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十一時には床になる

 ビルの館内放送が十七時のチャイムを鳴らした。終業時間のお知らせである。

「おや、そろそろ夜シフトの時間ですね」

 熊さんが、謎の言葉を発した。

「夜シフト? 残業ですか?」

「ちょっと違うんだな。ああ、九頭竜ちゃん、それも教えてなかったのか」

「いえ、それは私達が悪いんです。この子、途中入社で、まだ研修中なんです」

 カナさんが伊藤専任部長の機嫌をそこねまいと丁重に謝る。さっきとはえらい態度の違いだ。

「というと、喫茶室の夜の顔を知らないんだな」

 どきりとする発言をする熊さん。

「もうじき二週間…… え? 今日から研修開けですよ。どうしましよう。何も教えてない!」

 真子がシフト表を見て慌てる。

「なんだ、ここのメイドはあいかわらずポンコツだなあ。よし、百聞は一見にしかずだ。体験して行けばいい。どうせ今夜は私の誕生日会なんだしな。私のゲストとして招待しよう」

「はい~?」


 というわけで、私はメイド服から普通のOL姿に戻り、従業員証をスキャンして退勤した。

 誕生日会が始まるまで、ビルのなかで適当に時間をつぶすことにする。

 今までずっと九時から五時の生活をしていた私は(もちろん、ローエンタール商会に転職後のことだ)、今まで知らなかった各階をうろつくことにした。

 最上階から数階は役員室と特別会議室になっている。驚くべき重厚さだ。用事がなくては入れない。退勤後の私が入れるのは、三十階と二九階の社員食堂くらいなものだ。ここは、ほぼ毎日お世話になっている。そういえば、エランドの人が芝麻醤(チーマージャン)を調達してくれたのはここの厨房だったのかもしれない、などと思う。他のギルドのことは詮索しないのがこの会社のルールだ。

 そして、他の階は何をしているのかさっぱりわからない。ただデスクがならんで書類が積んであったりする。


 社員食堂は、予想に反して混んでいた。あそこにたむろしているガタイのいい人たちは、警備ギルドの面々だろう。安くておいしい社員食堂は、終業後の若者が胃袋を満たすためにも役立っていた。

 テーブルにつき、メニューを見る。タブレット方式だ。

 コーヒーやジュースといったメニューは、単品では頼めない。かといって、晩ご飯にするのには時間が早い。デザートの欄からプリンを選ぶ。

 社員食堂なので、タブレットに表示が出たら自分で受け取りに行く。喫茶部のように誰かが運んでくれるわけではない。

 社員食堂の運営はどこの管轄なんだろう。合理化の極致で、喫茶部とは大違いだ。

 「日本人がなくしたのは無駄ではなく余裕だ」とよく言われるが、食堂を見ているとそれが実感される。

 だらだらとプリンをつつきつつ十八時のチャイムを待つ。

 他の席は、友達同士で盛り上がっていて、自分だけぼっちの感じだ。

 いたたまれなくなる。女子は群れを好む生き物なのだ。

 その時、スマホが振動した。

 カナさんだった。

「お願い、酒屋でお酒を調達してきて! エランドの連中に見られないようにしてね! あ、銘柄はメールするから。読後焼却でよろしく」

 ミッション開始である。

 私は遅れてきたメールを手帳に書き写すとすぐにメールを消し(これが読後焼却)、エレベーターに向かった。


 私がタクシーで向かったのは、別の区の高級酒専門店だった。近くの酒屋ではそろいそうになかったからだ。

 とりあえず手近の店員をつかまえて、目的の酒の名前を告げる。

「え、え?」

「フランスの、蕎麦ウィスキーです。可能なら、オールドボトルで。あるだけ下さい。あと、シャンパンの……」

「すみません。店長を呼んできます」

 呼んでこられた店長は、疑わしそうな視線を秘めつつ私を見てきた。

「在庫はございます。……失礼ですが、お支払いは何でなさいますか」

「これで」

 カナさんから渡された企業用クレジットカードを示す。

「ローエンタール商会、喫茶部……」

 しばらく首をかしげてから、カードをレジカウンターに置く。

「わかりました。しかし、何分にも高額かつ大量の荷物になります。サービスでお運びいたしたいのですが、いかがでしょう」

「はい、大丈夫ですよ」

 私はにっこりと微笑んだ。


 ローエンタール商会本社ビル。

 その地下駐車場に入るには、荷さばき場の奥にある専用ゲートを通らなければならない。

 爆弾テロを警戒して、一般車両は入れないようになっているのだ。

 酒を積んだライトバンは、案の定専用ゲートで止められた。

「こんばんは。喫茶部の搬入です」

 私が社員証を示しても、ゲートは開かなかった。

「取引業者以外の車ですので、積み荷を確認させていただきます」

 若くて真面目で融通のきかないタイプだ。開宴の時間はせまっていた。

「上の方を呼んで下さい。急いでいます」

「今、上の者は出払っていまして……」

「それは、喫茶室で開かれる、伊藤専任部長の誕生日祝いの宴ですね。そこに必要なお……お飲み物なんです。上の方は、そちらに参加されるのですよね」

「はい。……しかし、自分の一存ではなんとも……」

「あーっ、頭が硬い! 内線を使わせて!」

 私は守衛室から喫茶部に電話をかけた。


 永遠とも思える数分が過ぎた。

 真子さんが警備部の偉いさんを捕まえたらしく、そこから守衛室に怒りの電話がかかり(怒鳴り声が外まできこえてきた)、私と新規参入のライトバンは無事に搬入用エレベーターへとたどりついた。

 ライトバンが一台、すっぽりと入るエレベーターである。私も乗るのは初めてだ。

 二十六階につくと、真子カナコンビが最敬礼で迎えてくれた。

 警備部の人たちの手を借りて、喫茶室に段ボール入りの酒を運び込む。

 ウィスキーは卓上へ、シャンパンは冷蔵庫へ。

 酒屋の店長は何度もお辞儀をしつつ、エレベーター内で別れを告げた。


 喫茶室の内部は、照明が落ちてがらっと雰囲気がかわっていた。

 歴戦の勇者とおぼしき背広姿の男たちが、立食の形になったテーブルを囲んで開宴を待ちかねていた。

 そして、一番驚いたのが一番奥の壁が開いてバーカウンターができていたことだ。喫茶部にこんな秘密があったとは!

 壁際には、昼勤務の私が初めて会う夜勤務のメイドたちがいた。

 短いスカートのフレンチメイドスタイルで、黒いストッキングが妖艶だ。

「こ、これが夜シフト……」

 港区の夜景を背景にした妖艶な世界。

……これが、外資系の実力か!

 私は呆然と立っていた。


「ハッピバースデー・トゥーユー、ハッピバースデー・トゥーユー、ハッピバースデー・ディア・熊さーん、ハッピバースデー・トゥーユー」

 伊藤専任部長は、いつの間にか呼び名が熊さんになっていた。メイドたちが今日つけたあだ名が本採用になったようだ。

 そして、当の熊さんはでれでれである。可愛いメイドさんを前に、こわもてでいられる男は少ない。

「あー、ようやく現れたな、新人メイドくん」

 私を見つけた熊さんが手招きする。

「今日のスペシャルゲスト、大江ルナ君だ。この子は、将来のお茶子ギルドをひきいる逸材である!」

 拍手で出迎えられる。肩に手をかけられたけど、悪い気はしない。

「今年は、アリサちゃんじゃないのか」

「よっ、この浮気者!」

 食前酒(アペリティフ)で軽く酔ったおじさん連中がからかう。

 シャンパンは、すでに冷やした分があったのだろう、カナッペと共に真ん中のテーブルに並んでいた。ポン、ポンと景気のよい音がして、シャンパングラスに注がれる。

 その横のテーブルには、日本酒が何本か並ぶ。これも有名な銘柄ばかりだ。

 カクテル類は、バーカウンターで受け取るようだ。

 食事も、とてもおしゃれだった。

 パテ、蒸し物、カプレーゼ、ジュレ、シュリンプカクテル。

 おそらくは近くのフランス料理店から配達されたであろう数々の品が並ぶ。

 そして、見た目よく握り寿司が配置された寿司桶。これは芸術だ。

 ウィスキーのテーブルには、私が調達したウィスキーが並んでいる。ちょっと誇らしい。

 夜メイド姿のカナさんがそばに来たのでたずねてみた。

「私もお手伝いした方がいいでしょうか」

「ゲストなんだから、黙って坐ってればいいの。あなたの仕事は、思いっ切り楽しむことよ。何か取ってきますね」

 私は先輩メイドにサーブされ、珍しいウィスキーとワインとシャンパンに酔いしれてベロベロになった。そして、夜の11時には床に横たわっていた。

 

フランス産の蕎麦のウィスキー。EDDU SILVERです。

シャンパンは、ル・メニルです。



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