春の宵
三日間も見続けた天井は、たとえそれまで親しみがないものだったとしても、見慣れてしまうものだ。ナギは窓の方を見て、嘆息する。あれほどパニックになっていた市民も、退院した後は音沙汰ない。むしろ、町は春の到来に活気付いていた。
入院して三日が過ぎた。体の調子はというと、思ったよりも酷くはない。ばっちりと睡眠をとった次の日には痺れなどの違和感はあるものの、回復傾向にあることは確かなようだった。
花が見える。美しい花だ。白に薄い桃色が艶やかで、花の名前をよくは知らないナギでも、その花の名前は知っていた。
と、黄昏ているナギの病室のドアが開かれた。面会謝絶ではないものの、麟太郎は颯人のお叱りが怖いらしく、しばらく行方を隠すという胸は手紙にて伝えられていたが、綾鷹とアリー、アルテミスについては来ない理由は想像できた。
なので、今回も母親か、仕事をサボった父親、或いは放蕩中の姉が遊びにでもきたのだろうと思っていたが、予想は外れた。
「……アリー?」
「あ、あぁ。久しぶりだな、ナギ」
久しぶり、というには少し早すぎる気もしたが、見て取れる疲弊しきったアリーの様子から、大変だったのだろうと察した。
上半身を起こして対応しようとするが、いかんせんまだ触覚が回復していないため、体を動かすのは難しい。よろけながらな姿に、アリーが手伝おうと手を差し伸ばす。
アリーの助けもあって体を起こすことが叶ったナギは、タハハと笑い、空いている椅子を指さす。
「いや、オレはすぐに――」
「ダメ」
「な、なんで……」
「なんでって、退屈なんだよ、一人は。だーれも遊びに来てくれないからさ。それに、今のアリーを一人で帰したら、二度と会えない気がして。だから、話してよ」
見透かしているつもりはない。ただ、そう感じたに過ぎなかった。
色々なことがあった。思えば、ナギには過ぎた事件だったのかもしれない。けれど、今回の事件で本当に傷つき疲弊したのは、親友に裏切られたアリーだろう。裏切られた、というのは言い過ぎかもしれないが。
アリーは腰掛ける前に、窓を開けて空気の入れ替えを行なった。
ナギが冷蔵庫に美咲が持ってきたデザートがいくつかあるから食べようと言ったことで、ようやくアリーは腰掛けることができた。
ただ、渡された柑橘系のゼリーは喉を通らなかったが。
「これを」
「これは?」
「ヴィスからオレ宛の手紙だ。読んでくれ」
「……いいの?」
「ああ。オレ宛だが、ナギにも読んでもらいたかったらしい」
おそらく、手紙にナギに読ませるようにとでも書いてあるのだろう。
桃のゼリーをテーブルに置いて、手渡された手紙を受け取る。随分ときつく握ったのだろう。手紙はくしゃくしゃにシワがついていた。
手紙を開く。
中身は、メーヴィスの母が《ピンディーラー》の信徒であること。『エデン』打倒のためにメイドとしてアリーに近づいたこと。アリーを信頼していたこと。アリーを愛していたこと。アリーを可哀想だと謳い、本当は自分が可哀想だったのだと。
十五枚の紙のうち十四枚はアリーへの謝罪と真実、愛情と生きてほしいという身勝手な願いだった。
そして、最後の一枚は。
(親愛なる若奥様へ。どうか、ご主人様を嫌いにならないでください。ご主人様は方向音痴で、道に迷ってしまうことがあるでしょう。その時はどうか、手を取ってください。私の愛する人を、愛してください、か。…………馬鹿らしい)
阿呆と、思った。
今にも手紙を破り捨ててやろうとしたが、寸前でこれはアリーの所有物であることを思い出して手を止めた。
(愛する人を頼む? 力のないボクに、力のあるアリーを守れって? ふざけんな。ふざけんな‼︎ 守りたければ自分で守ればよかったじゃないか。どうして今更……)
握り拳が作られる。それをぶつける相手は目の前にはいない。
行き場のない怒りを持って、ナギは立ち上がろうとした。うまく力が入らない。バランスを取るための触覚が麻痺しているのだから無理もない。それでも立ち上がろうとすれば、転げてしまうのは自然の理だ。
それでもギシギシとベッドに悲鳴を上げさせながらもがくナギを抑えるためにアリーが手を出した。
「やめてくれ、ナギ」
「やめるもんか! メーヴィスには一言言わなきゃ気が済まない! どこ⁉︎ あのバカはどこにいるの⁉︎」
「……どこにもいない」
「嘘をつかないで、アリー! 命令! メーヴィスの居場所は――」
「どこにもいないんだ。ヴィスは……ヴィスは病室で殺されたらしいから」
「………………は?」
時が止まる。理解できない言葉に、契約に基づく命令を行なったナギはアリーが疲弊していた理由を考える。
尋問をされたか。いいや、ナギの知る颯人は自らが目にしたもの以外を信じ切ることはない。それは拷問や尋問で引き出した情報も適応される。信憑性の薄い情報を得るための行動はおそらくしない。
監禁されていたか。それもない。もしも監禁されているなら、ナギとの接触は絶対に叶わないからだ。
ではなぜ?
アリーにとって、秘密を共有している数少ない家族のような存在を、失ったからだ。
思い至り、ナギの体から力が抜けた。
「いつ」
「昨日だそうだ。オレもさっき知った」
「なんで、メーヴィスの近くにいてあげないの?」
「統治者――ナギの父さんに命令されたから、オレはここにいる。それにオレもヴィスの遺体がどこにあるのか知らないんだ」
「……そう。なら、好きにしていいよ」
好きにしていい。颯人の命令でこの場にやってきたというのなら、それを完遂させてあげれば、アリーは自由の身になる。アリーも好きでこんな場所にいるわけではないだろうという配慮だった。
しかし、アリーは動かなかった。
「なあ、オレは間違えたのか?」
「何を」
「オレが弱かったからこんなことになったのか?」
「わからない」
「オレは、どうすればよかったんだ」
「アリー、それは誰にもわからないよ。過去を変えることはできない。後悔の解決は、今の人類には不可能なんだよ」
頭を抱えて塞ぎ込んでしまったアリー。ナギは自分が下した言葉は間違いだったと確信する。今のアリーに必要だったのは、強い命令だった。しなければならない目的と言い換えてもいい。
颯人はそれを見抜いていたのだ。だから、ナギを取られることを承知で命令を下した。ナギならば、アリーの喪失感を埋められると信じたのだ。それを汲み取れず、アリーを自由にしてしまった。
(そうか。今のアリーに必要なのは、人の温もりか)
自らの手を見る。か細く、痺れのせいで震えている。白く艶のある柔らかい肌だ。
こんなもので絶望の最中にいるアリーを癒せるだろうか。或いは『言の王』で強制的にでも立ち上がらせるか。
首を振る。
(言葉で人は奮い立たせられても、心を癒すことはできない。言葉にできるのは騙すことだけ。傷ついた心を謀って、なんでもないと思わせることしかできない。それじゃ、意味がない)
手を伸ばす。これでどれだけのことができるかわからないが、ナギにはこれ以外に思いつかなかったのだ。
両手を回し、アリーを抱きしめた。
「ボクは弱い。体力はないし、力もないし、身長だって低いし、胸もない。嫌いなものは多いし、打ち込めるものも少ないよ。きっと、アリーの方が何倍も、何十倍も強いに決まってる。でもさ。こうして困ってるときに、ボクはアリーにこうしてあげられるよ?」
「……ナギ」
「だからさ。一緒にいようよ。これからずっと、一緒にいよ? アリーが挫けそうになったら、またこうして抱きしめてあげる。なんだったらいい子いい子もしてあげてもいいよ」
「お、お子様扱いするな。オレは――」
「『獅子王』。『エデン』が誇る最高戦力で、世界を救う――ボクの騎士でしょ?」
お姫様扱いはするなと言っておきながら、いいところで騎士扱いをする。我ながら酷い人間だと、ナギは自虐した。
けれど、それでよかった。言葉では人を救えない。かといって、ナギにアリーの悲しみは払えない。ならばもう、言葉で騙すしかない。意味がないことかもしれないが、これが最善策だった。少なくとも、ナギにできる中では。
それを、アリーもわかっている。
過ぎたことを考えることは時間の無駄で、メーヴィスの想いはきっと呪いのように張り付くものだ。それを晴らすことは、おそらくできないだろう。
だから、嘘だとわかっていても、アリーはそれを信じることにした。
「オレが、キミを守る。だからキミは、オレの傍から離れないで、いてくれるか?」
「うん。いいよ」
「結婚しよう」
「十年後くらいに、気が変わってなかったらね?」
どさくさで婚約しようとしたが、笑顔のナギに一蹴された。
辛くもどさくさ婚約は成功しなかったが、アリーは偽りにでも立ち直ることができた。頭を抱えていた手がナギの背に回る。華奢な体を折らぬように、優しく抱きしめた。
静かな病室でいい雰囲気となり、今ならば無理矢理にでもキスをしても許されるかもしれないとアリーが考えている頃。
病室の扉が開かれた。
「聞いてくれよ、ナギ〜。お前の父ちゃんが――おいおいおい。だから、ナギは俺の彼女だって言ってるだろ⁉︎」
「なっちゃん、あやっちを止めてよ! 接近禁止命令が出てるのにこっそり会えば分からないって言って聞かない――病院で子作りは斬新だと思うんだけど⁉︎」
「なんで僕まで引っ張り出すんだ、この馬鹿兄妹は!」
抱き合う二人を目にした綾鷹とアルテミスは目を丸くして驚き、おそらく神宮寺の家に厄介になっていたらしい麟太郎が首根っこを掴まれながら引っ張られるようにしてやってきた。
そこから下らない論争が始まったことは言わずもがなだろう。そして、接近禁止令を無視した綾鷹が颯人にバレてお仕置きされるまでは、セットで考えて問題はない。
騒がしくも楽しい日常に、ナギは苦笑いをこぼす。
窓の外には桜が咲いていた。
(あなたに微笑む、か。メーヴィス、君には悪いけど、ボクはアリーに守ってもらう方だよ。でも――)
もしも、アリーが困っているようなら、手を貸してあげないでもないと、唯一知っていた桜の花言葉を思いながらナギは……。




