1.ラスボスには関わらない方針
グレイスという女性は、『亡国の聖花』という小説に出てきた悪女だ。
役どころはよくあるもので、夫の甥である皇太子の恋人のヒロインを虐げて虐める、というもの。もちろんその後、ヒーローである皇太子がそのことを知り、グレイスは断罪される。
「なんてありふれた設定の存在だ」と、作中で出てきた当初は、読者たちに思われていた。
しかし彼女は、小説における中ボス程度の存在だった。
それも、ラスボスである夫にそそのかされ、献身の末に報われることなく死ぬ不憫な中ボスだ。
そしてグレイスを唆し、彼女を悪女に仕立て上げたラスボスは、夫――リアム・クレスウェル。
巷で『聖人公爵』と呼ばれる、皇帝の弟だった。
「絶対に近づかないようにしなきゃ……」
前世の記憶を思い出した瞬間、グレイスは真っ先にそう思った。
それは何故か。
作中で、リアムが嫌いだったからではない。むしろ好きなほうだ。というより、この聖人公爵様のファンだった読者はかなり多い。ラスボスだと判明する前も、甥であるヒーローをひどく可愛がり、時には叱りつけ、成長を促す……という、いわゆるところの師匠的な立ち位置を確保していた。
そんな彼がラスボスだったと判明したときの、ファンの反応はひどかった。
文字通りの阿鼻叫喚だ。
当時のSNSでは完全に通夜状態だった。
しかしその後、生い立ちが掘り下げられたことで、同情が集まり人気がより高まった。ファンたちは彼の境遇に悲しみ、同時にラスボスに至った経緯に涙したものだ。
おそらくグレイス――正しくは彼女の前世――以外のファンであれば、リアムがラスボスになるのを阻止する方向で動き始めるかもしれない。
グレイスが前世を思い出したのが、リアムがラスボスになるきっかけを生み出す出来事が起きる前なので、尚更だ。
それでも近づきたくない、と思ったのは、単純明快。
グレイス個人でどうこうできる相手ではないからだ。
(いやだって……普通に考えて、無理でしょ!)
相手は、ラスボスに相応しい地位と経歴を持った皇弟様だ。臣下に下ったために公爵という地位を得ているが、それをひけらかすことなく慈善活動に従事している。
この時点でだいぶおかしいのに、人に好かれる能力がすごいのだ。
皇族が持つ元々の性質はあるが、彼は仕草ひとつにも気を配って相手からどう見られるのか研究するタイプの人間だった。だから、よく人のことを見ているし、人によって仕草ひとつひとつを変えるという、頭のおかしいことをしているらしい。
何より、貴族たちの名前をすべて把握して顔も覚え、社交の場にはほぼ必ず出席する。グレイスのような弱小子爵家ですら把握しているのだから、手に負えない。
そして自分の立場を考え、決して利用されず、しかし相手のことはしっかり利用するという。
グレイス自身もそれくらい頭が回れば良かったが、土台無理な話だ。
かといって、死にたくもない。
しかしうっかり接触して小説同様に恋をし、リアムの婚約者になってしまったら最後だ。グレイスは彼の操り人形として献身的に尽くし、そして愛されることなく一生を終えることになる。
婚約者になるのは十九歳の宮廷舞踏会でなので残り一年くらい余裕があるが、どちらにしても死ぬのは嫌だ。
そして何より、リアムを気にしている暇がないくらい悪いことが、グレイス自身の身に起きている。正直言ってそちらの対処に注力したかった。
そういうわけで、グレイスはリアムとの関わりを徹底的に消し去ろうと決めたのだ。
(そのために、原作の知識を日記帳五冊も使って書き出すことになるとは思わなかったわ……)
最近の中だと、一番の出費になってしまった。紙は、ターナー家的には高い買い物なのだ。
意外と、魔導具に活用される小型の魔石のほうがよく採掘できるので、そこは困っていないのに。
(まあその魔石も、領地の山にある洞窟で取れる小さいものなのだけどね……)
と言っても、その程度のサイズがあれば魔導具を三時間ほど活用できる。グレイスがよく使うのは明かりの魔導具だ。あとは使いすぎないよう、極力夜の活動を減らせばいいわけだ。
今回は急ぎだったこともあり、その魔石も活用して夜遅くまで書いたが。
ただ書くことが多すぎて、記憶が戻ってから一ヶ月はこれにかかりきりになってしまった。
小説がヒロインの幼少期から丁寧に書いていたこともあり、二十三巻で完結した大長編なので、それだけ時間がかかったのは致し方ない。
その上、グレイスが十八歳の頃の設定が詳細に記載されているのは、リアムの幼少期が記載された別枠のスピンオフだったのだ。
まあ当たり前だ。本編内でグレイスが登場するのは、彼女が二十四歳の頃になる。
なら本編は別に書かなくてもいいのではないか、とグレイスも思った。が、今後も内容を記憶できる自信がない上、どの情報が役に立つのか頭の中で選別ができない。
よって頭から全て書き起こすのが最善だという結論を出したわけだ。
本編二十三巻+リアムのスピンオフ三巻=二十六巻だ。
それを覚えているうちに紙に書こうとすれば、相当な時間がかかる。
何度も心が折れかけたが、それでも自分の命、ひいては家族の命を守るためだと自分に言い聞かせ、何とか書き切った。
このとき、嬉しさのあまり叫んでしまい、家族に心配されたのはまた別の話である。
しかしその資料のおかげで、第一関門がなんなのかはわかった。
――それは、社交界デビューである。
社交界デビューというのはその名の通り、貴族の子どもたちが社交場に初めて顔を出す機会のことだ。いわば成人式のようなもので、これに出られない貴族の子どもたちは、今後公の場に顔を出せない決まりになっている。
今から一ヶ月後、都で一番初めに開かれる夏の宮廷舞踏会。それが、今年社交界デビューを果たす男女が集う場だ。
高位貴族の場合、皇帝陛下と皇后殿下に直接御目通りすることが叶うが、グレイスは弱小子爵家なのでパーティーへの参加が社交界デビューのそれになる。
ターナー家がこの日にかける情熱はどの家よりも強いもので、両親は今までグレイスのためにコツコツとお金を貯めていた。そのお金で仕立てたドレスも、すでに用意ができている。張り切っていることは確実だ。
そんな両親の気持ちを考えると、社交界デビューしたくない、とは口が裂けても言えない。
(けれど、社交界デビューとなると、リアム・クレスウェルと遭遇する可能性が高くなるのよね……)
皇族ということで、リアムはこういった皇族主催のパーティーに必ず参加している。
そして小説内でも、この社交界デビューの際に会話をしたことがきっかけでグレイスはリアムの目に留まると書かれている。その後、数回パーティーで話をする機会があり、紆余曲折を経て翌年の夏、二人は婚約者になるのだ。
そして一年後、グレイスが二十歳の頃にめでたく結婚する。今のグレイス的にはまったくめでたくないが。
つまり、グレイスが取るべき行動はただ一つ。
リアムと挨拶以外の会話をしない、ということだ。
この辺りが大変もどかしいのだが、二人の出会い方こそ書いてあるが、詳細な出会いのシーンは書かれていないのだ。
そう。さらっとした描写だった。
『グレイス・ターナーとリアムが知り合ったのは、グレイスが社交界デビューをしたとき。その翌年の夏の宮廷社交界にて再会し、二人は婚約者になった。』
……これが、途中退場する中ボスの悲しい扱いである。
せっかくなら、グレイス・ターナー視点のスピンオフも書いて欲しかった、とグレイスは内心泣いた。
(まあでも、まさか数多いる令息令嬢の中から、私に最初から注目することはないでしょう)
こう言ってはなんだが、グレイスは整った顔立ちではあるものの、あまりパッとしない。
今のグレイスは、赤毛のウェービーヘアに青目という、前世からしてみればかなり派手な色をしているのだが、それでも中の上くらいだと思っていた。
理由は、ここがファンタジーな世界ということもあり、赤、青、緑、金……と、カラフルな髪色をした人間がたくさんいるからだ。
なので、顔も含めて相当整っていないと目立たない。
何よりきつめの吊り目というのが、なんとも言えず可愛げがない。女は愛嬌、という文化の国で、この顔は大変なマイナスポイントだ。
自分で自己評価をしておきながら心を痛めたグレイスは、やさぐれた。
(……いいわ。こんななんの旨味もない子爵令嬢に求婚してくる人間なんているわけもないし、他の方法で生き残る道を探してやるわ……)
もしくは、寿命間近な資産家なところに嫁いで、清い身のまま早々に未亡人になるのも良いかもしれない。とにかく、リアムと関わらないのであればなんでもいいのだ。
そこでふと、グレイスは思う。
(そういえば……小説内でリアム・クレスウェルがグレイスを婚約者に選んだ理由って、なんだったかしら?)
そう考え、小説内ではその辺りの記載はなかったな、と気づく。
なぜ確信を持ってそんなことが言えるのかというと、ファンの間でも物議を醸した部分だったからだ。
登場当初はリアムが黒幕だとほとんどの人が気づかなかったため、「恋愛結婚では?」という読者が大半を占めていたはず。
何故かというと、リアムほどのハイスペック聖人が、婚約者の愚行を強く止めないのはおかしい、という結論に至ったからだ。
しかし中には、やたらディープな考察を淡々とブログにまとめてSNSに貼り付けているアカウントがあった。そのアカウントでは、別の考察もされていたように思う。確か、「リアムがグレイスを婚約者に選んだのは、政治的な理由があったからでは?」と記載されていたような気が。
何故こんなことを覚えていたのかというと、このアカウントの別の考察が後にドンピシャで当たり、界隈がざわめいていたからだ。
しかし前世のグレイスは小耳に挟むだけで、実際に見に行ったことは一度しかない。それも、長すぎる文章にたじろいで最初の方でやめてしまったが。
ただ、あれも見ておけば、今少しは役に立ったのかなーとは考えた。
(まあ、私にはもうどうでもいいことだけど)
なんせ、関わらない、という方針でいくのだ。ならとにかく避けに避ければ、悲劇は避けられるはず。
そう考えつつ、グレイスは社交界デビューのために、家族たちと自領から帝都へと向かう馬車へ乗り込んだ。