第一章 唄をうたおう、君のために 参
一
「蓮、か。とても良い名だね」
敦盛が微笑みを含んだ視線を向けると、お茶請けのまんじゅうを頬張っていた蓮が、慌てて長椅子の背に身を隠した。一方、月下は敬愛する国長に褒められて頬を染めている。名に込めた自分の願いを理解してもらえたようで嬉しかったのだ。
和やかな時間の中、常に笑顔だった敦盛の表情が引き締まった。そして手にしていた湯飲みを卓に置き、「さて」と話題を変える。本題に入るのだと気付き、月下も背筋を正した。
「蓮君の術のことだが……」
案の定の切り出しに月下は唾を呑んだ。行儀悪く座り込んでいた蓮も、緊張の面持ちで動きを止める。
「結論から言うと解術はできない。いいや、する気はない。例えこの術が彼の枷や鎖になろうと、私には君達を守る義務がある」
官邸からの帰り道、見晴らしの良い丘に差し掛かったところで、月下は遠くに視線を向けた。野良仕事の休憩中だろう農夫が、水筒を片手に木陰で寛いでいる。うだるような暑さの中、その光景はとても涼しげに見えた。
時間が経った今も、敦盛の言葉が頭の中を支配している。普段の温和な雰囲気を消し、厳しい表情と凛とした声だった。言葉こそ柔らかだったが、過ぎるほど寛容な彼が言い放つ様は珍しい。あの時の彼は国長の顔をしていた。しかし分かってもいる。厳しさに反し、その目はやはり優しい色をしていた。
月下は隣を歩く蓮の様子を窺った。深くかぶった麦わら帽子で顔は見えない。けれど項垂れた頭がその落胆を表している。彼からすれば裏切りに等しい出来事だっただろう。
「約束したのにごめん」
「…………」
何も答えてもらえない。顔さえ上げてもらえない。当然だ、彼は陳腐な謝罪など求めていない。
月下は慎重に言葉を選んだ。嘘を吐くつもりは無かったなど、烏滸がましい事は言えない。さりとて、傷ついている彼を蔑ろにはできない。そんな事を考えていた彼女の耳に、突如けたたましい声が聞こえた。それは犬の鳴き声で、獰猛な野太い吠えだ。
驚いて辺りを見渡すと、それはこの辺りでも名家と云われる屋敷からだった。開け広げの大きな門から見えたのは、庭先で家屋に向かって吠える犬。垂れたひげと覚束ない四肢から高齢であると思われ、いつも寝ている大人しい犬だと記憶していた。珍しい事もあるものだと思っていると――
「『はずせ、はずせ、はずせ!』」
吠えに被せ、叫喚したのは蓮だった。ぎゃんぎゃんと犬が鳴く度に、「離せ」と、「ふざけるな」と怒りの言葉を口にする。何が起きたか分からないが、とにかく宥めようと、月下は声を掛け続ける。すると彼は、ひときわ大きく叫んだ。
「『くさりはいやだ、くさりはいやだ!』」
「蓮!」
その場を静めるため、月下も負けじと声を張った。虚ろな目に涙をこんもりと溜め、蓮が静かに顔を上げる。
「僕も……くさりはいやだ」
「蓮……」
小さく頼りない声だったが、騒々しく吠える声にも掻き消されることなく、月下の耳に届いた。
「……おじいちゃんがかわいそう」
お爺ちゃんとは、おそらくあの老犬のことだろう。
曼珠沙華に染まった紅葉のような手を握ると、彼も握り返してくれた。それはただの条件反射だったかもしれない。二人の間には、まだ薄い硝子のような信頼関係しかないのだから。それでも月下は確信した。大丈夫だ、自分達は上手くやっていける。
「お家の屋根の一番てっぺん、あそこを目指して兎が跳んだ。ぴょんぴょこ、ぴょんぴょこ、ぴょんぴょんぴょん」
月下はうたった。それは子供の頃、今よりもずっと泣き虫だった頃、敦盛が彼女を慰めた懐かしい唄だ。
調子外れのうた声は、それを知らない蓮でさえ間違った音程と分かるほどで、すれ違う人が失笑と忍び笑いを浮かべている。
困惑する蓮に気を良くした月下は、繋いだ手を大きく揺らして二番もうたった。
「お家目指してあの子が駆けた、私も一緒にあの子と駆けた、たんたか、たんたか、たんたんたん」
月下の思いを聞いて尚、熱盛は解術をしなかった。その上で蓮を任せると。月下ならばと信じ、彼を託してくれたのだ。ならば蓮が子供らしく生きられるよう、精一杯愛してやろう。そして、いつか蓮にも分かってほしい。敦盛の思いを。術は枷でも鎖でもなく、自分達を守る愛情なのだと。
二
「着替える前に汗を拭こうか」
固く絞った手拭いで蓮の体を拭いてやりながら、月下は彼を窺ってみた。すると頬を赤く染め、恥じらうようにもじもじしている。
「はい、これ。新しい甚平だよ」
着替えを手伝い、髪を櫛で梳いてやりながら再び蓮を窺ってみた。うっとり――彼は目を閉じ、気持ち良さそうにしている。
(……どうした?)
帰宅してから蓮の様子がおかしい。あれほど警戒していたのが嘘のように無防備だ。帰り道の唄が良かったのだろうか。それとも暑さにやられ……いいや、これは喜ばしい状況だ。それにも拘わらず、月下は彼の急激な変化に困惑していた。
*
「ちょっと優しくしたらすぐ信じちゃうんだから」
そう言ったのは蓮である。それは官邸へ行ってから数日が経ったある日の事。
日が暮れる前に帰宅することを条件に、蓮は一人で外出することを許されていた。それを許すのは月下なりの、信頼の証だ。
彼と向かい合い、彼の話を聞いている犬は、得意気なその様子に生ぬるい視線を送っている。
外出するようになって以来、蓮は件の屋敷に通い、老犬と日々の時間を過ごしていた。犬は赤犬で、名を“おくら”という。
おくらの飼い主である屋敷の主は、使用人に蓮の姿を見掛けても構わないよう命じているらしく、誰も彼に接してこない。人の気配ですぐに隠れてしまう上に悪さをするわけではないので、言いつけ通り、使用人達は彼を放っているのだが――
「その茶番はいつまで続けるつもりだ」
「ふういんが解けるまでだよ。それまでは“ゆだん”させとくの」
幼子が犬と喋っている様子を異様に思っていた。事実、人狼の血を持つ蓮はおくらの言葉を理解し、彼と会話をしている。けれど犬の言葉など分からない人間には、子供が一人で喋っているように見えるのだ。
「お前には狼の矜持がないのか」
「きょおじ?」
「まあ、いい。それで毎日、その娘の家に帰っているのだな」
「うん、ご飯がたべれるし」
月下と暮らすのは、彼女を油断をさせて封印をいち早く解くため。ついでにご飯も食べられて一石二鳥。ただそれだけ。蓮はそう言う。おくらは「やはり矜持がない」とぼやくが、蓮には矜持の意味が分からない。分からないから生返事をした。
傍から見ると奇妙に映る蓮とおくら。その様子を縁側の奥まった場所から眺める青年が一人。彼は呆れたように息を吐き、腕を組んだ。
「あの小童め、また来ているのか。あれが来ると外に出れなくてたまらん」
そしてそう呟くと、静かにその場から姿を消した。
さて、蓮がおくらの小言を右から左へ受け流し、夕餉の献立に思いを馳せていたのと同じ頃。
「月下さん、ねえ、ちょっとちょっと」
学舎の帰りに寄った商店街で、月下は老犬おくらを飼う屋敷の女中に声を掛けられた。「こんにちは」と折り目正しく腰を折り、深々と頭を下げる。
「もしかして、また蓮がお邪魔してますか?」
「それはいいの、うちの若様もいいって言ってるし。そうじゃなくてね、あの子……大丈夫かしら。ほら、暑い日が続いてるじゃない……」
変な意味じゃなくてね、と頬に手を当て、言い難そうに言葉を濁す彼女は、蓮の“独り言”を心配しているようだ。なので月下は、あらかじめ用意していた答えを言う。
「あの子は皆に疎まれて育ったので、人と接するのが怖いんです。なので、穏やかなそちらのわんちゃんに気を許しているのかもしれません」
嘘は言っていない。本来なら友達と一日中遊んだって足りない年頃なのに、その対象に動物や虫ばかりを選ぶ彼が哀れでならない。女中も同情し、「変なこと言ってごめんなさいね」と言って涙を拭う。詫び言を繰り返されて恐縮する反面、月下は胸が救われる思いがした。
三
「ぎょうじって何?」
夕餉の支度をしていた月下に蓮が問い掛ける。野菜を切る手を止めて振り返った彼女は、眼鏡を押し上げながら質問を返した。
「『ぎょうじ』って?」
蓮とて分からないから聞いたのだ。地団駄を踏もうとしたが、待てよ、と首を傾げた。おくらは本当に“ぎょうじ”と言っただろうか。
「ぞうり? こおり? きゅうり?」
思い当たる単語を次々に並べ、ぴんとくるものを探す。
「よく分からないけど、だんだん離れてってる気がするなあ」
月下が苦笑いをしながら突っ込んだ。
「……きょうじ?」
ぴんと来た。そんな顔で彼女を見る。
「矜持のことかな。驚いた、ずいぶん難しい言葉を知ってるね」
感心したように言われ、蓮は飛び跳ねてしまいたくなるのを抑え、敢えて不機嫌そうに唇を尖らせた。
「……それって何?」
「そうだね、自負って意味になるのかな」
「じふ?」
「誇りのことだよ」
「ほこり? ごみ?」
「あはは、うーん……」
腕を組んで困ったように月下が唸る。
ここ数日、蓮はこのように質問を繰り返しては彼女を唸らせている。学舎で子供達の相手をしているだけあり、彼女の答えは的確で早いが、蓮の質問攻撃はそれを上回るのだ。
「今の蓮に説明するには難しいなあ」
首を傾げる彼に「ぼちぼち覚えなさい」と言い、月下は野菜を切る作業に戻ってしまった。
(なんなの、こども扱いして!)
自分がまだ子供だという事実を棚に上げ、彼女の背中を睨んだ。しかし食欲をそそる香りが部屋に満ち、空腹を主張した腹が鳴ると[[rb:棘>おどろ]]の感情はあっという間に飛散する。
「はい、お待たせ」
ごとん、という重量感のある音を立てて丼が置かれた。今晩は野菜のあんかけ丼だ。ごくりと喉を鳴らし、蓮は丼に飛びかかりたい衝動に堪えた。二人揃って「いただきます」をしないと、月下は絶対に食事を許さない。一度だけ強行突破で飯にがっついた時があるが、お仕置きとして、次の食事から月下特製、薬草お浸し丼が数日続いた。彼にとってあの日々は、本当の意味で苦い思い出となっている。
「いただきます」
月下の合図で食事が始まり、蓮は夢中で飯をかき込んだ。初日に比べると大分落ち着いて食べられるようになったが、彼の食事はまだまだ意地汚さが目立つ。
「そうだ、蓮。また勝手におくらの家に入ったらしいね」
月下がため息を漏らす。それは庭への侵入に対してか、それとも食事作法に対してか。
「……おこられた?」
「いいや。でも炎天下続きだし、お家の人が君を心配していたよ」
蓮は俯き、黙りこんだ。
初めにおくらを訪ねたのは、彼の鎖を解いてやろうとしたからだ。しかし当の本人は、この鎖は里帰り中の長男一家がいる間だけ。だから我慢する。赤ん坊がいるから仕方がない、と語った。本人がそう言うならと渋々そのままにしているが、彼を繋いでいる人間を信用できるわけがない。
一向に顔を上げる気配のない彼に、月下が再びため息を漏らす。
「ともかく勝手に入っちゃ駄目。おくらの家では許してもらえるけど、本当なら叱られるんだよ。分かった?」
顔を伏せたまま、蓮は「ごめんなさい」と呟いた。ちっとも悪いと思ってないので、もちろん上辺だけの謝罪だ。けれど彼は、こうすれば月下が目尻を下げるのを知っている。どういう訳か、彼女にそういった顔をさせるのが楽しい。例の質問攻撃も、月下が自分を構うのが愉快でならないからだ。
「私も強く言い過ぎた。ごめんね」
上目遣いで盗み見れば、彼女は予想通りの優しい表情をしていた。
楽しい、嬉しい、何かが満たされる。なのに、ほんの一瞬だけ嫌な考えが過ぎった。あの優しい笑顔は満足感や優越感からではないだろうか。だったらそれは、本当の優しさではない。彼女の気が済めば捨てられてしまう。そんな薄暗い考えに頭を支配された時、調子外れな鼻うたが聞こえた。
食器を洗いながらうたう月下の唄に耳を傾けた。無意識に口角が緩んでいく。のん気で間抜けなうた声は、蓮の冷えた心を真綿で包み込んだ。
「あ」と、不意に月下が声を上げる。
「明日は敦盛様にお呼ばれしてるから帰りが遅くなるよ。君のことは人に頼んであるから」
「ひ……ひとりでへいき!」
「でもご飯のこともあるし……親切な人だから大丈夫だよ。ほら、金平糖覚えてる? あれをくれた人だよ」
蓮は硬い表情で浴衣を掴んだ。この家は彼の縄張りだ。顔も知らない他人が入って来るなど許せない。許せないが、だけど――
彼の様子に気付き、月下が何かを思案する。
「分かった。君がそう言うなら……」
「や、やっぱりだいじょぶ!」
蓮は慌てて言葉を遮った。
「本当に?」
「うん……」
「無理しなくていいんだよ」
「だいじょぶだったら!」
だって、月下が困った顔をしている。こんな事で落胆されたくない。嫌われたくない。
(ちがう! そうじゃない!)
彼女の機嫌を損ねたら解術ができない。ご飯にありつけなくなる。住む場所も失う。蚊に刺されて寝るのはたくさんだ。喉が渇いて自分の汗を舐めるのなんてもう嫌なんだ。
(この人のいうこと聞いて、ゆだんさせて、それから、それから……)
蓮は誰にともなく、心の中でそう言い訳を繰り返した。