6話 貴族としてのあたし
この街――北子州路向大府の領主一族である、子一族の姫様になれるのだ。貧民風情にとっては、またとない好機でしかない。
これを逃せば、あたしは貧民街に戻される――なんてところではなくて、殺される。
瑶春の振りをして王城まで連れて行くということだから、彼女はまだ生きていることになっているのだ。
「まずは、何をすれば良いのでしょうか」
「良い心意気だ」
……意外だ。瑶春と同じぐらいの年頃の女の子だというのに、即決できるとは。
私は姪と同じ『瑶』を持つこの少女のことを見くびっていたようだ。
肝が据わっている。貧民街での生活がそうさせたのかもしれないが、即決は貴族としては致命的な危機にさらす場合もある。
貧民街と貴族界では勝手が違う。
根本的な常識から変える必要がありそうだ。
「汚い身なりを整えて、化粧をする。そして、三日後に表に出てもらう」
「み、三日後ですか……いくら、何でも早すぎはしませんか? 瑶春さまの振りをするのには、さすがに一月は必要ではありませんか?」
桂瑶は焦っている様子だが、別に構わない。
「瑶春は説明した通り、かなりの虚弱体質だったので、社交の場に出るようなことはほとんどなかった。領主の誕生日に挨拶を数秒する程度で、北子州の貴族たちは瑶春の姿を見ても、『ああ、あんな子がいたな』程度にしか思わない」
「それは……なんだか、瑶春様が可哀そうです……」
桂瑶は悲痛そうな表情を浮かべる。
おおよそ、誰にも知られずに死んでいった瑶春のことを思っているのだろう。しかし、それは貧民である桂瑶には必要な感情かもしれないが、貴族である桂瑶には必要ない。
「感情をあまり大きく発露してはならない。貴族たちは狡猾で、どうやったら私たちから利益を搾り取ることができるか、ということしか考えていない」
はっとさせられた顔をする。
「だから、悲しいことがあっても、嬉しいことがあっても、顔に出してはいけない。いつも微笑みを浮かべて、さも思い通りですと言わんばかりの姿でいろ」
「――はい、分かりました」
「君は貴族になった。それも、領主一族の娘で、王城に向かう身となる。恐らく、貧民街で経験した以上の理不尽を飲み込まなければならない。それでも大丈夫か?」
「お気遣いは結構です。瑶春様になり替わる意外に、私に生き残る道はありませんから」
「そうだった。私が君から選択肢を奪ったのだったな」
彼女には恨まれていることだろう。
貧民街での絆がどんなものかは分からないが、平民たちの様子を見ていると家族や友人同士の愛情や友情というものはとても理解できない方向へ動きを見せる。
家族を殺されたことで、貴族に歯向かう者もいる。瞬時に捉えられ、一族郎党皆殺しになってしまうというのが分かっていながら歯向かってくるのだ。
貴族としては、それは理解しがたい。彼女もそういった考えを持っていないとは限らない。
これ以上、ここで話す必要はない。
「智英、桂瑶を瑶春の部屋へ連れてやりなさい。藤杲と顔を合わせてやりなさい」
「この汚い身なりで、でございますか?」
「それもそうだ。裏庭に誰も使っていない井戸があるだろう。そこで身体を洗ってやりなささい。智英は男だが構わないか?」
「独りでも身体は洗えます。場所を案内していただくだけで十分にございます」
「一人で身体を洗うのか……貧民というのは、厳しい生活を強いられているのだな」
「ええ。それでも、生きてこれたのですから、私はこの丈夫な身体に感謝しているんです」
「それは良かった。では、私はこれで失礼する。何か疑問や案内して欲しいところがあれば、智英に尋ねると良かろう」
智英のもとに従者を数人残して、私はその場を後にした。
……けっ、お貴族様ってのは、一人で風呂にも入らねえってのかよ。あたしも瑶春様の身代わりになるってことは、同じ様な生活をしなきゃいけねえって訳だろ。まじ有り得ない。
雲昌が退場していくので、智英の鋭い視線を感じて、同じ様に礼をする。この従者、雲昌以上に嫌な奴に違いない。
「貧民風情が雲昌様のお目通りが叶っているというのにも関わらず、地に顔を付けず、まるで同格であるかのように……」
ブツブツと何かを呟いているから何を言っているのかと思ったら、あたしへの恨みつらみだった。どうやらこの智英というやつ、主人――雲昌の前では大人しい様子だが、あたしの前では全く気にしないようだ。
まるで、雲昌に心の底から心酔しているようで、気持ち悪い。
「早く、井戸まで案内していただきたいのですが」
下手に出ておけば下手なことは起きないだろう。
「――申し訳ございません。雲昌様の言いつけ通り、桂瑶様には井戸までご案内させて頂きます。わたくしは、雲昌様の筆頭従者に数えられております、智英と申します。これからもよろしくお願い致します」
「瑶春様になり替われますよう、精一杯、努力いたしますので、よろしくお願いいたします」
「はは。努力されるのは当然のことにございましょう。神の御威光を持つ雲昌様から『瑶春様の振りをせよ』と命じられているのにも関わらず、それを成し遂げられない可能性を示唆するなど不敬にもほどがあります」
「は、はあ……」
……まずい。この人が何を言っているのか全く理解ができない。
「それでは、行きましょう。道中、わたくしが雲昌様のすばらしさについて説明いたします」
「よ、よろしくお願い致します」
「まず、雲昌様は――」
それから先の話は全く聞いていなかった。
雲昌というお貴族様個人にも、それを話す智英にも全く興味が湧かなかったからだ。もしかしたら、情報収集という点で聞いておいた方がよかったかもしれない。
が、智英の心酔ぶりを見るに、実話より三割は確実に盛っている。
本当のことだと思い込むほうが危険だ。
「――こちらが井戸になります。わたくしたちは後ろを向いておりますから、どうぞ、身綺麗にされてください」
「ありがとうございます」
謝辞を述べると、智英たち雲昌の従者は、あたしと井戸を取り囲むように動く。
どうやら、あたしが逃げるのを防止しよう、って話らしい。
……逃げたくても、桂風庵と子供たちが人質に取られているんだから、逃げるわけねえのに。でも、こいつらにそれを説明したところで退くとは思わねえし。まあ、いっか。別に気にしなければ、気にもならない。
あたしは子供たちからよく、図太いだとか無神経だとか言われてたことを思い出した。
「こんな状況になったって言うのに、全然不安がないんだから、本当なのかもな……」
水浴びをしながら、色々、考え事をする。
お貴族様の井戸は貧民街のものとは別物。桂風庵近くの井戸ですら、こんなに水が綺麗だったことはない。最近は井戸の水も枯れ気味で、汚い川の辛うじて綺麗な上流で身を綺麗にしていたけれど。
「よっし。あらかた、身体は綺麗になっただろ」
水浴びをそこで終えて、水気を布で取ると薄着に着替える。
この上からさらに服を着るのだが、従者が持っている包みがそうに違いない。
「薄着を着ましたから、振り向いてもらっても構いませんよ」
「な、何を言っているのだ。貴様は。貞操観念はどこへ行ったのだ。ほれ、これが服だから、着替え終わるまで振り向いてもよい、などと言ってはならぬぞ!」
「あはは。あっ」
ついつい、笑ってしまった。
さっきまで雲昌様がどうだとか、貴族はこうあるべしとか語っていたのにも関わらず、薄着ごときで――体型がうっすら分かる程度なのに、耳を真っ赤にさせているのだ。
面白い。雲昌に心酔しているのも、あたしへの当たりが強いのも、もしかしたら、女とどう接すればいいのかが分かっていないのかもしれない。
こちらに背を向けながら服を渡してくる智英から受け取り、手早く着替える。
老師に正装をしてもらった頃から初めて着る衣装だったので、適当だけれど、誰も文句は言うまい。
「今度こそ、ちゃーんと着替え終わりましたよ、智英さん」
「よろしいでしょう。あと、先程から気になっていたことを一点だけ申し上げてもよろしいですか?」
「な、何でしょう」
「わたくしが不躾にも貴様などと呼んでいるから勘違いされているようですが、貴方様はここれから瑶春様に『なり替わる』御方です。我々、卑俗の人間――従者たちに言葉を丁寧にする必要はないのです」
「そうなのですか……いえ、そうなのか。ならば、智英も言葉を改める必要はなかろう」
「しかし、わたくしは一介の従者に過ぎません。瑶春様は雲昌様同様、北子州を統べる子一族にございます。最高の敬意を持って働くのは当然のことではありませんか」
「いえいえ。あたしは貴族になったとしても、貧民の子供であることに変わりはない。だから、智英が言葉を綺麗にする必要はない。雲昌に指摘されれば、変えれば良いだろう」
「そうだな。――今、雲昌様を呼び捨てしたのを看過する気はない。雲昌様は貴様のおじに当たる方だ敬意を持て」
やっぱり、雲昌関連になると、この従者は気持ち悪くなるようだ。
……思ったよりも、新たに子一族にやって来た姫君は悪い人間ではないのかもしれない。貧民の出という賤しい一面は持っているが、水浴びをすれば瑶春様以上の美しさを持っている。
まだ十四に行っているのか、言っていないのか分からないぐらいの年齢。
ここ一、二年で女子は急成長するものなので、どう成長するのかが楽しみなぐらいには将来性があるようだ。
しかし、雲昌様への敬意が足りないのは頂けない。
子一族の中でも多くの業務に携わって置きながら、州民にも目を掛けられるその心の広さ。まさに神ではないのだろうか。我らが始祖神とは実は、雲昌様の身体に降臨されているのではないだろうか。
「雲昌様は最高の御方なのだ。先程も説明しただろう」
「ええ。十二分に聞きました。聞いたけど、伝聞ごときで『あ、そうですか。スゴイ凄い』って心の底から思えるわけがないだろうが。馬鹿か?」
十二分に話が足りていなかった証拠だろう。
「桂瑶、貴様は瑶春様になり替わる前に、一度、雲昌様の凄さに充てられるべきではないだろうか」
「んなの、知らん。雲昌様とか、おまえがどうにかすりゃあいいだろ」
「それもそうだ。わたくしがなんとかして進ぜよう」
まさか、雲昌様の凄さを聞きたくなるとは……否、それも至極当然の理である。万人は全て、雲昌様の凄さを知りたいのだ。
「話が変な方向に脱線しておりますよ、智英。次はお部屋に案内するのではなかったのですか」
「あ、これは行けない」
同じく、雲昌様の元で働いている貝丘に指摘され、わたくしは桂瑶を瑶春様の室まで連れて行く。
道中でわたくしを除く従者たちは離れていく。
雲昌様のもとに戻らなければならないのだ。
筆頭従者であるわたくしが現場にいなければ、雲昌様は困っていられるだろうが、雲昌様自ら『桂瑶の様子をみまもれ』と命じられれば、命令に従うのがわたくし、智英という男である。
「こちらが、貴様が『成り代わる』瑶春様の室になる」
「ここであたしは暮らしていくのか……」
華美ではない。
領主一族の唯一の未婚の姫君の部屋――にしては、彩が少なく、どこか暗い雰囲気がある。
病弱な瑶春様は身体のいたるところに出血が見られ、明るい色が部屋に使用されていれば、血のあとが残ってしまう。そうならないように暗い色でまとめられているのだ。
ただ部屋を見るだけで、部屋の前を通るだけで病人がいると分かる部屋。
それが瑶春様の部屋だった。
領主一族の居住区域の中でも最奥部に置かれている部屋は、瑶春様の死を悼むように、喪に服す意を示す飾りがかけられている。
「……本当に、瑶春様は亡くなられているのですね。本当に私は『成り代わる』のですね」
「ええ。瑶春様が亡くなられたのはまぎれもない事実にございます。けれど、それを公にする気は領主一族にはございません。どうか、瑶春様に成り代わってください」
いくら社交の現場に出ていなかった姫様とは言え、成り代わるなんて並大抵のものじゃない。貴族としての常識がなく、貧民街への常識がそう簡単に抜けるとは思えない。
桂瑶を待ち受けているのは困難な日々ではないのだろうか。
……わたくしが彼女と同じ立場であったのなら、きっと泣いていたでしょう。少し、不憫にも思える。
「ただいま、室を取り仕切っておりますのは、瑶春様の筆頭女官であらせられる、藤杲にございます。瑶春様の死に携わる人間は少ない方が良い、とあらかじめ瑶春様の従者は減らされており、従者は藤杲ただ一人にございます」
「たった一人で病弱な瑶春様を……」
「それを聞いたとき、わたくしも同じことを申し上げました。更には医者としての腕前もあり、瑶春様が突然の発作を起こした際には、城の医官が呼ばれるまで、手当をしていたこともあったとか……」
「そんな優れた人間が女官なのか」
桂瑶は何か考え事しているようだが、わたくしは言いよどんでいた言葉を口にしようと決心した。
すると、その時だった。
室の扉が開かれて、女性が姿をあらわした。
「私の名は藤杲と申します」
ぱんっ。
肌が叩かれる音。
室の中からやってきた有能な女官――藤杲は、わたくしのすぐ横にいた桂瑶の頬を思い切り叩いていた。
そして、最悪な順番で言いよどんでいた言葉が口を突く。
「彼女はかなりの変人なのです」
「そうみたいね……」