護したのだ。
彼らのおかげで、二人は走る気力を温存できた。体力も多少だが回復した。
しかし、モミの化け若葉が痺れを切らして、自分たちの意志で、はらりひらりと化け枝から舞い降りた。
ざわざわ、ぞわぞわ、ガサゴソと不気味な音を立てて自ら影を生み出すと、水溜りのような巨大な楕円を作って、ことりと木の葉の足元を攻撃したが、失敗に終わった。
二人は軽やかに躱かわすと、ことりが木の葉の首根っこを掴んで、六十センチ浮いたのだ。
「おまえ飛べるのか?」
木の葉が目を丸くして聞いたが、ことりは返事を濁した。
「あ……ちょっと……」
化け若葉の水溜りを乗り越えた二人が、何とか化けモミ林を脱すると、樹高八十二メールの樹々が突っ立っていた。
(街路樹だ、公園樹かな?)
どちらにせよ、森に生えるのは、よしとする。しかし、またも季節が不自然だ。
(葉が黄色、秋エリア?)
化けイチョウの群れは、目一杯、大振りの枝を上下に揺すって、リズミカルな音を響かせた。
「ねえ、ジングルベルって聞こえるんだけど。冬のエリアなの?」
「残念だな、サンタは来ねえよ」
化けイチョウは、影を自由自在に動かせつつ、巨大な銀杏を、ぼとぼと落として通行の邪魔をした。
黄色い銀杏は、落ちる度ぐちゃぐちゃに潰れて、強烈な匂いを発した。
「うわっ、くせえ!」
三時間は経つだろう――木の葉も疲労が溜まっていた。
飛散した化け銀杏を、誤って踏むことが多くなって、その度、顔をしかめて呻うめいた。
「クソッ、腹立つぜ!靴までくせえ!」
木の葉は、右手の人差し指と親指で、上向きの鼻ぺちゃをつまんだ。
ことりは無言だったが、内心は立腹していた。
(僕も銀杏きらいだよ、おいしいって言う人の気が知れない!全部、焼き払ってやりたい!)
二人は、化け樹と化け樹の間で生まれる光を、化け枝と化け枝の隙間から射す木漏れ日を追い掛けて、根限りのスピードで逃げ切った。
そうして激怒のままに、イチョウ通りを後にした。