青き導と愚かなイワン
彼女の声は、洞察であり眼識であり真実である。 ――現実を彫る者イクシドール
消える事の無い煙草の焦げ跡の様に、突如としてその青年がノエル・アジュールの前に姿を現したのは、彼女行き付けの喫茶店で、半分まで啜り終えたブラック珈琲にミルクと砂糖をたっぷり入れたものを、何時もの習慣としてちょっとしたデザート代わりに堪能している、丁度その真っ最中の事だった。
「……え?」
滑稽な程に丸い眼鏡の中、それよりも尚瞳を丸くさせると、ノエルの対岸に座る青年は、ぽかんと開いたままの唇からこれまた間抜けな吐息を発した。
まぁ行き成りなのだから無理もあるまい、とノエルは乳白色の矢鱈甘ったるい飲み物を舌で転がしながら、この突然の来訪者を一瞥したが、彼女が示した反応はそれだけであり、何食わぬ顔でテーブルの上に置かれた古書へと視線を注ぎ始める。
彼女の仕事として、本来なら早々に状況説明をしてやらねばならないが、はっきり言って今はそんな気分で無い。もとい、人の憩いの時に送られて来るのが悪い。労働は尊いが、それは相応の代価を得て尊いものを手にする、或いは、尊い行いが出来るからで、労働自体が尊いという事は断じて無い。そして彼女にとって、このカップの中の一杯こそ何物でも勝らぬ尊いものである以上は、労働など無視しても構わぬ雑事に過ぎない。
古紙特有の匂いを上げる頁にぺらぺら目を通しながら、ノエルはことりとカップを置くと、すっと擦り切れた紺色のジーンズの尻ポケットへ手を伸ばした。
「すみません、あの、ちょっと宜しいですか?」
漸く我を取り戻したのか、鼻先から少しずれた眼鏡を直して、青年が言葉を紡ぐ。
そのやや童顔じみた、中性的要素も幾分見られる顔には薄っすらとした疑いと焦りが緊張した笑みとなって浮かび上がっているが、しかしというか、やはりというか、ノエルはそれを見事に無視すると、彼女の瞳にも似た濃く、深い青のパッケージを取り出した。
翼ある兜の紋章が付けられたそこから、黒い葉の両切り煙草を摘み出し、青褪めたリップ塗られる唇で銜えたノエルは再び尻ポケットを弄った所で、表情を硬く強張らせる。
煙草は離さず、今度は両腰のポケットへ手を突っ込み、その中身が傷の付いた鍵の束と、数枚ばかりの硬貨だと知ると、あからさまな不快感を持って舌打ちした。
そうして腰程まである、仄かに青白い髪を掻き毟りながら、『ジョセフコーネルモドキ』と小さな金属板で銘打たれる皮革製の鞄を足元から膝上に乗せ、中身を取出し始める。
青白市松模様のハンカチ、付箋やメモを挟み過ぎて異様に厚くなった手帳、と並べられば悲しい程に薄い皮革の財布、使い込まれ傷跡と噛み跡が深い万年筆、色褪せた書類の束が狭いテーブルの上に置かれ、それから、七色の後光を担う美しい少女の裸姿と初老の紳士の幸福ここに極まれりな笑顔が蓋に印刷された缶詰……どうやらその中身は肉らしいけれど、何の肉なのかの記載は無い……や、三つの丸を重ねて造られている意匠化された鼠らしきもののキーホルダー、手垢の付いた『子供達と家庭の「天国の門」解説』という上製本、赤い、何処までも赤い頭蓋骨大の珠などと、一見して意味や用途が判別付かない、所有者である彼女自身、もう何がなんだったかろくに覚えてもいない代物が、鞄の積載量を超えた質と量を持って文字通り所狭しと積み上げられて行く。
けれども目当てのものはなかなか出て来ないのか、その手付きは次第に乱暴になって、行為も終わらない。生物災害印象付きの試験管ですら、存外な扱いである。
「あの、すみませんが、ちょっと僕の話を聞いてくれませんか」
だが、青年の扱いと比べれば、それもまだ良いと言わざるを得ず、遂に我慢の限界へと達した彼は、身を乗り出し、ノエルへと食って掛かった。しかし、彼女の動きは止まず停まらず、今は入れ子式の箱を開けては、中から新たな箱を出す作業へと没頭している。
彼は、さっと少し顔を赤らめつつ、もう一度喉を震わせ、
「ちょっとあなた、僕の話が、」
「五月蝿いなぁ、あんた。死人は死人らしく口を失くしてたらどうだい」
返って来た声に今度は全身を震わすと、言葉通りに言葉を失くして見せた。
「僕が、死人? ……え、つまり、死んだ?」
その彼が再び言葉を紡いだのは、裕に数十秒経った後の事である。
「そうだよ。何あんた、知らなかったかい?」
勿論その事実を伝える筈の者が華麗に職務怠慢しているのだから知らないのも当たり前だが。そうノエルは頭の片隅で呟きつつ、指で摘んだ電気仕掛けの栗鼠、胸部にコンセントを取り付けている以外は精巧極まりない生き物と睨み合う。この小動物は、箱の中の箱の中の箱の中の箱の中の箱の中の、と開いて行った最後の箱の中から出て来たものだ。
「嗚呼、因みにあんた、マッチかライター持ってない? 火が出るなら何でもいいが」
ノエルは暫くの間その栗鼠と無言の遣り取りをした後、そんな事より重要なのは、とばかりに無害な生命気取りを背後へと放り捨ててから、やっと青年の方をちゃんと向いた。ぴこぴこと、今自身に取って最も大事なものを上下して見せる。
しかし今度は青年の方が彼女を無視した。
軽く顎に手をやり、眉間に皺寄せて物思いに耽っている。
「……僕が、死んだ……死んでいる……」
「……うん、そう、その通りだよ。胸に手を当てて考えてみ、きっと思い出せるから」
そのままぶつくさ呟き始めた青年をじっと見詰めながら、半ば呆れ顔で頬杖を付きつつノエルは言った。煙草のぴこぴこは絶える事を知らず、その挙動は雛鳥が親鳥に向け、餌を乞うている様に見えるだろうが、頑なに自己へと浸る彼に、その光景は届かない。
「嗚呼……でもそうか、言われてみれば確かそんな気も……」
ただ声はしっかりと鼓膜を震わせていたのか、青年は二、三度首を振って見せる。
「だろう? 物分りが良くて助かるよ、本当」
そんな彼に対して、ノエルは椅子に深く背を持たれると、投槍に言葉を放ってから、吸うのを諦めた煙草を元の箱の中へ戻した。しかし、その台詞は半ば本気だ。肉体がある様に感じられるというだけで、自分が生きている事に疑問を抱かない人間は少なくない。そこから説明せねばならぬ時の面倒さを思うと、助かるというのは間違っていない。
「というと……ここは、あの世? それにしては全然……」
しかもこの彼の場合、自ら発した問いに対して答えを与えようとする類の人間らしく、余計に手が掛からないのが良い。少々自己完結気味だが、ノエルの手を煩わせない事に変わりは無い。そもそも、その『あの世』に居る彼女自身、青年が求めた答えを知らないのである。正確には彼女以外の誰も知りはしない。ここが、所謂『この世』……ノエルにとっては勿論逆だったが……と、その外見的な部分において殆ど変わり無く、少なくともそう見える理由を知っているのは、この世界を作った張本人だけだ。
そして、何が一番の、永遠の謎と言って、創造主程に謎の存在も居るまい。『あの世』であれ、『この世』であれ、それは人間の理解の範疇外に居るのである。
じゃあ彼の場合はどうだろう。きょろきょろと物珍しそうに、だが微かな安堵と、もっと微妙な落胆、そして恐らく自覚していない不安の光を宿した瞳で、喫茶店の外、真夏の太陽の輝きに照らされた混凝土の建築物と煉瓦の道路、その上を歩いて行く傍目には普通の人間の姿を眺めている青年を見ながら、ノエルは指を組んだ。
彼女の前に送られて来る人間には二通り居て、疑問を外にぶつける型と内に込める型だ。この彼が、後者に入る事はもう解っているから問題は次に外を向いた時、ノエルを見て何を言うかであり、と、その瞬間、青と黒の視線が交差して、
「じゃぁ、あなたは、その……死神とかそういうのですか?」
おずおずと、だが奇妙な確信を持って紡がれた言葉に、ノエルは浅い溜息を付いた。
「やっぱりねぇ。誰であれ彼であれあんたであれ言うのさ、神とか悪魔とか死神とかね」
青年は、自分の言葉で彼女を傷付けたと思ったのだろう、おずおずと頭を下げる。
「すみません、あの、いやでも、そうにしか見えなくて……」
「いやぁ別に気にしてないからいいんだがね。ただ、皆そういうんだって話」
ノエルは片手をひらひらと揺らしながら、もう片方の手でカップを掴むと、少し冷えた濃厚なカフェ・オ・レの味わいに舌鼓を打った。実際、それ程気にしている訳でも無い、が、余りに定型化された台詞だと嫌気が指して来るというだけだ。確かに言いたくなるのも解らなくは無いのだけれど、彼女としてはもっと別な風に言って貰いたい訳であり、
「まぁ私は人間だよ、歴とした、ね。それに美しき乙女でもある」
青い瞳をきゅっと細め、青い唇を歪めると、ノエルは己が望みを口にした。
「小賢しい使役魔? へぇ……何だか凄いですね」
「……いや……ま、ここの住人ってだけで、あんたと変わりは無いって事」
けれどその試みは辛くも失敗に終わってしまい、彼女は今度こそ深い溜息を付いた。
と同時に、彼に対する評価も若干変化する。この男、案外と鈍いのではあるまいか。或いは予想以上に、自分の事にしか興味が無いのかもしれない。厄介な限りだ。
相手と自分の知識を同等と見てしまうノエルはそう感じた後、しかし、と頭を振るった。こんな調子では埒なんて開く筈が無く、趣味で無いし面白くも無い。もう僅かとなっていた珈琲を飲み干すと、彼女は空のカップを机の上の有象無象の山へと混ぜ置いた。
いい加減面倒臭がる事に面倒臭くなったノエルは、職務を愉しむ方へ脳を切り替えた。
「何はともあれ、ほら、ノエル・アジュールだ。宜しく」
腕を伸ばしてそう手を差し出すと、青年も慌てて反応し、
「と、宜しくアジュールさん。僕は……僕、は?」
握手したはいいけれども、だがその次の言葉が出て来ない。眉間に深く皺を寄せ、震えぬ喉を押さえながら訝しがる彼に向け、ノエルは独り合点の頷きを浮かべ、
「来たばかりは大抵皆自分を忘れてる。何、大して重要でも無いから気にしなさんな」
「はぁ……そんなものですか」
「そんなものよ」
訝しがる未だ青年のままの青年が手を離した所で、二人の自己紹介は終了した。
さてここからが本題だ。ノエルは座りを直すと、荷物で埋まったテーブルから砂糖瓶を掘り起こし、スプーンで掬った瓶の中身を掌へ乗せると、ちろちろと舐める。口寂しい時、それが雄弁に語る必要のある時に、この甘い砂粒は最上の物となるのだ。
「所で……厳密に言えば、ここは死後の世界じゃないんだ」
「それは、一体どういう意味ですか? つまり……僕はまだ死んでいないと?」
と、前述の台詞を否定する言葉に、青年は虚を突かれ、再度間の抜けた顔を披露した。
ノエルは砂糖を味わう舌を止め、そのまま突き出した状態でにやりとほくそ笑む。この表情、これが堪らないのだ。彼女が、面白くも何とも無いこの仕事についているのは、詰まる所、これを見る為と言ってもいい。尊い報酬である。
「あぁ、実はね。だが、生きてもいない。要するに真ん中、その狭間でね」
そうしてノエルは、最後の一粒まで砂糖を舐め終えると、親指でぴっと自分を指差し、
「で、そんなここには私達みたいなのが巣食っている。完全に死んでもなければ、生きてもいない、中途半端な人間がね。まぁ私の場合、そんな連中の中から産まれたんだが、役割としちゃ余り変わらない。簡単に言えば、あんた達の為の案内係だよ、先輩としての」
それから青年の方へ人差し指を向けた後、その先をそっくり窓の向こう側へ移した。
「案内?」
釣られて彼の眼が動く。その視界に宿るのは、先程見ていた地上と変わらぬ街並みであり、一見だけでは何もおかしな事は無く、その首は、はてなと横へ傾いた。
「嗚呼、案内だよ。解らないかい、見えないかい。あそこに扉があるだろ、あそこにも」
くすくすとノエルは喉元で笑った。言われて青年が眼を凝らせば、成る程、無数のビルの彼方、見えざる地平線より二つの扉が並ぶ様にそそり立っている。彼がそれに気付かなかったのも無理は無いだろう。それらは、扉と称するには余りに大きい癖に、しかも空と同じ色、青と白と無色の光に彩られているのだから。
「あの扉の片方はあんたが元居た場所に、片方はこれから行く場所に繋がってるらしい」
「僕が元居た……じゃ、僕は帰られるんですか?」
「らしい、だよ。間違っちゃいけない。何せ、あそこを通って、戻って来た奴は居ないんだから、ね。逆の方もそう、死後の世界って確定はしていない。でも近くに行くと、聞こえて来るらしいんだよ。自分が生きていた頃に聞いた覚えのある懐かしい声が。その隙間から垣間見えるのは、見覚えのある懐かしい景色……そして皆往々にして思い出す。自分が如何に凄惨な死を遂げたのかを、ね」
さぁここがきっと一番の力の入所であり、私の見せ所だ。ノエルは、空色の扉へ向けた瞳を静かに細めると、くっと口元を吊り上げた。呆けた様に聞き入る青年へ指を鳴らし、
「詰まる所、ここはどうにも、水際線みたいなんだね、不慮の死を遂げた者の為に誰かが……もう、あえて言ってしまえば神とか悪魔とか死神とかが造った世界。天寿を全う出来なかった事に憤る人間へ贈られた慰め場所……気付いているかい? あんた、ここには時間が無い。背景の変化、って身も蓋も無いが、大雑把な差異はあるが所詮それだけであって……意味なんてありはしないんだよ、ここじゃぁね、そんな細かな事には」
そこで示した先は建物の影で、確かにそれは、先程から身動ぎ一つしていない。日の光は衰えるという事を知らず、更によく見れば、行き交う人の顔触れも同じ。
言われるがまま、表情を緊にして見入る青年を見詰め、ノエルはにやにや笑いをし、
「だからこそ好きなだけ迷い、惑い、そして、その果てに選ぶ事が出来る。この生と死の間で、行くのか、戻るのか、それとも、留まり続けるのか……永遠に、ね」
最後の言葉を強調して語り終えると、満足顔で砂糖瓶にスプーンを突っ込み、
「ま、信じるも疑うも良しで気の済むまで居ると良い。ここは案外広いし、色々な人も居る。思い出したくも無い事だって嫌と言う程思い出せる。何ならまた色々言ってやるよ」
そうして掬い取った砂糖を、彼女はさらさらと眼前から掌へ向けて落とし込んだ。
そいつをまたちろちろやりながら、ノエルは黙り込み、己の思考へ意識を注ぐ。
さて、これでやる事は終わった、呆気無くも。
状況は説明した、彼女の知っている限りで。
そこまで案内するのが自分の役目であり、そこから先、選択する事は、不可侵の権利であり領分だ。問われれば答えるが、これ以上口出す事は出来ない。
そう、無いのであるが、
「……えぇ良く解りました。僕は帰る事にします」
今まで黙っていた青年が、強い語気で放ったその言葉は、流石に無視出来なかった。
思わず腰を上げ体を揺らせば、折角掌に載せた砂糖を机とその諸々の上に零してしまう。だがそんな事は些末と、今にも去ろうとする彼の肩をしかと握り締め、
「ちょいとお待ち。あんた、自分が今なんて言ったか、解って言ったのかい」
「えぇそれは勿論……当然の事ですよ」
訝しがる青年を自身へ向かせれば、ノエルは口角泡を飛ばして一気に捲くし立てた。
「なら聞くが、どうしてそう易々と言い切れた。帰るって、あんた、帰ってどうなるか解らないのに。不慮の死というのはだね、事故とか病気だけじゃない、自殺とかだってあるし、事件って事もある。つまり死ぬしか無かった状況って事だよ、ここに来る連中がそう思い出してるんだ。帰ったとしても、そこに帰るかもしれないんだぜ、意味ないじゃないか。それにあんたが実際どうだったかなんて、私にはさっぱり解らないしあんた自身解ってないじゃないかい、本当は、さぁ、だったらそれを思い出してからだって遅くは無いし、ここの事を知ってからだって何の不都合もありゃしない。性急過ぎる、そうだろ? 一体全体何を信じ、何を根拠にすれば、そんな急ぎ足で行けるんだい」
そうして青い唇を開け放って肩で息をし、頬に唯一の赤味を宿した彼女の耳を震わすのは間の抜けた、緊張の伴わない、優しげな、だがはっきりと意思の篭った言葉で、
「はぁ、確かにその通りですけれど……でも、そんな悩んだって仕方が無いですし。だったら、自分が今最善と思う事を、最善と思う方法で取るのが一番じゃぁ無いですかね」
その黒い瞳には良く言えば明白、悪く言えば単純な意識の光が宿っている。そして返って来たのは幾度と無くノエルが考え、思った言葉であり、彼女は呆気に取られて何も言えぬまま、暫し青年と睨み合ったが、はぁと深く深く溜息を吐き、
「そうだね一番だね、うん……行くがいいよ、あんたが、そう決めたのならば」
すっと、肩握る手を離してやる。案外と力が篭っていたのだろう、彼は途端に眉を顰め、自身で軽く摩った。それから青年は、その口元に覇気のある笑みを浮かべ、
「えぇそうさせて頂きます……少しの間でしたがお世話になりました、それでは」
ありがとうございましたと頭を下げると、喫茶店から外へ、すたすたと出て行く。
そして陽炎漂う夏に彩られた景色の中に入れば、彼方の扉が一つ目掛けて駆け始める。
その戸惑いの欠片も見えない走りっぷりによって、ぐんぐんと遠退いて行く背を窓辺に眺めながら、ノエルはやれやれと小首を奮った。もう一度吐息を吐き出し、
「あの男……これで私が、嘘なんだがね、と言ってたらどうするつもりだったんだい」
哀れみの念を送りつけてやるが、しかし到底届いたとは思えない。
いや寧ろ逆か、と彼女はどさりと力無く椅子に座った。
御大層な事をしているつもりは無いけれど、それでも、多少であれ重要と考えている事を、ああもあっさり済まされれば、実に癪に触って来る。だがそれもある程度までであり、あそこまで清々しいと苛立つ気にもならない。酷い拍子抜けだ。こんな事をしていて本当に良いのか考えさせられるし、そも、この世界観解釈から違う気がしてくる。
だが何にせよ、青年がそうと決めたのであればしようも無い。知らぬならば教え、教えたならば見守るを心情とする者の一人、境界線上に住む人間としてこれ以上どうする事も出来ぬノエルは、胸の前で腕を組むと、その事実を自分に言い聞かせる様に、幾度も幾度も頷いた。実際仕方が無いのだし、それに度合いも違うが、あれも珍しくは無い。
と、その時、手の甲に触れた感触に気付き、ノエルははっとすると、青い、彼女が身に纏っているどれよりも尚青い半袖シャツの胸ポケットへ、いそいそと指を突っ込んだ。
そこには何を隠そう、彼女が捜し求めていたものが、銀色の光沢を美しく放っている。
「何だ、こんな所にあったのかい」
意図も容易い場所に、だが全く気付かなかった自分に、ノエルは苦笑した。
気分を変えようと、もう一度煙草を取り出すと、慣れた手付きで着火したオイルライターに寄せ、紫煙を豪快に飲み込む。肺腑に満ちて行く毒煙は、独特の香りに味わいを誇っていて、すっかり御無沙汰だったその喫味に、彼女は独り、うっとりと碧眼を潤わした。
そうして陶然と虚空を見入るノエルは、ちらとその視線を片手に握られたライターへ向けると、その小さな銀の筐体を、恭しく鞄の中へと収めるのであった。