3話 袁正、王城で立ち往生
西酉州はこの国の都である紅萼から最も近い場所にある。
州を治める州公の配下の中でも、都に通じる門を有する詠向大府の長は別格のあつかいを受ける。それは、詠向大府が「紅萼の壁」であるからだ。
王に近いということはそれだけ、王と触れ合う機会も多い。
触れ合うなどと言っても都内にいる貴族に比べれば目通りがあるかどうかぐらいのものだが、それでも、他の州の貴族に比べれば天と地ほどの差がある。
都外の中で最も都に近い貴族。
それこそが、私――――詠向大府府司袁正である。
部下たちを退けて府の官舎から飛び出してきた私は、愛馬――常琴に乗って、紅萼の中央にある皇帝の住処へ向かっていた。
常琴もただ事ならぬ事態が起きていると分かっているのだろう。
若かりし頃の戦に明け暮れていた頃を思い出すほどに早く速く迅く駆けていた。
(伝令の言っていたことは本当なのであろうか。瑞獣が現れたなどまったく信じがたい。けれど、伝令があのように必死の形相でやってきたところを見ると……ああ、だめだ。全く考えがまとまらない。ひとまずは変わり果ててしまったという城の姿を見ないことには)
道中、官吏たちに止められるが私を――というか、常琴を見るや否や、府司・袁正であることを理解して、退いていく。
常琴は通常の馬の三倍ほどの体躯を持っている。
当然のことと言えば当然のことだろう。
それほど大きな体でなければ、私が乗っても潰れないなんてことはない。
変わり果てた紅萼――そう聞いていたので、どこか燃えている様子を考えていたが、民たちの暮らす場所に特に変わった様子はなかった。
王宮で惨劇が広がっている。
そんなことを忘れさせるほどの安らかな日常が広がっていた。
しかし、中央に進むにつれ、人数が少なくなっていく。
元々、中央には王宮があることもあり、中央に近付けば近付くほど警備が強化され、そこを歩けるのは貴族か特別に許された人間のみに限られていく。
なので、人影が少なくなっていくのは当然のことなのだが、青木門を過ぎた辺りからばったりと人がいなくなった。
誰も歩いていない。
この門の先からは紅萼に住む貴族たちの居住区となっている。
豪華絢爛――皇帝が住む紅萼に相応しいと言いたげな無駄な趣向を凝らしただけの屋敷がずらりと並んでいるが、いつもような豪華さは微塵も感じ取れない。
風が鉄のにおいを運んでくる。
戦場でも嗅いだことのないような濃い血の匂い。
大枚をはたいて手に入れた屋敷の中でここに住まう貴族たちは殺されたのだ。常琴は私を王宮ではなく、友人である麻遠の屋敷へ連れて行った。
遠とは武官見習い時代、生活を共にした悪友だったが彼も例外なく息絶えていた。
彼の家族も皆。
それから、記憶に残っている数だけ家をまわった。
あの人の家はどこだろうかと迷えば常琴が覚えており、そして誰一人とも生きたまま再会を果たすことはできずに王宮へ向かった。
(何なのだろうか、この地獄は……)
目の前に広がっていたのは、地獄だった。
長い間、戦場にいた私にとって初めて経験するほどに酷い地獄だった。
戦場が地獄なのは言うまでもない。
己の覇権と尽きぬ野望を追い求めて戦場へ赴いているのだ。そこが死地になる覚悟など、出発を決める前からずっと持っている。
しかし、この紅萼は――都に住まう人間たちにそんな覚悟などない。
ただ勝手に「逆鱗に触れた」だけで、瑞獣によって殺されてしまったのだ。これを天災などという言葉で片づける気など私には毛頭ない。
ただここに住んでいた人間は殺されたのだ。悪いことをしていたものも少なくないだろう。貴族とはそういうものなのだから。
けれど、それが命を奪っていい理由にはならない。
(私は紅萼の壁でありながら、何もすることができなかったのですね)
お粗末な紅萼の武官たちには最初から期待していなかった。将軍たちとその一派がいれば、たとえ神にも近しいと言われる瑞獣であろうと勝つことはできたのかもしれないが、あいにくそちらは行方知れずの状態が五年近く続いている。
何千何万という人間が死んだ。
その事実だけは覆しようのない事実だ。
街のあちこちに死体や血が散らばっていたというのに、王宮だけはいつものように綺麗な状態を保っていた。
――――だけでなく、かすかに光っていた。
「なぜ王宮が光っているのでしょうか……?」
状況を落ち着いて整理するために常琴から降りると、考える間もなく私は立ち往生してしまった。考えるのは苦手という性分である上に、理解不能な状況に頭が追いついていなかった。
ひとまず、常琴を近くの柱にくくりつけ、大人しくしているように命じる。
常琴は賢い馬なので、縄はゆるめに結んでおく。何かあったときに逃げ遅れ、死んでしまう方が損失である。
王宮へ向き直り、階段に足をかけたその瞬間だった。
王宮は光を増し、私の体は――――宙に放り投げられていた。