1話
おめでたい出来事があったとき、秧の国では瑞獣と呼ばれるおめでたい動物たちが祝いに来てくれるという。
麒麟、龍、鳳凰、霊亀。
この四つが瑞獣の最たるもので、秧の国の人々が信仰する神そのものである。
皇帝は全ての瑞獣と契約をした天子という位置づけで、秧の全てをあるがままにできる。
秧皇帝――全修は宮廷の惨劇に言葉もでなかった。
唯一、全修のいる金の間を除いて、宮廷の中で血の海になっていない場所はなかった。
「我らが始祖神よ、なぜ斯様なことを? 我らが何をしたというのですか。己の徳を信じ、隣人を信じよという言葉は誠ではなかったのですか」
血の海の宮中で、当然返事など――――
「知らぬ」
――――ないはずだった。
血の海になるを避けられたといえど、間へと通じる扉は中に入ろうとした人間の手がべったりとついているのだろう、手形がついていた。
血の海になっている。
そう報告を受けた向こう側に、返事があった。
「誰だ!? ――――まさか生存者がいるなど、そんなことは……」
言葉とは裏腹、一縷の希望に縋るように、全修は玉座から腰を上げて扉に手を触れた。
しかし、重く、開かない。
「我は始祖神ではないが、お前達が信じる者たちだ」
「何を言っているのだ! 宮廷の惨劇を目にしているのであろう。今はそのような妄言に耳を傾けている余裕など……」
「妄言を聞かずして、何ができる? 寵臣を失い、部下を失い、妃を失い、民からの信頼も失っているであろう、たかだか小僧がたった一人で何ができるというのだ?」
「それはっ」
口につく言葉はなかった。
全修は皇帝。
権力の維持と誇示のために力を揮うことはあっても、全修が何か一人でするようなことはない。
机の上でまつりごとのあれこれを決めて、印を押すだけだ。
それが大変ではないことはないが、全修が現場にいって体を動かすようなことはない。
「弱き小僧よ。我を信じてみる気はないか? この――」
重い扉が一気に開かれていく。
「瑞獣、慧炎を信じてみる気はないか?」
重い扉の向こうには、見たことがないほどに燃え盛る炎があった。
目と鼻の先にある炎は猛々しく、赤、青、紫、黄色、緑と色とりどりの火花を散らして全修の全てを見透かすように燃え盛る。
記憶の中に慧炎という名前の瑞獣などない。
炎の瑞獣など――獣の形をしない瑞獣など知りえない。
けれど。
けれど、全修はすでに答えを出していた。
「我は、始祖全丁の血を受け継ぐ秧国皇帝、全修である。全ての瑞獣と契約せし皇帝が瑞獣に礼を失せることなどできましょうか」
「それがお前の選択か。しかと受け取った」
全修はこれでよかったのだと自分に評価を下した。
慧炎の影にいる死体も、目線の中に入ってくる赤い染みも全てを無視して――見ないようにして、そう評価した。
「しかし、良いのか? ……吉兆を知らせる瑞獣の報せ方が、必ずしも幸福を与えるとは限らんぞ?」
意訳すれば、焼き尽くすかもしれないぞ、ということだ。
瑞獣とは皇帝に身分を与えた上位者。
皇帝が慧炎を瑞獣だと認めれば、同格の瑞獣以外は――たとえ皇帝の身であったとしても、歯向かうことはできない。
「……不幸を焼き尽くす炎であることを信じております」
ここに――瑞獣・慧炎と皇帝・全修との契約が成った。
西酉州詠向大府のもとに一報が届いたのは早朝だった。
大府の長である袁府司宛てに都から「急ぎ」とだけ題され、宮廷の正規の役人ではない遣いが来たので、府司のもとに届くまでに時間がかかったが、府司が読んでからの動きは迅速だった。
「都が……紅萼が落ちたとのことだ……」
「落ちた……!? 賊の話などなかったかと思われますが……落ちたとは一体何事」
「まさか壁であるこの詠向を避けて、東側の降光湖からまわっただと?」
「だとしても」
秧の都・紅萼は北東から南西部分にかけて海に面しており、その西側にある詠向大府は陸側の「壁」としての役割を担う。
大府の役人たちは、建国当時から皇族に忠誠を誓ってきた忠臣の一族であり、都を守るために命を落とす覚悟を決めているほどであった。
袁府司は騒ぐ一同を制して、机上に手紙を置いた。
「宮廷の人々は瑞獣の逆鱗に触れ、皇帝を除き、全てが死んだ。皇帝は宮廷の再建を図るために全ての州公、府司、府守、礼頭に召集令をかける。期日は一〇日。閉門の鐘が鳴るまで。間に合わなかった者は国賊として首を斬る」
「なんですか、これは……いくらなんでも無謀すぎます。陛下のお言葉通りの解釈をするのであれば、寵臣のいない――味方のいない都に全ての礼頭以上の貴族を呼ばれるなど……」
「抒大門冠、少々お言葉が過ぎるようです。何のための詠向大府ですか?」
「姫総事司にはお分かりいただけないでしょうが、詠向大府の門扉に全ての貴族が通るのですよ? 大府の民たちが何人死ぬでしょうか。ここに集まっているのは文官ばかりで、現状が見えていない御様子。ですからここは――」
「抒も姫も口さがないですね。そのように口が開いているのであれば饅頭を食えばよかろう」
袁府司はそういうと、傍に置いてあった饅頭を指で引っ掛け、無造作に二人の口に放り込む。
「口うるさく、お前達の話を聞いていればきりがないので単刀直入に話を進めます。まず、お前達は『朕は瑞獣・慧炎と再び杯を交わした』という部分を見落としている。慧炎という瑞獣についてなにか知っている者は? 祈祷官はどうだ?」
「……ひゃっ、ひゃい! 知りませぬ!」
「ほほ、姚よ。いざというときに知識がないということは命取りになるであろう。祈祷官として書物を読むのに励め、といったのは先月だったか。なら仕方ない。私は二度目までなら許します。三度目はありませんよ」
凄みのある視線で幼気な少女、姚祈祷官を脅すと、袁府司は瑞獣の話など、はたから興味がなかったというように部下に采配を振っていく。
大府内を移動する貴族たちの護衛――もとい、府民たちに手出しをしないかの監視は、西酉の州公とも連携を図り、他の西酉州内の大府から武官を借り、正規の詠向大府の武官たちは、入口となる夏大道に通じる門と都に通じる門での入門審査を行う。
基本的に大府内では貴族たちは、大通りを沿うように一本道で移動してもらい、出店には必ず一人は武官をつけることとした。
府民の安全性を考えれば出店を禁じるべきなのだが、貴族たちの往来は今日より十日後まで。
加えて、帰りのことも考えればひと月ほどは警戒態勢を解くことはできないであろう。
となると、大府の商人たちは大打撃を受ける。そこで考えたのがこの案だった。
大通りに通じる府民たちは、屋台を出す商人たちを除いて街を出歩くことを禁じる代わりに、少し離れたところにある武官見習いたちが訓練をする建物で過ごせることにした。これは希望者のみなので、病気などが理由で動けない者たちに強制する気はない。
こうして着実と話し合いは進んでいき、警備体制についての策は決まった。
――といっても、府司・袁正がひとりでに進めていっただけだが。
「これより妙案があるというのなら議論を続けるが、何かあるか? ないならば、私は今から宮廷に向かう。待て、そう取り乱すな」
「しかし、府司。都など目と鼻の先にあります。前日に出発しても四半刻の鐘も鳴らずに、到着します。どうか案の教科のために――」
「浅慮、無知蒙昧、能無し。どれもこれもお前達のために作られた言葉であるのか? 目と鼻の先であるからこそ、移動時間が短く、容易いからこそ、案を強化するために偵察に行けるのであろう? それを利用できなくては将になどなれぬぞ」
「しかし、府司がされなくても、他の者にやらせても――」
「しかし、府司しか言えないのかお前は。では聞くが、この中に私より強い武人は? もっとも、武人に限らずであるが」
袁正の急な問い掛けにぽかんとする一同。
なんとか答えを出そうとしている部下たちに蔑みの目を向ける。
「私に決まっているであろうが。ここは、皇帝が住まう都を守る壁なのだろう? その壁を指揮する大府の長たる府司、この袁正が誰よりも強いに決まっているではないか。もしや、私が御前試合において玄曹路に勝ったことを知らぬようではなかろうな」
「なんと……あの”千夜不眠の剣豪”玄曹路に勝った、と!?」
「玄曹路といえば、今は北亥州で武官の頭として名を馳せていると聞くが……」
「”貫徹鬼人”袁正の異名は本当だったのか……」
「この府司に就いて一年も経っていないとはいえ、まさかこれほど新しい府司に興味がないとは、悲しい気持ちになった。……別にいいけどさ。貫徹鬼人とかなんでそんな異名知ってるのに、広めてくれなかったんだよ。まじで」
袁正が初めて詠向大府で気を抜いた瞬間であった。
会議に参列している幹部たちはまた一同、ぽかんとした顔を浮かべている。
一同の心の声は揃っていた。
……あ、この人もちゃんと人なんだな。
「こほん! 私が強いということを理解してもらったようなので、私自らの偵察は決定事項とする。いいな?」
意義など言えるか。
また心の声は揃っていた。
「はっ!」