第1話 牡丹餅 と赤目守り
人と妖怪は永遠に相容れない。
住む世界がてんで違う、と言いたいところだが、実際はそうじゃない。
古往今来、日本は妖怪の国なのだから……故に、人と妖怪の仲を取り持つ《奉公屋》が存在する。
☆ ☆ ☆
小守寮で手渡された、小豆色の小冊子の一ページ目に、こう書かれてあった。
『 赤目守り――赤い目をした森の妖怪。おかっぱ頭で、ニコニコ顔。
目は、くりくりと愛らしい。しかし、お歯黒だ。
もしも森で出会ったら、頭を下げて申し上げなさい。
「あなた様のおかげで森は安泰です。どうぞお納め下さい」
とびきり美味しい牡丹餅を献上しなさい。
そうしなければ……赤目守りは、どこまでも、どこまでも追って来る。
その速いこと速いこと。
あっという間に捕まって、一生森から出られない。 』
ことりは、森に入ってすぐ、赤目守りと出逢った。
童の姿で小豆色の浴衣を着て、赤い下駄を履いていた。
「団子は、ダメだった」
木の葉が、神妙な顔つきで首を横に振った。
「試さないでよ!しかも、どろ団子!僕の分もあるから大丈夫って君が言うから、信じたのに……」
「金がねえ時は、ツケだ。どろ団子で勘弁ってことに、してくれなかった」
ことりは、入寮初日に泣きを見た。アホで無謀なルームメイト、柏木 木の葉のせいで。
木の葉が赤い包みから取り出したのは、どろ団子だった。
ことりは目を剥いて、胸中で嘆いた。
(せめて赤土で作ってよ)
当然だが、赤目守りには睨まれた。
「牡丹餅おくれ、ほっぺがおちる牡丹餅おくれ」
そう言われても、無いものは無い。戸惑うことりを、木の葉が引っ張った。
「逃げるぞ」
力強い声に従った結果、巨木の影に追撃されて、挙げ句、迷った。
「餡団子うめえし、気に入ると思ったんだ」
「じゃあ、買おうよ!ケチなの?」
「財布に聞いてくれ。空だけどな」
木の葉が真面目腐った顔をして、どろ団子を後ろに放り投げた。
「それを先に言ってよ!お金貸したのに!こんな話、聞いてないよ。牡丹餅をあげないと、どうして影に襲われるの?」
森の怒りは、まるで暴風雨だった。
森には、この世のものと思えない巨木が、何千本と生えていた。
二人は、ひたすら走った。どの枝の影も、地面を打ち付けて終わる。
その度、ビジャッバジャッ、ドドドー、ザババー、大きな音が響き渡って、大雨が降っているようだ。
あちらこちらで本物の枝と枝がぶつかって、竜巻のような強風が発生した。
獰猛な風が巨大な樹々を持上げると、ビュオー、ヒュオオー、ゴボオオー、おぞましい風音が轟いた。
「ねえ!この森、何もかもおかしいよ!」
山桜が満開で、イロハもみじは真っ赤、竹藪の中に、ブナの林があった。
(ブナは、高い山地に生える木だよね?七月に枯れるの?どうして、夏に山桜が咲くの?新種?イロハもみじは、普通、秋に紅葉するよね?この森、春と秋が一緒にくるの?)
ことりは、木の葉に聞きたかったが、そんな余裕はなかった。
それで、常識という単語を忘れることに決めた。
「ぼけっとすンな!竹藪に入るぞ!」
木の葉が大声を張り上げた。
前方に、樹高七十五メートルの南天があって、巨大な青い実を付けていた。
ことりは自分に言い聞かせた。
(どうして南天の実が青いの?普通、赤いよね?って考えちゃダメだ……一粒が一戸建ての大きさなんだから、突然変異したって不思議はないよね……)
ブナの巨木は、どれも樹高が七十メートル以上あった。
(樹齢何百――ううん、何千年かな?立派な樹だな)
ことりは安気に考えたが、太い幹を見てゾッとした。
ひび割れが一つもないのだ。樹皮もなかった。さながら新品の玩具だ。
幹の太さは、六メートル前後の真新しい小型ボートを三艘、連結した分ほどある。木肌は滑々で、つるつるで、ニスを塗ったテーブルのように光沢があった。
改めて見渡せば、どのブナも、枝は上から下まで四方八方、好き放題に生え広がっている。
一本一本の長さが二十メートルを超えて、太さも十メートル以上あった。
ほとんど化物だ。
そんな化け枝が森を覆うので、普段ならば日光は地表に届かない。
だが、鬱蒼とした森に光が射した。
森の天辺で、カラスの群れがギャアギャア鳴くと、化けブナたちは大地に根を張ったまま、巨大な化け枝を波打つように絶え間なく揺り動かして、光を取り込んだ。
それを見て、ことりは最初、腰を抜かしそうになった。
(この森、ほんとに最悪だ!もう帰りたい……来るんじゃなかった!)
森の中は、どんどん明るくなったが、冷たい風が、ことりの耳元でビヒュウウッと唸って、夏の森に冬の匂いが漂った。
巨大な枯れ葉の海に、二人は飛び込んだ。
「赤目守りを怒らせると………はあ………どうして……森が怒るの……僕、もう無理……一旦、休もう」
ことりは、掠れた声で訴えた。
二人とも汗だくで息は切れていたが、逃げ足は、速かった。
動きも機敏で、逃げ始めてからの一時間は、軽々と影を飛び越していた。
「アホ、休めるか!どこも戦地だ」
木の葉は、Tシャツの裾を持ち上げて、額から滴る汗をゴシゴシぬぐった。
ことりは、青い唇を噛み締めて、かじかんだ両手を擦り合わせた。
Tシャツ一枚と半ズボン、これに真冬の寒さが加わって、吹き出る汗が体温を奪っていく。
竹藪の中、ブナ林は、どこまでも続いた。
ことりと木の葉は、影のない所、光に飛び入って進んだ。
踏み込むのは一瞬で、すぐに新しい光へ飛び移って、化けブナたちの間を突っ切った。
(影踏みと逆だ。影踏み好きだったな……)
ことりは懐かしくなって、一瞬、くすっと笑った。
化けブナの影を、時には飛台の代わりにした。
助走をつけて思い切り踏ん付け、飛び越したが、足の裏がジーンと痺れた。
「どうして影が堅いの?」
ことりが振り返ると、避けた化け枝の影が地面に突き刺さっていた。
「影が刺さるって、どういう原理?」
「頭で考えるな!前向け、前!」
降って湧く疑問に、解答は得られなかった。