32.マルコム・フィッツの誤算
その日、マルコム・フィッツは朝からニヤニヤしていた。
それはなぜか。理由は至極簡単だ。
目障りだと思っていたグレイス・ターナーが宮廷の入り口で倒れてから、既に十日経過したからだ。
倒れた場所が宮廷ということもあり、マルコムに都合がいいのも幸いだった。宮廷の使用人にはマルコムのことを信仰する信徒がおり、ある程度のことであれば話してくれる内通者が潜んでいたからだ。
その使用人が言うには、グレイスはかなりの重症らしい。とてもではないがすぐには回復できず、また後遺症も残りそうだという情報をマルコムは得ていた。
そしてグレイスが重症だということは、リアムが信頼を寄せているコンラッドが連日宮廷に通っていることからも、状況が悪いことは伝わってくる。
即死させられなかったのは不満だったが、後遺症が残りそうなレベルの怪我を負ったということは、マルコムにとって幸いだった。なんせ目的は、リアムとグレイスの婚約をやめさせることだったのだから。
さすがのリアム様も、キズモノの少女を庇おうとはなさらないはず。
何より、そんな少女との婚約は皇家側も止めるだろう。利益がないからだ。
だからマルコムは、ここ最近だと一番気分よく紅茶を飲み、朝食を取れたのだった。
それから自身のお気に入りの少女たちの様子を見に行く。
様子を見に行く理由は一つ。マルコムが渡したリボン――そこから発せられる神力がどれくらい少女たちの体に馴染んでいるのかを確認するためだ。
神力には、人の心を魅了する力がある。
そして、あまりにも長期間摂取しすぎていると、中毒性が極端に上がるという特殊な性質があるのだ。
だから神力は大気にのみ宿るようにできている。
しかし最近になって、マルコムはそれを物にとどめておける方法を教えてもらった。
本当ならば宝石のような、元から神力を溜め込みやすいもののほうがいいらしいが、布のようなものでも代用できるという。そしてそれを身につけさせば、相手の体に直接摂取するほどではないが、魅了の効果があるのだとか。
マルコムはその実験を、教会にいる少女たちで行なっていた。
何故少女なのかと言うと、そのほうが都合がよいからというのと、個人的な趣向からだ。
マルコムは、少女を自分好みに変えていくのが好きだ。
特にその少女の見目がよければよいほど、育て上げることに楽しみがある。
何より無垢な少女たちは扱いやすく、少し優しくすればころっと落ちてしまうのもマルコムにとってやりやすい点だった。
育て上げた少女を独立させるという名目で隠れ家に囲い、好みに合わなくなれば娼館に売り貴族たちの情報を得させる……なんていうことをしていた。
娼館に売った後も、幼い頃から盲目的に育て上げた少女たちは、マルコムの愛を再び得るために、娼館で必死に働いてくれる。
時折会いに行き愛でてやれば、なおの事妄信した。
それがまさか神力の影響だとは思っていなかったが、そういう効果があると聞いたときは妙に納得したものだ。
だからマルコムにとって神力を固体に宿らせる方法は、自身の趣向を満たす意味でも好都合だったわけだ。
その中でも最近、とりわけマルコムが気に入っていたのは、アリアという少女だった。
まず、見目がいい。数年経てば確実に自分好みの美人になるということが分かる、綺麗な見目をしていた。
そして、コンラッドが世話を焼くくらいに優秀で、将来有望である。数年後には学園に通わせるつもりだと、コンラッドが言っていた。
そんな少女を手中に収めておきたいと考えるのは、至極当然だろう。
しかしなかなかのはねっ返りで、つい先日までアリアはマルコムに反抗ばかりしていた。
だが、そんな少女が数日前から、マルコムが上げたリボンをつけているのである。
「司教様、今までひどいことを言ってしまって、ごめんなさい。司教様の仰る通りでした……わたし、一人では何もできなくて……」
しかも、そんなふうに謝罪をしてきた。
ひどく反省したという顔をされて謝られれば、マルコムはすんなり許す。
「いいのですよ、アリア。あなたが人と交流を持つことの大切さについて学んでくれたようなら、何よりです」
「は、はい……」
アリアが妙に不安そうにしているのは、今まで絡んできていたグレイスも、側にいて支えてくれたコンラッドもアリアのことを顧みなくなったからだろう。時期的にもその線が濃厚だ。
まさか、グレイス・ターナーを殺そうとしたことでこんなおまけまでついてくるなんて。
思いがけない幸運というのは、こういうことを指すのであろう。我ながら、上手いことをしたとマルコムは最高に上機嫌だった。
そんなこともあり、最近のアリアはマルコムについて回っている。マルコムはそんなアリアを気遣いつつ、内心喜んでいた。
リボンをつけてから一週間ほど経つので、そろそろ魅了の効果も表れてきた頃だろう。
そう内心ウキウキしながらアリアのところへ向かおうとしていたとき、マルコムはコンラッドと出会う。
「これはこれは、フィッツ司教ではありませんか」
「おはようございます、大司教様」
「おはようございます。アリアに会いに来たのでしょうか」
「はい」
「わたしの代わりにアリアを気にかけてくださり、ありがとうございます」
「いえ、中央教会の司教として、当然のことをしているだけです」
予想外の邂逅だったが、褒められて悪い気になる人間はいるまい。例にもれず、マルコムもそうだった。
何より、マルコムには優越感がある。コンラッドのお気に入りであるアリアを、彼が知らないうちに掌握していっているという歪んだ欲望によるものだ。
それもありにこにこと受け答えをしたのだが、コンラッドはそんなマルコムを自身の執務室に呼んできた。
これからアリアと会う予定だったのに。
しかし名誉職のようなものとはいえ、大司教は教会で唯一無二の偉大なる存在だ。そんな方の誘いを断る理由はない。
そのためマルコムは少しだけ出鼻をくじかれた思いをしつつ、コンラッドについて行った。
執務室について早々、コンラッドは言う。
「フィッツ司教。これは極秘事項なのですが……あなたに一つ、話しておかなければならないことがございます」
「どういったことでしょう?」
「クレスウェル公爵閣下の、婚約についてです」
予想しない言葉が予想しない人の口から出てきて、マルコムは身をこわばらせた。
……婚約?
まさか、この短期間の間で、グレイス・ターナー以外の婚約者が決まったというのだろうか。
そう思ったのだが。
「明日、この中央教会にて、リアム・クレスウェル公爵閣下と、グレイス・ターナー子爵令嬢の婚約式を行なう予定となっています」
「……は、い?」
「急な話ですが、フィッツ司教にもお手伝いしていただきたく、こうしてお呼びしました」
あまりの情報に、マルコムの頭の中が真っ白になる。
婚約式?
しかもそれを、中央教会で?
なぜ中央教会にて婚約式を開くのか。
そんなこと、決まっている。
「……もしやクレスウェル公爵閣下は、神の前で宣誓をされるおつもりなのですか?」
――そう、宣誓だ。
宣誓と言うのは、神の前で言葉による契約を結ぶ方法だ。
主に秘密保持のために使われることが多いが、決して違えることのないことを誓う意味でも使われることがあった。
教会で婚約式を開くというのは、貴族間でも割と行われている。
それは、宣誓を行ない、相手が決してそれを破ることがないよう、縛る意味が込められていた。
しかし最近は恋愛結婚が多いため、婚約段階でそこまで行なう人間は稀だ。相当互いが好き合っていて、周囲に邪魔されたくないというときにのみ使われることが多い。
つまりリアムは、周囲からの反対を押し切るために、神の前で宣誓を行なうつもりなのだ――!
そうまでして自身の手中に収めるほど、グレイス・ターナーという少女に魅力はない。少なくともマルコムの好みからは外れていた。なのでなおさら理解ができない。
しかし、教会は表面上、中立の立場だ。そのため、貴族間の事情に口を出すことはご法度だった。
それもあり、信じられないといった口調で婚約に対して驚いたマルコムに、コンラッドは懐疑的な視線を向けている。
「それが、何か問題でもございますか? フィッツ司教」
「いえ……いえ。承りました。大司教様がそう仰るのであれば、わたしもお手伝いさせていただきます」
表面上は取り繕い、頭を下げたマルコム。
しかしその頭の中は、どうすれば婚約式を取り止めにできるのかでいっぱいだった――




