7話 あんたは従者だ
扉が開かれ、気付かぬうちに頬が打たれていた。
呆気に取られていると、あたしのことを打ったその女は部屋に引き下がろうとしていた。
「何故、打った」
「何故と尋ねられましても……瑶春さまはただお一人にございます。なのにも関わらず、瑶春さまを名乗ろうとする不埒な娘がいると聞き及んだ次第にございます。雲昌さまより、貴方様を主として、新たなる瑶春様と見なしてお仕えするようにと申し付けられておりますが、納得できないものは納得できないのにございます」
「話は分かりました。けれど、打つ必要はなかったのではないですか、藤杲」
「智英何が言いたい。たとえ、雲昌様を始めとする子一族の肝いりの娘であったとしても、瑶春様の顔役になりえる人物であったとしても、私はこのような下賤な娘を主人とは認めぬ」
「あ、あたしもよ――。急に打つなんて酷いじゃないの。あたしだって、好き好んでここに乗り込んで来たわけじゃない。今すぐにでも帰ってやりたい。だけど、あたしにはここに居座るしか、『みんな』を守る手段はないの。あんたもこの家に仕える人間なら、心の奥底にある感情ぐらいしまいなさいよ。それとも、あんたが言う瑶春様に仕えていたら、そんなこともできなくて構わないわけ?」
あたしの見え透いた挑発に、藤杲とか言う使用人の女は顔に血管を浮き立たせる。
扉が開かれるなり、目も合わずにぶたれたから気おくれしてしまったけれど、あたしはたかだか一度殴られたぐらいで大人しくなるような心の持ちようはしていない。
雲昌には、有無が言える立場にはいないのだ。
使用人の言葉一つで「はい、そうですか」と言うわけがない。
「あんたが認めないって言うのなら、それで構わない。でも、あんた以外に瑶春様に仕えていた人間がいないのならば、あたしは瑶春様に『成り代わる』ことができない。だから、あんたが納得しようがしまいが、あたしの面倒は見てもらう」
「威勢がよろしいですね。――私がいなければ雲昌様との契約が果たせないというのならば、私はこの辺で姿を消すことに致しましょう。智英、それでよろしいですか?」
「なりません。雲昌様より、藤杲に紹介するようにと命を受けておりますから。それに、三日後の御披露目までに間に合うのでしょうか」
「御披露目……? 何の話でしょうか」
智英の言葉に、藤杲は全く聞いていなかったという相貌に変わる。
主――あたしが成り代わらなければならない、瑶春に関することになると、血相を変えるほどだ。よほど、心酔しているのだろう。そして、それがあたしに与えられた一番最初の課題に違いない。
この従者が瑶春をたった一人で面倒を見ていたのだ。
瑶春に成り代わる。
そうすることで、桂風庵に残してきた孤児のことは守ってもらえることになったのだ。
藤杲に従者として過不足なく働いてもらうためにはどうすればよいのだろうか……
「瑶春様が床を払われたと領内の貴族たちに御披露目するのであります。北の凜家から南の白家まで、ほぼすべての当主が集まる目算です」
――は? 今、この智英とかいう馬鹿従者は、全ての当主が集まるとか言ったか?
あたしはたった三日で――否、明後日には貴族として満足いく所作を身に着けるように要求されているということだろうか。
「冗談じゃねえ。あたしは何だってそんな――」
「黙っていてください。智英、宴会の出席者一覧を後程持ってきてください」
「つまり……新たな瑶春様を認めて頂ける、という事ですか?」
「雲昌様にはこうお伝えせよ。御披露目の場において、主として仰ぐか否かを判断する、と。それまでの働き振り次第です」
「瑶春様思いな藤杲にしてはやわらかい判断をなさるのですね。雲昌様にはそうお伝えしておきましょう」
よくわからない間に話が進んでいってしまったが、どうやら藤杲はあたしを瑶春として受け入れるために明後日まで見張るということになった。
藤杲の伝言を雲昌に伝えるために、智英は早々と去っていってしまった。
「――それで、あたしは何をすればいい?」
「まずは質素な見た目からです。持って参れ」
藤杲がそう言って、手を叩いたかと思うと、どこからともなく箱を持った女たちが現れた。
藤杲と同じような恰好をしているところを見るに、彼女たちも従者なのだろう。
しかし、瑶春のもとにいたのは藤杲だけではなかったのだろうか。
「その手の質問に応える気はございません。どうぞ、三日後の御披露目を乗り切ってから私を仕える物だと思っていてください。私はあくまでも、暫定的にあなたを主としているだけです」
「そう、か……」
それ以上、何も返せなかった。
よくよく考えてみれば、あたしが置かれている状況が特殊だから、相手はそうじゃないと思ってしまいがちだが、藤杲はつい最近、主である瑶春を失ったばかりなのだ。しかも、この肩の入れ方を見るに、心底、主として認めていたに違いない。
藤杲と女人たちの手によって、見る見るうちに身包みは剥がされ、上等な布に覆われる。そして、身体のあちらこちらを隅々まで測りで測り取られる。
「……っ、これは……」
「まさか、容もよく似ていますけれど……」
「これほど……不思議です……」
藤杲たちが何故、感嘆の言葉をもらしているのかはよくわからない。
あたしは、ただぼーっとしながら、身を整えるのが終わるを待っていた。
「――瑶春様、次はお化粧になります」
「化粧ぅ? そんなもの、あたしはこれまで、一度だってやってきたことないぞ」
「構いません。貴人ともあろう御方がご自分で化粧をするなど、戦乱の世の中であっても有り得ませんから。化粧をするのは使用人に決まっているのです」
「そういうものなのかあ……」
藤杲が放つ言葉の語気に、先程よりも毒々しいものが混じっている気がする。
あたしは何か癪に障るようなことはしていないのだけれど、存在するだけでもうっとおしいのだろう。なぜ瑶春は死に、お前のような下賤な人間が生きているのか――と。
「とても、お肌が美しいのですね」
「そうなのか。そのようなことで誉められることはなかったから、不思議な気分だ」
女人たちはあたしの気を良くさせたいのか、些細なことを誇張して口にしてくれる。
あたしからしてみれば媚びへつらっている――そう取れなくもないが、『貧民』だったあたしにそれをする必要はない。あたしが『貴人』だから、そうするしかないのだ。
化粧も終えると、藤杲から紙の束を渡される。
「智英が届けてきた、来客者の一覧になります。顔の特徴についても記載がありますから、一言一句、もらすことなく、隅々までご覧ください」
「これを諳んじろというのか?」
「ええ。これぐらい、瑶春様は一刻《2時間》で終わらせました。瑶春様の成り代わりに――とおっしゃっていたのですから、それぐらいできては当然ではありませんか」
どれほどの才女であったのだろうか、瑶春という女は。
この藤杲が買いかぶりすぎているというだけではないのだろう。瑶春は病がちである退室がなければ、それこそ才女として蝶よ花よと北子州で堂々と名を知られる――そんな人間になることができていたのかもしれない。
あたしは、そこでようやく、肝心なことに考えが至った。
「藤杲にとって、瑶春様はどのような方だったのだ? そういえば、聞いていなかったと思って」
「瑶春様は……」
少しの溜めがあった。
「私にとって女神のような方でした」