熊が来た!
喫茶室には、色んな国の色んな人種のお客様が来る。
今ではニュースでしか見なくなった、中東の王族がかぶるターバン? かぶり物? よくわからない何かをかぶった人や、真っ赤な円筒形の帽子をかぶった中東系の人、中にはウェデングドレスのようなゴージャスなドレスを着たお姫様のような人も来る。
喫茶室の社員――おっと、従業員だ、社員とは本来は株主の意味なので下手に使うと叱られてしまうのだ――でいると、万博にいるよりも多彩な服装が見られる。それが楽しみだったりする。
さて、今日の最初のお客様はどんな人だろう……
新人の務めとして準備室でカトラリー(スプーンやフォークやナイフなどの金属器類)を磨いていた私は、カナさんの素っ頓狂な声に驚かされた。
「熊が来た!」
嘉平カナさん。私の三歳年下、店長が有給休暇をとっているので、今日の店長代理である。
ホールをのぞいて見る。
……確かに、熊だった。
熊の毛皮のコートを着て、おそらく二メートルはあろうというごつい体躯、横幅も広くもしゃもしゃの髭面、そして強い獣臭を漂わせている。
外国からのお客様には独特の臭気を漂わせている方もいる。が、それにしても限度があった。今朝の最初の客は、まるで動物園の下水溝から上がってきたばかりのような臭いなのだ。
その熊人間は、背中に背負った大きなリュックサックをどさりと床に置くと、近くの椅子を引いてどっかと腰をおろした。
「警備部を呼びましょう!」
マコっちゃんが、硬直したカナさんにささやいた。
円満井真子、カナさんの一個下のお茶子だ。先任お茶子二人の意志が合致した。
「はいな!」
カナさんが、壁の緊急警報ボタンを押す。
「待って!」
私の声は虚しく空をさまよって行った。
ばたばたばた……
「警備部です。どうかしましたか」
わずか五秒ほどで屈強な男たちがあらわれた。そりゃそうだ、警備部の本部は同じ階の反対側のフロアがなのだから。
おそらく朝礼中だったろう制服の男たちは、一瞬で事情を察したようだった。
「失礼します。警備本部までご同行願います」
「なんだと、こらっ」
熊が吠えた。
雷のような一喝だった。
「おたずねしたいことがあります」
警備部は、ひるみつつも数を頼みに布陣をかためる。
熊が立ち上がる。
「この若造が……」
熊が懐に手を入れた瞬間、警備部が動いた。
「制圧!」
プロレスラーのような体格の男たちが一斉に飛びかかる。
けれど、熊男は見た目以上に強かった。
腰を落とした低い構えからのカウンターパンチ。
そして連続する掌底がみごとに決まる。
ある者は拳でみぞおちを、ある者は胸の真ん中を突かれ、ある者は強烈な蹴りを膝にくらう。テーブルにセットされた砂糖壺はふっとび、椅子が何脚か壊れる。
「待って! 待ってください! 戦闘中止!」
双方が距離をとったところで、ようやく私の叫びが通じた。
「お客様、大変失礼をいたしました。同僚が早とちりをいたしました」
進み出て、深々と頭を下げる。
カナさんとマコっちゃんの視線が痛い。けど、ここは私がふんばらねばならない場面だ。
そもそも、この馬鹿げた争いは、誇り高きローエンタール商会喫茶部にあってはならない失態だ。
「お客様、お手数ですが身分証の提示をお願いします」
そもそも身分証か入館許可がないとこのビルには入ることが出来ないのだ。
「う、うん。最初からそのつもりだったのだ」
熊男氏はコートからボロボロの財布を取り出すと、プラスチックのカードを取り出した。
まさしくローエンタール商会の社員証、である。
「調査探検事業部専任部長、伊藤俊巧」
……熊らしくないおとなしそうな名前である。
「警備部の方、ご確認をお願いします」
「う、うん」
警備部の若い連中は泡をくっていた。
「専任部長?」
「調査探検事業部だと?」
一人が端末を取り出してカードをスキャンする。
「そんな部門があったのか?」
「きいたことないぞ!」
ざわついている。
「あー、君たち。探検ギルドの話は聞いたことがあるかな」
「ヤー、イエッサー!」
「そう、ローエンタール商会草創期からの歴史あるギルドだ。私がその最後の一人なのだ」