日常
・・・ゆめを、見る。いつもと変わらない、日常の夢だ。
自分の勤め先は一風変わっている。人も、場所も。今日はその日常を少しだけ記したいと思う。
まずは、勤め先の説明をしようか。普通の繁華街に面したビルに入っている普通のカフェだ。一見は。しかし、一度でも足を踏み入れたことがある人は少し特殊なカフェだという事を知っている。出勤にちょうどいい時間だ、中へ入ろう。
そうして入った自分を、美麗なかんばせたちが出迎える。ここはただのカフェではない、燕尾服に身を包んだ美しい人たちが、お客様をお出迎えしおもてなしさせていただく。そう、ここは執事カフェとよばれる場所なのだ。自分はそこで厨房を担当し、いらっしゃるお嬢様や旦那様のご注文にこたえている。たまに少々特殊なオーダーをなさる方もいらっしゃることもあるが、おおむね無難にやり過ごしている。
自分は厨房の担当とはいえ、スタッフには変わりないので、控室に荷物を置くことを許されている。今いるのも雰囲気のある店内とは裏腹に、無機質で武骨なロッカールームに近い部屋のはずなのだが、そのおかげかより一層バイト仲間たちの顔がとてもまばゆく映る。
顔をしかめ目を薄くする自分に声をかけてきた者がいる。この店で一番の古株である、凜さんだ。背が高く細身で名前の通りかっこいいより綺麗という言葉が似合うような人だ。中身は少々残念で、話の中身も金の無心である。控室にいるほかの面々も自分もいつものことなので適当に流した。凛さんはいつも金が足りないと騒ぐのだ。普段から店長に給料の前借はできないかと頼み込むのがバイト仲間限定の密やかな名物になっている。接客中は容姿に似合う洗練された動きでお客様を魅了してやまないのだが。どうも私生活になるとすぐにほれ込んだ相手に貢いでしまうようだ。ちなみにほれ込む相手は画面の中にいる人であったり、夜に開くお店に勤めている人であったりと、様々だ。そして、熱が冷めるか降られるまで、常にお金がない、といっている。今回はいつまで熱が続くかたまに賭けの対象にされていることに凜さん本人は気付いているのだろうか。
懍さんを受け流していると、よく通る大きな声が響いた。そちらに目を向けると、凪さんがいた。名前と活発さが正反対な人である。この人はとても闊達とした人で、良く日に焼けた肌と、鍛え上げられた肉体美、そして人懐っこい笑顔で初めて訪れたお客様にも遠慮を感じさせないと評判である。後、一部にものすごく過激なファンがいる。凪さんのシフトに合わせておいでになり、ご本人を眺めながらお食事をされる。どうも筋肉というのは一定数の人を惹きつけるらしい。この人にはそんな一部の要望を受けたオリジナルのサービスメニューがある。予約を取って来店されたお客様が実費で購入された衣装を持ち込まれるのだ。この人の本来のサイズからは一回り小さい物を。お客様はそれを着た凪さんの腕や肩回りの筋肉の形が服のおかげでよくわかる様を眺めて幸福感を得るのだとか。好事家たちの嗜好はよくわからない時がある。ちなみに声をかけてきたのもそのサービスの時にお出しする料理のレパートリーを増やしたいという相談を以前から受けていたことに関係する。今日シフトが重なっていることも、早速サービスの予約が入っていることも知っていたので考えてきた内容をざっくりと話し、凪さんから了承を受けて早速仕込みに入るかな、と、自分のエプロンに手を伸ばす。
確かに前回しまった場所に手を伸ばしたものの、自分の手は空を切った。不思議に思いながら周囲を見回すと、後ろから気の弱そうな声が聞こえた。振り向くと、普段は事務仕事を一人で引き受けてくれている晴さんがいた。話を聞くと、昨日の厨房担当だった、晴さんの双子の片割れである圭さんがエプロンを忘れてしまったので同じくらいの背丈の自分のエプロンを一時的に借りた、という事らしい。そういえばそんな連絡を昨日店長から受けた気がする。しかし、何故元の場所に戻しておいてくれなかったのか。今度は自分が忘れたかもと肝が冷えた。そう思って目の前の人を見つめると、借りものだからと彗さんが持って帰って洗ってくれたらしい。しかも、アイロンまでかけてくれたのだとか。なんと優しい心遣いだろうか。普段置きっぱなしなので別に構わなかったのに。考え込んでいると中々エプロンを受け取らない自分のせいで差し出している腕が震えだした上に瞳が潤みだしたので、軽く膝を曲げ、目線を合わせてお礼を伝え、几帳面な啓さんらしくきっちりと畳まれたエプロンを受け取り身に着ける。どこかほっとしたような顔をした晴さんは事務室へと消えていった。母を亡くしてから圭さんと父である店長と三人でこの店を切り盛りしているあの人には他にも色々とやることがあるのだろう。
ようやく今日の仕込みに取り掛かることが出来そうだ。今日の厨房はしばらく自分一人だったはず。はっきりと思い出せないシフト表に思いを馳せながら控室を後にして、厨房へと向かうと、空さんが大きな段ボール箱をいくつか抱えて廊下をうろうろしていた。そういえば、凪さんが来ているのだから、いつも仕入れついでに家族だからと凪さんの送迎をしている宙さんが来ているのは当たり前のことだ。だが、どうも見ていて危なっかしい動きをしているので任せきりにできず声をかけた。凪さんより幾分か背丈の低い背中が少しはね、振り返って自分のことを確認し、嬉しそうに見上げながら手伝いを頼んできた。毎日仕入れをしてくれている空さんは普段から凪さんのような逞しさに憧れているからか持ちきれないほどの荷物を持とうとしてよく厨房担当の自分や圭さんを困らせてくる。厨房担当が女性の時もやるものだから、凪さんが見かねて手伝ったりする。必ず、いけると思ったのに、と拗ねるのが可愛らしく、全スタッフにかわいがられている。二人で備品の入った段ボールや食材の入ったスチロール箱などを持って厨房に移動しながら天さんの話を聞く。昨日の圭さんはエプロンが無いと青ざめていて面白かったとか、普段はあんまり手伝ってくれないが三日前は玲さんが少しだけ手伝ってくれた上に今度一緒に出掛ける約束をしてくれたとか、他愛もない話をたくさんしてくれた。そんな風に話しているうち、厨房に全ての荷物を運び終わったので、トラックに乗って去っていく空さんを裏口から見送ると、今度こそ厨房へ向かう。
厨房で仕込みをしていると、また声をかけられた。振り向くと、可愛らしい人がいた。先ほど空良さんの話にも出ていた、玲さんだ。どうやら今日の開店時のホールスタッフは凛さん、なぎさん、怜さんの三人のようだ。しかし、一体何事だろうか。この人は接客時こそ愛らしい外見を生かした、本人曰く子犬系で売っているが、素の伶さんは寡黙な人のはずだ。からかわれると少々粗野な一面が出ることもある。が、基本的には物静かで人にあまり話しかけることはないと認識していた。その認識は誤っておらず、昨日の閉店時の厨房の担当が麗さんだったからその引継ぎをしたかっただけの様で、用件が済むとさっさと厨房を出て行ってしまった。玲さんは厨房の時とホールの時とあるからな、と独り言ちて、また仕込みを続ける。
否、続けようとした。その瞬間に真下へと落ちるような感覚がする。妙に冷静に建物が崩れているのだと理解する。
落ちる、崩れる。
おちる、くずれる・・・
あれ、いたくない。
でも、目も覚めない。なぜだろう。
考えて、気づく。そもそもここはどこだろう?何もないじゃないか。カフェなんてない。いやそもそも建物なんて目の前にはない。
もっと考えて、おや、と思う。そういえば、自分は何と呼ばれていたのだったか。じぶんのなまえはなんだったか?思いだせないことが多すぎる。
あのお日様のような人はなんという名前だっただろうか。あの麗しい人は?懍?凜?凛?いや、りんというなまえだったか?
思い、だせない。よく泣く人の名前は何だったか。その半身であった人は?あの静かな人は玲だったか、怜、麗、それとも伶?それがほんとうのなまえだったろうか。よく話をしていたあの小さな人は?そらなんてなまえじゃなかったようなきさえしてくる。
なぜだ?ただの夢のはずだ。ゆめだよね。ゆめ、ゆめ…?あれ、ゆめってなんだったっけ。
そこまで考えて、何かがはじけた。ああ、また、見ていたのか。あれは、自分が命を失ったあの日の夢。毎日、毎日。同じ繰り返しをしていた。楽しかった、もう戻れない「いつも」の最期。もう自分の名前も他人の名前も思いだせない自分の、最後のよすが。だというのに、その記憶も最近薄れ始めている。わかっている。本当にすべて思いだせなくなった時、初めて自分はこの場所を離れ、自分の行くべき場所へと導かれる。そこに、夢に出てきた彼らもいることだろう。自分の目の前に広がる更地にあったあの場所が、とても心地よかったあの場所が、壊れてしまったあの日に、麗しい人も明るい人も泣き虫な人も静かな人も、自分も、みんな、みんな死んでしまった。こうも時が経ってしまっては、あの日あの場にいなかった他の人達もとうに虹の橋を渡っていったことだろう。ひょっとしたら橋の先でまた皆でお店を開いて待ってくれているかもしれない。みんな、口にしなかったけれどやめても客として足を運ぶほどこの店が好きだったから。だから、全てが薄れてしまうまで、今少し自分はここを彷徨い続けることにしようか。ただ彷徨っているだけでは少し退屈だなあ。だから、今日も、また・・・