3
誰かが言った。し残したことと言われても、一枚の田んぼから穫れる米粒ほどある、と。すると誰かが応えた。よくよく考えれば、そのどれもが取るに足らない俗世の塵のように思える、と。
「ここに書いてあんじゃねえのか?」
へさきの近くに座る者が乗客名簿をのぞき見た。が、答えはおろか、文字のひとつも書かれていなかった。
役人は前を見たまま、ククク、と笑う。
「人に見えぬ文字でおまえたちのすべてが記されている。美挙も、愚挙も、すべて! 露骨なまでにだ」
真実とも冗談とも取れる、人を惑わす言いようだった。乗客は困惑気味に顔を見合わせ、それから気まずそうにうつむいた。
ラジも考えてはみたが、特別思い当たらない。番頭への復讐心、それ自体は寺院で断ち切ってきた。ただ、いたずらに死したことがあまりに滑稽で惨めだっただけ。目的を果たせなかっただけでなく、復讐を考えるほどの思いを抱いていることさえ知らせられずに死んだのだ。せめて、それだけは伝えたかった……。
けれど、それも、もういい。すべては済んだこと。それに〈魂のし残したこと〉と言うのだから、徳に背くようなことではないはずだ。ましてや、さまつな俗っぽい欲などであるはずがない。し残したことを思い巡らしながら、遠い山々を眺めていた。
しばらくは皆、押し黙っていた。人生をふり返り、役人の言うように美醜さまざまの行為を思い起こしていた。あらたまると、恥ずかしい行いばかり思い出されるのか、皆一様に暗い顔をしている。
どのくらいそうしていただろう、依然として風はそよとも吹かず、目玉は寸分変わらぬ空の高みで輝き続けていた。
沈黙に耐え切れないとばかりに、エトラがはすっぱな声を上げた。
「やり残したことなんて両手に抱えきれないほどあるわ」
皆の注目を浴びながら、うっとりと指折り数え始める。
「毎日三時に砂糖とシロップたっぷりの甘~いお菓子を頂くことでしょ。週に一度はじゃがいもやヒヨコ豆じゃなくて、鶏のマサラ煮を食べるくらいの贅沢がしたかったし。そうよ、銀の刺繍の入った服も着たかったなあ。評判のあの映画だって見てないわ。それに新しいお歌をあと百も覚えたかったわ。それから……」
ラジは思わず口を挟んだ。
「そういうのは、くだらないよ」
水を差されたエトラは横目になって諭すように、
「あーら、やぁね。女はみんなこうなのよ」
「女……って。きみいくつだよ」
「十五よ。立派な淑女たるお歳でしょ」
ちりちりの黒髪を手でなびかせて気取ると、出稼ぎ人から野次が飛んだ。
「何が淑女だ。おめえ娼婦じゃねえかよ」
ちくりと針を刺されたみたいに、エトラは顔をしかめた。ラジは少し驚いたが、それよりも無神経なひと言に腹の中がかっと熱くなる。出稼ぎ人は何気ない顔で構わずに続ける。
「置屋から男と出て来るとこ、俺見たぞ。あの宿で客取ってたんだろ」
男達は含みのある視線でエトラの全身を見回した。肌触りの悪い空気が舟上に漂った。ごろりとした固形物に似たぎこちなさ。
けれど、右隣の男から更なる野次が飛ぶと、居心地の悪さは一掃された。
「そういうおまえさんこそ、そこで女を買ったんだろう?」
下卑た笑い声が一斉に上がる。出稼ぎ人はいかにもばつが悪そうに頭を掻いた。図星だ。
ラジは少しも笑えない。心ない発言に突き上げるほどの怒りを覚えていた。大きな瞳をたぎらせて、静かに、きつく、出稼ぎ人を睨みつける。すると、右隣の男が鼻の下を伸ばした好色そうな笑みをもって、ラジをからかった。
「“お坊ちゃん”にはまだ刺激が強すぎる話だったか、うん?」
頭に血が上ると同時に、莫迦笑いが響く。右隣の男はいっそう嫌らしく目尻を下げ、
「やっぱりか? 配慮が足りなくて、わーるかったな」
別の男が言う。
「おい、若いの。やり残したことって、アレじゃねえのか?」
「このっ……! ふざけるなっ!」
「顔が真っ赤だぞ、猿のケツみてえだ」
ラジは耳朶まで震える勢いで憤慨したが、怒れば怒るほど笑い声は高くなった。はやし立てる声はなかなか止まない。
「勝手に言ってればいいさ!」
吐き捨てるように呟いた。上気した顔をうつむいて隠し、荒くなった息を必死で整える。
そのうち、左側からエトラの溜め息がかすかに聞こえた。疲れたような短い吐息。もはや誰もエトラには注目していなかった。老婦だけが切なげな目でエトラを気遣っている。
ラジは悔しさに歯噛みしながら、頭の中で愚痴をこぼす。
こんなふうに好きなだけ冷やかし、あざ笑い、人を侮辱する者ばかりいる。ひとしきり噂をして、そのあとは知らんぷり。当人の気持ちなど考えない……。
ラジは目の端に映るエトラを気にかけた。先ほどしかめた顔はもう元に戻っている。つまらなそうに視線を落とし、漫然と考えごとをしているようだった。
エトラの歳を聞いたとき、ラジは内心面食らった。十二~三と思っていた。十五歳にしては小柄だ。もっとはっきり、貧相と言っていい。その丸みのない身体つきは、貧しい生い立ちを想像させた。貧富は体格に、ありのまま表れるものだからだ。
姓を聞けばたいていの場合生まれが分かる。エトラの階級は決して低くはなく、ラジと同程度だ。しかし、生まれと貧富は必ずしも比例するとは限らない。身を堕としたのには、のっぴきならない事情があると容易に想像がつくはずだ。だからこそ出稼ぎ人が許せない。
貧しさは死を迎えるまで、エトラについてまわったのだろう。着ている衣服は流行の色柄でも、布地を見れば一目で安物と分かる。胸元が大きく開いた上衣は、浮いたあばら骨を強調し、かえってエトラをみすぼらしく見せていた。
いくつも重ねた細い腕輪は、よく見れば朱の彩色がはげかかっている。か細い指や耳朶にささやかな金の飾りをつけてはいるが、その輝きもとうに失われていた。
娼婦といっても、一夜で莫大な花代を稼ぐ高級娼婦などではなく、野犬のような男達の前でただ足を開く、そういう類の女に見えた。
十五なら、以前働いていた商家の一人娘と同い年だ、ラジはその娘を思い出した。吸い込まれそうに美しい娘。牛の乳ほど白い肌、緑の黒髪、ひたむきな眼差しとほのかに染まる頬……。
まっすぐに見つめてはいけない、そう思うのに目が合った。いちど目が合うと逸らすのにひどく苦労した。かなぐるように逸らした直後、疲労とともに甘酸っぱい感情が身体の奥から湧き上がった。
エトラと娘はまるで違う。
艫にはひとりで背負える程度の荷が置かれ、深紅の布がかけられていた。近くの者が布をめくって確かめてみると、木箱と真鍮のかめが現れた。鈍く光る真鍮のかめは牛乳で満たされている。
木箱にはいくつもの湯呑みが並び、茶葉、砂糖などが保管されていた。片手鍋と濾し器、やかん、それに土をこねただけの簡粗な焜炉も用意されている。
「茶の道具があるぞ!」
「本当か!? 茶が飲めんのか?」
忘れていた、と役人はふり返り、
「好きなだけ飲んで語らうがいい。茶のない語らいは花の咲かない春、と言うのだろう?」
手を腰に当て得意そうに微笑った。
「舟の上でお茶会だなんて、ずいぶん気の利いたおもてなしじゃないの!」
エトラは明るい声で称賛するが、一方で確認を怠らない。急に声を厳しくして、
「で、もちろんタダでしょうね?」
「…………無論だ」
役人は何か言いたげに間を置きつつも冷静に答える。皆が失笑した。
「おお、そこの猫背。おめえちょっと火ィ熾せや」
出稼ぎ人の言葉に、男達は「熾せ、熾せ」と同調する。
「へ、へぇ」
猫背男は急かされながら火を熾し始めた。その手付きはぎこちなく、指が細かく震えていた。火を熾せない者などいないのだから、注目されるのがよほど苦手なのだと分かる。
「手際が悪いな」
「早くしねえか」
猫背男は何を言われてもうつむき加減で相槌を打つだけだ。卵みたいなつるりとした顔に曖昧な笑みを浮かべて「へえ、へえ、すんません」とうなずいている。
ラジは不憫に思い、手伝いを申し出た。
「僕がやるよ、貸して」
「すまんなあ、あんちゃん。ありがとな」
弱々しい声で礼を言うが、決して目を合わせようとしない。顔を上げるのを怖れているかに見える。
生前、まわりの人に酷く扱われて来たのだろうと、ラジは推察する。卑下するような丸い背が痛々しかった。謙虚で温厚な好人物ばかり不当な扱いを受ける、ラジはそんな世の中を厭わしく思って生きてきたのだ。
燃料が燃え始めた。円くかたち作り乾燥させた牛糞から、ちらちらと赤い炎が上がる。煙が細長く立ちのぼり、破れ目を目指してまっすぐに線を描いていた。
「あとは、あたしにまかせて」
エトラが率先して茶の用意を始めた。河の水を入れた片手鍋を焜炉へかける。
その様子を見て、ある男が眉をひそめた。遠慮がちにとはいえ、声に不快感を孕ませ、
「……あんたが淹れんのかい?」
ぴくり、エトラは下瞼を引きつらせ固まった。娼婦という職業を特別に忌む者だ。またしても舟上は張りつめる。
誰か他の……と男が言いかけると、右隣の男が声を大にして制した。
「姉ちゃんが淹れてくれ。汗くせえ男どもや、しなびきった婆が淹れた茶なんか飲みたくねえよ。冗談じゃねえ、末期の水だぜ? やせっぽちでも女は女だ!」
有無を言わせない、どこか厳然とした口調。睥睨するように皆を見回してから、「んな?」と、おどけて見せる。それさえも高飛車だ。誰も反論など出来なかった。
「あんた、ひとこと余計なのよ。美女の淹れた美味しいお茶が飲みたいって、どうして素直に言えないのかしら」
文句を垂れながら、エトラは茶葉の用意を始めた。舟上の緊張がふっと解ける。老婦が呼応して、文句の続きを引き受けた。
「失礼だねえ! わたしゃまだ花の盛りだよ、その辺のしわくちゃ婆と一緒にしないでおくれ」
日焼けした肌にしこたま皺を刻んで老婦が吠える。節くれ立った人差し指で、額の辺りを指差した。薄布の下から覗く白髪交じりのまとめ髪には、分け目がつけられていない。未婚の印だ。
誰かが「いかず後家」とつい呟きかけ、はっと口をつぐんだ。慌てた様子がさらに舟上を和やかにさせた。
隠し味はカルダモン。茶葉を煮出すと、カルダモン独特の木屑に似た芳香とともに茶の香りが漂いはじめた。親しみ抜いた香りであるのに格別に感じられる。現実と違い、ほかのさまざまな匂いが混じらない空気だからだ。鍋から上がる甘美な香りが舟上を融和していく。
アルミのやかんに移してしまうと、エトラは何ごともなかったように、たっぷりと愛嬌を振りまいて給仕して回る。薄っぺらのよく出来た作り笑みだ。
それでも、明るい笑みと鮮やかな杏色の衣装は、エトラを大河の上に咲いた大輪みたいに感じさせた。鼻腔を撫でるふくよかな茶の香りも手伝って、皆、気を良くした様子で笑顔を返していた。さきほど不快を示した男すら、戸惑い半分の笑みを浮かべつつ茶を受けた。
右隣の男はひとくち飲んで、満足げにヒュウと口笛を吹いた。
「美女かどうかは議論の余地ありだがな、茶はうまいぜ。姉ちゃん」
「余計なことつけ加えずにしゃべれないの、あんたは」
「うまいのう。ワシんとこの嫁が出す茶よりずっとうまい」
「あらそ。なんだったらお金払ってくれてもいいのよ」
笑ったり怒ったり、表情をくるくると変えながら、エトラは軽口をたたく。ラジはそんなエトラが少しばかり切なかった。これまで何度も、人々の白い目に遭遇しただろう。それを思うと、暴言を浴びてもさらりと流せるエトラの強さは胸に痛い。傷付きすぎて心が摩耗してしまったのかと、ラジは考えてしまう。
ところが、誰に対しても分け隔てないエトラを眺めているうちに、ラジは胸に引っかかりを覚えてしまった。わだかまる不服が口角を下げる。
一巡したエトラはラジの不満げな顔を見て、執りなすふうに囁いた。
「お待たせ。ほら、こういうのって年齢順だからさ」
ラジは茶を受けながら、ひそひそ声に怒りを滲ませる。
「そんなこと言いたいんじゃないよ。あんな男に笑いかけてやる必要ないじゃないか」
「あんな男?」
「きみを侮辱した男だよ!」
ラジは目線で出稼ぎ人を指し示した。エトラは目を丸くして、
「そんなこと気にしてたらやってらんないわ。あんたって生真面目ねえ!」
「許せないんだよ、ああいう奴」
ラジは鼻の付け根に皺を寄せて、やり場のない憤りを甘い茶と共に飲み込んだ。
小振りの湯呑みは質素な素焼き。生まれいでし大地と同じ色をしている。飲み終わればそのまま地面に放られたり、河に投げ入れられるのが習慣だ。やがて湯呑みは水を含んで溶け出し土に還る。大雨が降れば押し流されて他の土地へ流れ着く。長い長い時を経て、その土塊は新たな形を手に入れる。人の魂もまた同じこと。
素焼きの湯呑みを人だとするなら、注がれる茶は人生の思い出だ。皆、砂糖たっぷりの茶に心を酔わせながら、思い出を語り始めた。
右隣の男が大きく伸びをした。特別に鍛えたと分かる均整の取れた身体は、出稼ぎ人とは対照的に美しくしなやかだ。その立派な体躯を、くたびれた丸襟シャツと腰巻きで包んでいる。櫛をあてたあともないぼさぼさ髪なのに、口髭は几帳面に切り揃えられていた。
男はそこかしこに不調和を抱えている。始終にやついているが、反面、目つきはいやに鋭い。見ていると、何かごまかされている気になる。そんな胡散臭さを、ラジは感じていた。
右隣の男は探るような上目遣いで猫背男に話しかけた。
「おまえ、住まいはどこだ?」
びくりと肩を震わせたあと、猫背男は声を裏返らせて答える。
「へ、へえ。都です」
「都のどこだ?」
「ひ、東の方です」
「仕事は?」
「家業を手伝ってました」
「ダルブーラムにはなんの用だ?」
「へえ、商売の関係で」
「ふん……。なんか面白い身の上話はないのか?」
「いやあ、平凡極まる人生で……皆さんを楽しませるようなことは何ひとつありませんで、へえ」
猫背をいっそう丸めて、ほとんど隠れるように身を屈めて答えた。へりくだり過ぎても、かえって人を苛立たせるものだ。あまりに卑屈なその態度は座を白けさせた。出稼ぎ人がイライラと無精髭を掻き撫でて、貧乏揺すりを始める。
猫背男が応えないので、代わりにラジへお鉢が回った。
「若けえの。おめえ、ダルブーラムにはなんの用だ?」
ラジは一瞥しただけで、出稼ぎ人のだみ声を無視した。
「おい! 聞こえてんだろ、返事くらいしねえか」
「おまえなんかと話したくない」
目も合わせずにぴしゃりと言い切ると、出稼ぎ人は顔を真っ赤にして立ち上がった。
「なんだとお!? 生意気な小僧だな!」
こめかみに血管を浮き立たせた出稼ぎ人は、「もういっぺん言ってみろ!」と怒声を上げた。憮然としたまま眉ひとつ動かさないラジ、ついに出稼ぎ人は胸倉へ掴みかかる。ラジはそれでも返事をしなかった。
エトラと老婦が呆れ声で仲裁に入る。
「ちょっと止めてよ、こんなところで! やりたいなら舟降りたらどうよ?」
「死んだ後まで喧嘩かい。喧嘩、喧嘩、喧嘩してなきゃ酒か賭博だ。まったく男はろくなもんじゃないねえ。わたしゃ生涯独り身でほんとに良かったと思うよ!」
勢いを削がれた出稼ぎ人は舌打ちをして河に唾を吐いた。掴んだ胸もとから手を離し、さも不愉快だとばかりに荒々しく腰を下ろす。
ラジは構わずに無視し続けた。
「まだ怒ってんの? ……ったく、融通利かないんだから」
溜め息交じりのエトラさえ無視して、ラジは頑なに口をつぐんだ。
悶着が終わると、へさきで役人がふり返った。ぬくもりを感じさせない青い顔に、冷笑を浮かべて言い放つ。
「滑稽なことだ。乳飲み子を哀れんで涙を流し、腹を立てれば熱くなり赤くなり、果ては青筋まで立ててみせる。おまえたちは魂なのだ。魂が涙を流すか? 赤くなるのか? すべては生前の記憶がもたらす鮮やかな錯覚だ。肉体があるような気になって、たわいなく記憶にふり回される、人間とはずいぶん可愛らしい生きものだな。だが、錯覚のおかげで――――」
小馬鹿にするふうに、笑みをより深くしてひと言、
「茶がうまい」
そして前へ向き直した。
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