湾岸ディナール事件
その日は、外来のお客様の一団でにぎわっていた。
メインバンクの若葉銀行の人たちだ。封筒のロゴでわかる。
支払いは、従業員証ではなくクレジットカードを使った。
彼らが出ていくとアリサさんの眼がキラーンと光った。
「忘れ物を確認するわ!」
バッシング(食器の片付け)とともに、アルコール除菌をする。
そのあとの動きがいつもとは違った。
アリサさんは、テーブルの下を念入りにチェックする。
そういえば、社外の人が利用した後には、盗聴器や何かのチェックをするようにマニュアルには書いてあった。これを当たり障りのないように「忘れ物確認」と言う。
……系列の銀行でも、やるんだ
厨房で洗い物をしているときに、アリサさんにそのことをきいてみた。
「系列だから厳しい、てわけじゃないけど、企業内スパイってよくあることだし、注意しないとね」
「そんなことがあるんですか」
「そうね。年に一回程度はあるわね。そもそも、若葉銀行が設立されたのはインサイダー取引が原因だったのよ」
「はぁ?」
驚きの発言だった。
それはまだアリサさんが入社するよりもはるか前のこと、根強い円高が進んだことがあった。
通貨のAIによる高速取引が当たり前になった今ではとうてい考えられないことだが、当時はまだ「金利の高い通貨が買われ、金利の低い通貨が売られる」というのが常識だった。
そして、一貫して米国の金利は高く日本の金利は低迷していた。
にもかかわらず、円がどんどん買われていったのだ。
原因は、中東諸国の交易用通貨の組み替えだった。
オイルダラーという言葉がある。
中東の産油国が原油を売って蓄えたドルのことだ。
当時、産油国は、国際決済にドルだけを使っていた。
しかし、二〇〇一年のアメリカ同時多発テロ事件以降、中東諸国は米国への不信をつのらせていた。
そこで、湾岸諸国は新たな通貨バスケット「湾岸ディナール」を作ることにした。
保有しているドルの、三分の一をユーロに、三分の一を円に換えることをめざした。
このようにして用意した「湾岸ディナール」を、新たな通貨単位としようとしたのだ。
当然、ドルは売られ、ユーロと円は買われる。
それも、毎週のように。根強く。
これは、世界的な経済の混乱を招いた。
日本の政権交代の一因になったとも言われているほどだ。
「で、当然ながらローエンタール商会でも、湾岸ディナールの情報はつかんでいたわ。それに乗ったのが会計士ギルドなのよ。がんがんドルを売って円を買いまくったの」
「はぁ」
……その頃まで会計士ギルドは残ってたんだ。
私の驚きは、世界経済に与えた影響よりもむしろギルド制のほうだった。
「世界的な情報にもとづいての取引だから、インサイダー取引とは言えないはずなんだけど、金融庁が激怒したのよね。それで、社内金融部を分離して、色んな銀行と合併して若葉銀行にしたってわけ」
……そういう因縁があったんだ。だから若葉銀行なんて小さめの銀行がうちのメインバンクなんだ。
「だから、若葉銀行の人たちには注意しないと行けないの。また湾岸ディナール事件のようなことが起きたら大変でしょ」
しかし、私は恐ろしいことに気づいてしまった。
ローエンタール商会のギルドは、ワールドワイドな連携を保っている。
次に妙な為替変動が起きたとしても、必ずしも日本が震源地になるとは限らないのだ。