29.リアム・クレスウェルにとっての救い
リアム・クレスウェルの人生は、我慢と諦めの連続だった。
それはなぜか。終始付きまとい続ける不安と恐怖のためだ。
本能によるものか、それとも皇族の中でも特別賢かったからなのか。
リアムは自身の闇を知っていた。
だからとにかく、その闇が育たないように細心の注意を払いながら、ただ家族を守るという一心で今まで生活してきた。
その日常に、安寧はない。
自由もない、楽しさもない。
あるのはただ、罪の意識と、それでも自分を大切にしてくれる家族に対しての愛情。そして自責の念だけ。
自分自身を律して罰を与え続ける人生。
そんな生き方に擦り切れてしまい、生きている価値すら見出せなくなってきた頃、出会ったのがグレイスだった。
息を忘れる、というのはこういうことをいうのだろう。
見た瞬間、瞬時に「彼女が自分の運命の相手」だと、本能的に理解した。
綺麗だった。
まばゆかった。
それくらい、心惹かれた。
それと同時に、グレイスの存在はリアムにとって、いささか刺激の強すぎる〝飴〟だったのであろう。
目の前で彼女が死にかけたのを見た瞬間、今まで地中深くに押し込めていた心の闇が、一気に芽吹いたのを感じた。
とてもではないが、冷静ではいられない。
他人なんてどうでもいい。
失いたくない。死んで欲しくない。
自分の、せいで。
それはグレイスが死にかけた原因である飴を調査していくうちに、みるみる成長していく。
ケイレブと関係こそあったが、それが決定的な証拠にならないことを悟ったとき、リアムの心中を締めたのは諦めでも悔しさでもなく、『排除』の二文字だった。
そう。邪魔なものはすべて、殺してしまえばいいのだ。
なんせケイレブはリアムにとって、目の上のたんこぶでしかない。
それに、ケイレブのような人間が消えたところで、一体だれが困るのだろう。
そもそもなぜリアムは今まで、我慢し続けてきたのだろうか。
要らないのであれば排除すればいい。
目障りなものを殺すことを、何故ためらわなければならない。
何より、リアムにはそれを他人にバレることなくこなせるだけの魔力と、もしもの際は他人を洗脳して目撃者そのものを消せるだけの神力が備わっていた。
ならなおのこと、遠慮する理由はない。今まで同様、取り繕う意味もない。
そう考え始めると、思考はどんどん闇に飲まれた。
初めのうちは何より輝いていた『グレイスを守るため』という大義名分も、その頃には霞のように消えていて。
最後に残ったのは、飢餓感にも似た破壊衝動だけ。それはそのまま魔力の渦となって、彼の周囲に嵐を巻き起こす。
その衝動のままケイレブのもとへ向かおうとしていたリアム。
「リアム様」
そんな彼のもとに現れたのは――一人の、少女だった。
グレイス・ターナー。
リアム・クレスウェルが何より大切で、愛した人。
そのはず、なのに。
感情が上滑りするだけで、今まで感じていた愛おしさや失いそうになったときの恐怖が嘘のように感じなくなっていた。
感情が、壊れてしまったのだろうか。
そんなことを思いながら、リアムは一応と言わんばかりの言葉を口にする。
「……グレイス。休んでなくてはだめではありませんか。どうしてここにきたのです」
自分でも驚くくらい、無機質な声が出た。
それと同時に、取り繕わない自分はこうも人形のようなのかと、なんだか笑えた。
目の前のことがまるで、劇場の上で起こっているかのような。そんな一枚薄い幕が張られたような非現実に見える。
やはりリアムは、生まれた頃からの悪人で。化け物だったのだ。
そう自覚したリアムに、グレイスはなおも向かってきた。
「リアム様。やめてください」
沈痛な面持ちで言うグレイスに、リアムは首を傾げた。
「何を、やめろというのでしょう」
「……今からしようとしていること、そのすべてを、です」
まるで、リアムがこれから何をしようとしているのか、全て分かっているかのような口ぶりだ。
否。グレイスは、リアムが唯一思い通りにできない人間だ。きっと、全て分かっているのだろう。
ならば、彼女もいらないのでは?
そんな思考が湧き上がり、リアムは手を震わせた。
しかし何故手が震えたのか分からず、困惑する。感情が追いつかない。
リアムが混乱のあまり立ち尽くしていると、グレイスが一歩、また一歩と近づいてきた。
その顔が険しく、今にも崩れ落ちてしまいそうなことに気づき、リアムはまた動揺する。
「リアム様。リアム様は本当に、それしか方法がないと……そうお思いですか?」
「……どういう、意味でしょう」
「……伯父様の罪を暴くのでもなく、彼をはめて陥れるのでもなく……殺すしか解決策がないと思っていらっしゃるのかと。そう、聞いています」
グレイスは語る。リアムに語り掛ける。
思考することをやめようとしていたリアムに、その言葉は何故かひどく刺さった。
方法は、ないのだろうか。
グレイスの言う通り、ケイレブを退場させる方法は、あるの、では?
そう考えようとすると、芽吹いた闇が手を伸ばして、それを沈めようとする。
それを振り払うように、グレイスは告げた。
「もし本当にそう思われたのなら……私もリアム様の罪を、一緒に背負います」
がつん、と。
頭を殴られたかのような衝撃が走った。
グレイスは、リアムを裁くのでも、遠ざけるのでもなく、一緒に罪を背負ってくれるのだという。それは彼にとって、全く未知の選択だった。
思わず目を見開けば、グレイスがもう目前まで迫っていた。
彼女の足で、あと数歩といったところだろう。それが、今のリアムには死刑宣告のように見える。
ぞわぞわと、言い知れぬ恐怖がこみ上げてきた。
それを振り払うように、リアムは魔力の渦を強くする。
しかしそれはグレイスには当たらず、まるで何かに守られているかのように弾かれてしまった。
それでも、グレイスの今の体には衝撃が強かったのだろう。後ろに倒れ込みそうになる。
反射的に手が前に出そうになり、リアムは体をこわばらせた。
――何故わたしは、彼女を助けようとしたのだろう。
リアム自身が、グレイスが倒れる原因を作った張本人なのに。
そんなふうに気を抜いていたからだろうか。周囲を覆っていた魔力の渦が、気づけば弱まっていた。
瞬間、体勢を立て直したグレイスが、駆ける。
「でも! 今のリアム様は全然、全力なんて出してないッッッ!!!」
気づいたときには、リアムはグレイスに押し倒されていた。
グレイスの瞳から、大粒の涙が零れ落ちていく。
「ねえ、どうして! どうして諦めてしまったの!? あなたには解決できるだけの力があるじゃないですか!」
「グレイ、ス」
「なのに、どうして!……どう、して……っ」
ぼろぼろと涙をこぼすグレイスに、リアムは現実に引き戻されたかのような、そんな強い衝撃を受けた。結果、今までは非現実的だった目の前の出来事を、ようやく実感できるようになる。
感情が戻ってきたリアムが一番初めにした行動は、グレイスを泣き止ませることだった。
「グ、グレイス……わたしが悪かったです……なのでどうかお願いします、泣き止んでください……」
参る、というのはこういうことを指すのだろう。
男は女の涙に弱いという話自体は知っていたし、リアムも兄から「妻から泣かれるのが一番堪えるな……」という話自体は聞いていたので頭で理解はしていたが、ここまで動揺するとは思わなかった。
それもあり、リアムは手を伸ばしてグレイスの涙を拭おうとしたのだが、振り払われてしまう。
「私、今回のこと以外でも怒ってます……っ」
「はい……」
「守ろうとして、勝手に遠ざけるのはやめてください。私だってリアム様を守りたいんです……!」
「……はい」
「それと、つまらない人間だなんて言わないで。たとえそれが偽善でも、善行は善行です。……リアム様がしてきたことを否定するようなら、たとえリアム様でも許しませんから」
それを聞いて、リアムは泣きたい気持ちにさせられた。
ああ、グレイスがこんなにも怒っているのは……わたしのことを想ってだったのですね。
そう自覚した瞬間、愛おしさと切なさをまぜこぜにしたような気持ちになり、胸が苦しくなる。
思わず泣き笑いのような顔を浮かべて「はい」と言えば、グレイスはぎゅっと唇を引き絞った。
そして、絞り出すように言う。
「またこういうことが起きたら、私、全力で止めますから。……もし私を死なせたくないなら、何か起きる前に話してください」
「……分かりました」
「それと……もし本当に地獄へ行くこと以外の選択がないのであれば、私もついていきます。これは、絶対です」
リアムの心の闇を理解したような言い方に、彼は笑みを浮かべる。
同時に、思ったのだ。
ああ、だから、わたしは。
彼女のことが好きになったのです。
グレイスならばきっと、リアムの心の闇が広がる前に、止めてくれる。照らしてくれる。
そして、一緒に罪を背負ってくれる。
それは、今までずっと他人のことばかり考えてきたリアムにとって何よりの救いだ。
こんな人は、この先絶対に現れないだろう。だから絶対に、離さない。離すものか。
その気持ちを込めて、リアムは口を開く。
「そのときは、ちゃんとエスコートできるようにしますね」
そう言えば、グレイスはようやく笑みを浮かべてくれた。
しかし瞬時にハッとすると、むすっとした顔をする。
「けれど、今回はそのときではありませんからね?」
「ふふ、そうですね」
「あの人、叩けば絶対に埃が出る人なんですから! ちゃんとやって! 私だけでなく皆、リアム様のことを大事に思っているんですから、自分を大切にして!」
「……はい、愛しい人。仰せのままに」
そう言い、リアムはグレイスの手を取ると、その指先に恭しく口づける。
そこでようやく、リアムはグレイスに触れる許しが出たのだった――




