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第一章 唄をうたおう、君のために 肆


 時間は少しだけ遡る。月下と蓮が“埃とごみ論争”をした日の日中だ。


 雪国の外交官として所用を済ませた霞は、花国の視察という名目でこっそり観光を楽しもうと町に出ていた。しかし、そこで自身の失念を悟り、頭を抱える。


(参った……)


 顔立ちは地味だが白銀という珍しい髪を持ち、且つ、長身の彼は(こと)のほか目立つ。大通りを少し歩いただけで人目を攫ってしまう程に。

 立場上、注目を集めるのは避けたいし、彼自身も人目があまり好きではない。これ以上見られるのはごめんだと、霞は道の外れに向かった。すると、つい先日出会ったばかりの人物が通りを横切るのに気づいた。

 保護した幼子を引き渡した娘――月下である。相変わらず野暮ったい作務衣を着た、色気の“い”の字もない彼女に苦笑が漏れた。あれでは確かに間違える。


 霞は苦い笑みを浮かべたまま、彼女に声を掛けることなく踵を返した。ところが慌てたような足音が背後で聞こえ、彼は心の準備を余儀なくされる。そっと立ち去るつもりが、目立つ風貌のおかげで見つかってしまったのだろう。


「霞さん!」


 聞き覚えのあるこの声は、予想通り月下のものだ。彼は滑らかな動きで振り返り、花が綻ぶように微笑む。


「こんにちは、月下さん」

「こ、こんちくわ」


――噛んだ。

 霞が目を丸めると、月下は頬を染めた。


「あの子は元気ですか?」

「え? あ、はい」

「俺ね、あれからずっと公館に滞在してたんです。やっと用事も済んだし、明日の朝一番で発つことになりましたけど。最後に月下さんの顔が見れて良かった」


 そう言うと、月下はますます赤くなる。言葉を失ったように口を噤む様子に、霞はこめかみを掻く。


「……もしかして、緊張してます?」

「す、すみません」


 彼女が申し訳なさそうに眉を垂らす。何だか苛めている気分になり、霞は話題を変えた。


「今日明日(あす)にでも敦盛様からお呼び出しがあるかもしれませんよ」

「敦盛様から?」


 飛脚がやって来たのは、ちょうどその時だった。

 額当てに官邸専属の印を持つ彼らは、数いる飛脚の中から厳選された者達である。官邸関係の届け物は緊急を要するが多いため、選考基準の一つに足の速さがあるのだが、彼らはその速さで強盗さえ回避してしまう。


「長様からです!」

「ご苦労さまです」


 受け取りの署名をすると、飛脚は軽い足取りで走り去った。さっそく書簡を解いて手紙を読む月下。ちらりと見えたのは、敦盛の達筆で簡潔な文字だった。


――明日、官邸へ来ルコト。


明日(あす)、官邸へ来ること、だそうです。霞さんの言っていた通りになりましたね」


 そう口にしながら見上げた月下と、書簡に目を落としていた霞。偶然にも二人の目はばっちりと重なった。そして、どういう訳かそのまま見つめ合い、何故だか気まずい空気が流れる。


「あの……それでは私、帰りますね。どうか、お元気で」

「ありがとう。月下さんもお元気で」


 小さくなっていく背中を見つめ、霞は後ろ頭を掻いた。


「ほんと……参った……」


 ぽつりと零した彼の呟きは、風に溶けて月下の耳には届かなかった。







 蓮は日が傾く頃に帰宅すると、冷蔵庫を開け、庫内を冷やす氷に頬を寄せて夜のことを考えた。

 今日は月下の帰りが遅い。なので彼女の知り合いが訪ねて来るのだが、この家に他の人間を入れることが嫌で堪らないのだ。それなのに、月下の困った様子を見た時、無意識に諾と頷いていた。


(なんだろう、これ。へんな気持ち)


 彼女を思うと心臓が高鳴る。知らず知らずに漏れた彼の吐息は、心なしか熱っぽいものだった。

 落ち着くために、蓮は最近覚えたばかりの唄を口ずさんだ。ひどく調子外れだが、彼自身は決して音痴ではない。誰かさんの鼻うたでしかそれを知らないため、同じ部分で音を外す。


 ふと、外に知らない気配を感じて蓮が顔を上げる。それは匂いと共にどんどん近付いていた。


(……来た)


 戸を何度か叩いた後、控え目に「ごめんください」という、年配の女の声が聞こえた。寝台の下に潜り込んで様子を窺っていると、しばらくして鍵を開く音が聞こえ、彼はがっかりと肩を落とす。居留守を使えば立ち去るだろうと期待していたが、まさか鍵を預かっていたとは。


「蓮君? 居ないのかしら? それとも隠れてるの? おばさんね、月下先生に頼まれてご飯作りに来たのよ」


 女は辺りを探りながら足音を鳴らす。玄関から徐々に、ゆっくりとした動作で。それは蓮の隠れる寝台の前までやってくると、白い足袋を履いた足がぴたりと止まった。膝と手を突くのが見え、彼は固く目を閉じる。怖い――こちらを覗きこむ気配に体が震えた。


「あら、こんな所にいたのね。さあ、出てきなさいな」


 女は寝台の下に腕を突っ込むと、乱暴な手付きで蓮の襟元を掴んだ。とても穏やかに言葉を紡ぐ反面、蓮の体は雑に扱う彼女は、笑い声を含んだ声で「こんにちは」と言っている。小さな隙間で暴れてみたが、自分の身を傷つけるだけで一矢報いる事は叶わない。怯えた幼子を引っ張り出すことなど、衰えた女の力でも容易すいもの。間もなくして、とうとう彼は寝台から引きずり出されてしまった。


「はなせ!」


 次の瞬間、彼女の腕は蓮によって噛み付かれていた。





 同じ頃、花国官邸では熱盛の執務室で月下が小切手を凝視し、体中の毛穴から冷や汗を流していた。


「い、いけません!」


 卓の中心に置かれているのは問題の小切手。それを挟むように、彼女と熱盛が向かい合っている。敦盛はにこにこと。一方の月下は蒼白となりながら。


 高級感のある紙に墨で書かれているのは、今後どれだけ生きしようとも、絶対に目にすることがないだろう金額だ。月下が学舎で貰っている給金の数年分に等しい。


「こんなもの、頂けません!」

「そう言わないで。あちらの方は蓮君と、蓮君を引き取った君への支援だと仰っているんだ。霞殿が何日も花国に足止めされていたのはこれを受け取るためだよ」


 月下が蓮と出会った日、霞は事の経緯を報告書にし、伝達鳥で“とある場所”に送ったという。その返答が昨日、小切手と共に届いたそうだ。彼が言っていた“用事”とはこの事だったのかと、月下も合点がいった。しかし――


「そもそも、その方は何処(どこ)何方(どなた)なんですか?」

「それは言えない。その方の素性は明かさない約束なんだ」

「だけど、こんな大金を頂くなんて……」


 渋る月下を見据え、敦盛は卓に肘を付き、顎を乗せた。


「彼を押し付けておいて何だが、君の給金だけで子供を養っていくのは無理だ。もちろん、その分は私が助けるつもりだったがね。このお金は蓮君の将来に必要なものだよ。受け取りなさい」

「でも……」


 月下が頑なに渋る理由は、結局のところ金額なのだ。


「では、こうしよう」


 そう言うと、敦盛は小切手を懐にしまった。


「これは私が責任を持って預かろう。そうして毎月、決まった額を君に渡そうじゃないか」


 倹約家の月下に限って心配はないが、無駄遣いの防止になるし、誰かに騙されて奪われることもない。大金を抱え込む心労も多少は和らぐ。小心者で人の良い彼女に配慮し、これくらいはしてやろう。しかし、これ以上は譲歩しない。

 胸の前で腕を組み、態度でそう示す敦盛。彼の気迫に負け、月下は小さく諾と返した。


 実は、『金が無くなり次第、いくらでも追加するので連絡をするように』と言われていたが、今はまだ伏せておくことにした――後に敦盛はそう語った。そんなことを話せば、彼女が気絶でもするのではないかと心配したからだ。







 月下が官邸から出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。

 早く帰らねばと思うが、足が鉛のように重い。


(何だか凄く疲れた。今日は早めに寝よう……)


 寝不足が続いていた。それというのも、蓮と暮らし始めた彼女には一つの目標ができていた。目印はまだぼんやりしているので、将来の夢といってもいい。日常生活に加えて蓮の世話、そして彼の就寝後、その目標について独学で学んでいる。そのため、以前に比べて睡眠時間が大幅に減っていた。


(そういえば、蓮……大丈夫かな)


 唐突に理由の分からない不安が訪れた。

 今日は月下の帰宅が遅いため、同僚の教師に子守を頼んでいる。昨日、その事にわだかまりを見せていた蓮。彼がいいと言ってくれたので予定通りに同僚を家に呼んだが、何故か今になって嫌な予感がする。


 月下は疲れも忘れ、焦燥に駆られるまま大急ぎで走った。そして、もどかしい思いで玄関を開く。


「ただいま帰りました」

「あら、月下先生。お帰りなさい」


 奥から顔を出したのは月下の同僚である年配の女教師だ。


「今日はありがとうございました。あの、蓮は良い子に……」


 言葉はそこで止まった。包帯の巻かれた腕が目に入ったのだ。昼間、学舎で会った時には彼女の腕にそんなものは無かった。

 月下の視線に気付いた彼女は朗らかに笑う。


「救急箱を勝手に使わせてもらったわ」

「いいえ、それは構わないのですが……」


 まさか、この怪我は蓮が負わせてしまったのだろうか。包帯の上からやんわりと触り、腕の具合を確かめた。


「噛まれただけよ。血は出たけど、それほど痛くないわ」

「何てことを……すみません! 本当にすみません!」


 口から飛び出した詫び言はまるで悲鳴だった。嫌な予感はこの事だったのだ。大変な事になってしまった。月下は床に額を擦り付けてひれ伏した。


「月下先生、頭を上げて」


 大丈夫よ。気にしないで。そう言いながら肩を支え、月下の体を起こす彼女の微笑みはどこまでも温かい。懐の深さに涙が出そうになる。


「ねえ、月下先生」

「はい」


 本当に、本当に心から尊敬の念を抱いたのだ。


「長様の言いつけとはいえ、あなたも大変ね。あんな野蛮人を押し付けられて」


――その言葉を聞くまでは。


「……は?」


 この人は今、何と言ったのだろう。間抜けにも、言葉の意味が理解できずに聞き返した。その間にも彼女は、いかに月国の民が教養なく、無骨で不作法かを説いている。高揚して喋る様は癇癪に似ており、月下を嫌な気分にさせた。


「でもね、小さな時からしっかりと躾れば従順に育つものよ」


 ついさっきまで温かいと感じていた彼女のえびす顔に胸がざわつく。


「蓮はどこですか」


 気配がしない。隠れているだけと思えないのは、気味が悪いほど優しい笑みのせいだ。月下は彼女を押し退けて部屋へ向かった。

 まず、玄関から一番近い居間を覗く。物がぎっしりと詰まった棚と、卓しか置いていない部屋に蓮の隠れる場所は無い。すぐに通り抜け、隣の寝室に足を向ける。襖を開けると蓮が寝台で寝ているのが見えた。しかし、ほっとしたのも束の間、異変に気付いた彼女は彼に駆け寄る。


「蓮!」


 彼は敷布で寝台に括り付けられていた。


 ずいぶん暴れたのだろう。縛られた肌が布と擦れて赤くなっている。けれど、それよりも彼女を打ちのめしたのは、果実のように腫れた頬。瞳から顎まで筋を作る涙の痕が、彼の抵抗を物語る。


「この子を殴ったのですか?」


 目眩を覚えるほどの怒りが体中を巡る。険のある声を抑えることができない。感謝は欠片も無くなった。だが、そんな月下を目にしても、彼女は泰然自若(たいぜんじじゃく)を崩さない。


「どんなに可愛い見た目でも月国の子よ。関わるなら本気を出さないと。それが本当の意味でその子と向き合うってことじゃないかしら」


 まるで子供達を諭すような言い方だ。自分の考えに大いなる自信を持っているからこその口調。

 月下は必死に言葉を選んだ。感情に任せて発した言葉はただの罵りになる。そうなれば蓮の、強いては、彼を保護した霞や敦盛の立場をも悪くしてしまう。


「しかし、縛った上に手を出すのはどうかと思います。学舎でのあなたは、決してこんな事はしないはずです」

「それは普通の子が相手だからに決まっているでしょう」

「……っ!」


 呆れを含んだ言葉は、月下の地雷の見事に踏んだ。


『それは、お前が普通じゃないからに決まってるだろう』


 大きく頭を振った。これ以上、記憶を浮上させないために。そして対峙するために。彼女に向き合った時、月下の表情は凛としていた。


「お帰りください」


 互いの意見が拗れている今、このまま話し続けるのは賢明ではない。


「今日はありがとうございました。この事は後日、こちらからお話をさせて頂きます」


 冷淡な月下の口調に彼女も驚いたようだが、素直に帰り支度を始めた。


 玄関が閉まる音を背後に聞きながら、月下は深いため息を漏らす。


(……冷静な対応ができただろうか)


 言葉は言霊だ。放つ際は十歩先を見なければ後で自分の首を絞める。尤も、先ほどは一歩先を見るのがやっとだったが。


 敷布を解いてやると、月下は眠る蓮の髪に触れた。泣き疲れて眠る彼の呼吸は水っぽい音を立てている。真っ赤に腫れた頬が痛々しい。こんな姿になるまで殴られたのだ。


 柔らかな髪を撫でていると、目を覚ました蓮が涙袋を震わせ、ゆっくりと目蓋を開いた。蒼い瞳はとろんとし、焦点を合わせるために寄り目になっている。その仕草に安堵を覚えて口元が緩んだ。


「起こしちゃったね」


 月下がそう言った途端、彼は我に返ったように身を捩った。しかし頬の腫れに痛みが走ったらしく、首を竦めて小さくなった。


「冷やそう。待ってて」


 台所へ行き、手拭いに氷を包んで戻った。それを頬に優しく当ててやる。


「痛い?」

「……へいき」


 掠れた声で答え、蓮は目を逸らした。彼の腹がきゅるりと鳴る。何も食べてないのだろう。


「何か作るよ」


 食事の用意がしてあったが、敢えてそれには手を付けない。食べ物に罪はないが、彼女が作った物を口に入れる気分にはなれなかった。


 蓮の好きな魚の油付けを、甘じょっぱい味付けにして白飯にのせる。普段なら野菜も沢山のせるが、今日は特別に油付けだけを目一杯のせてやった。


 匂いにつられ、蓮がふらふらとやって来る。目が合うと彼は慌てたようにそっぽを向くが、こっそり自分を窺っているのに月下は気付いていた。


 この時に抱いた居たたまれない思いは、後に彼女を過度な忍耐へと走らせる。

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