28.満身創痍、ラスボスに挑む
グレイス・ターナーは、自身の神獣であるシャルの背に乗って、中空を駆け抜けていた。
夏の夜とはいえ、田舎ほどではないが朝晩は冷える。また三日も寝ていたため体が弱っており、直ぐに息が乱れてきた。
シャルも人を乗せてかけるのは初めてなようで、乗り心地はあまり良いとは言えない。そもそも人が動物の背に乗るためには鞍のようなものが必要だ。そのため、乗るというよりは抱き着いている感じだった。
しかしそれでも、シャルはグレイスの体への負担を減らそうと神術で結界を張ってくれたし、グレイスが落ちないようにできる限り体を揺らさないよう配慮してくれた。
(きっとこういうとき、魔術が使えたらもっと上手くできたのにね)
神力はその性質上、守るということ以外で固体にならない。空気を固体にするには特別な方法で固めなければならないのである。言わばドライアイスのようなものだ。だからどうしても、綱のようにはできない。
だけれど。
(それが一体、どうしたっていうのよ……!)
ぎりっと。グレイスは唇を噛み締めた。
リアムを絶対に闇堕ちさせないと、決めたのだ。ここで動かないでいつ動く。
あんなにも優しくて自分に厳しい人が、悪人のせいで人生全てを台無しにされるなんてあってはならないのだ。
(それに、リアムはつまらない生き方って言ってたけど……そもそも、上っ面だけであんな慈善活動ができる人が、いったい何人いると思ってるのよ……!)
しかもそれを二十年以上続けるなんて、並大抵のことではない。リアムに少なからず良心が存在しなければ、そんなことはできないはずだ。グレイスだったら、一年と持たず音を上げる自信があるのだから。
だから、今のグレイスにできることはただ一つ。
(お願い、どうか間に合って……!)
そう、心の中で祈ることだけだった。
――それから、どれくらいの時間が経っただろう。直ぐだったような気もするし、一時間以上経っていたような気もする。
シャルが降り立ったのは、クレスウェル邸の裏手だった。厩舎がある辺りだ。
つまりリアムはこれから、ケイレブのところに行こうとしたのだろう。
(間に合ってよかった……)
間に合ったのであれば、きっと説得に応じてくれるはず。
そうほっとしたグレイスだったが、リアムと顔を合わせてすぐに考えを改めた。
――そこにいたのは明らかに、グレイスが知っているリアムではなかったからだ。
感情全てをそぎ落としたような無表情に、刺々しいまでの魔力が感じられる。それは茨のように強固でひどく攻撃的だった。普段、何があろうとも神力が周囲に満ちていて、清く美しいことを考えると、まるで別人だ。どす黒い何かすら見える気がする。
渦のようにリアムの周囲にまとわりつくそれは、駆け寄ろうとしたシャルの体を傷つけた。
さすがのシャルも、そんなリアムの行動にひどく愕然としている。それはそうだろう。普段のリアムを知るものであればあるこそ、今のリアムの姿は違いすぎてとてもではないが冷静でいられない。
グレイスが冷静でいられているのは、小説の内容を知っていたから。
――そして、リアムのこの姿に覚えがあったからだ。
「シャル様」
それを確認したグレイスは、シャルに制止するよう促す。
そして返答を待たず、地に降り立った。
すると、今までは多少の違和でしかなかった体の不調を、はっきりと自覚する。
(……びっくりするくらい、歩けないわ)
内臓を損傷したと言っていたが、本当にそのレベルなのだろうか。体に上手く力が入らないし、何より一歩前に進むだけで全身が痛む。筋肉痛が全身にきているような、そんな痛みだ。とてもではないがまともに動けない。息も苦しい。
何より魔力の圧がすごくて、体が後ろにひっくり返りそうになった。
それでも、グレイスは一歩ずつ前へ進んだ。
ずっと自身の魔力を弾いてしまうこの体質を疎ましく思っていたが、今日ばかりはありがたい。でないと、リアムに近寄ることすら叶わなかっただろう。
(もしかして、こういうときのために、神様が私をこんな体質に変えたのかしらって……都合のいいことを考えてしまうわ)
でないと、痛みと妙な眠気で意識が飛びそうだった。
それを振り払う意味を込めて、グレイスは口を開く。
「リアム様」
そして、警戒するようにグレイスを睥睨するリアムに、そう呼びかける。
それでも、リアムは無表情のままだった。
「……グレイス。休んでなくてはだめではありませんか。どうしてここにきたのです」
そう口にするが、そこには心配なんて一ミリもこもってない。とりあえず心配しておいたほうがいいだろう、とでも言うような、なんとも言えず機械的なセリフだった。
それを聞いたグレイスは、思わず笑う。
(ああ、なんか、すごく覚えがあるわ……そうよ、これ。この感じ)
『グレイス。どうか僕のために、あの女を殺してください』
そう、この感じは確か、リアムがグレイスにアリアを殺すように命じたときだ。
無感情で機械的。
心なんて何もこもっていない。
ただ、自身の一声があればグレイスが何でもやってくれると分かっている。そんな傲慢さが透けて見える声だ。
まるで自分が本当に体験したかのような感覚はよく分からない。だがそのおかげで、今のリアムが少なくとも、グレイスが知っている彼でないことははっきりした。
そのためか、頭の芯がすうっと冷えて、意識がはっきりする。
(ここで私がリアムを止められなければ、彼は確実に闇堕ちする)
それを避けるためには、グレイスも本気で説得しなければならない。
それこそ、死ぬ覚悟をしてでも。
ふう、と息を吐いたグレイスは、最後に一度だけ振り返った。
そこには、魔力の嵐を結界で防ぎながらも、グレイスを見守るシャルの姿がある。
『グレイス――もしも何かあればあたしが殴るから、やりなさい!』
(……約束、覚えていてくれたのね)
この世で一番頼りになる相棒であり親友の神獣からの激励に笑みを浮かべてから、グレイスは再度前を見る。
そしてリアムのもとへと、一歩ずつ向かっていった――




