彼女の輝き
息を吐く。あいにくのぬるい空気で白い息は出ないが、それも滑稽だと、見知らぬ天井を見上げたまま、メーヴィスは目を覚ました。
事件が起きてから丸一日が経過していた。横目で見ると、見舞いに来てくれていたのであろうアリーが船を漕いでいる。手を伸ばそうと思ったが、すぐにその権利は自分にないと諦めた。
メーヴィスは、自分が間違えたことをしたとは思っていない。一歩間違えば、昨日で世界が終わっていたかもしれなかったが、それでも間違っていたとは考えていないのだ。
メーヴィスの母親は《ピンディーラー》だった。それを知った父親は離婚し、母親と仲が良かったメーヴィスは母親に親権を譲られた。ゆえに、小さい頃から思想を押し付けられて生きてきた。
しかし、幼いながらも《ピンディーラー》の考えがおかしいと理解できたメーヴィスには、自然とその思想を拒否するに至った。
そんな彼女に転機が訪れる。
彼女に対して、初めて持った感想は『孤高』だ。
教主の厳命により、母と一緒に『エデン』の統治者の側付きになったある日、メーヴィスは跡目争いに巻き込まれ、『男』として生きることを強制された少女に出会う。少女はおよそ女と呼ぶには逞しく、可憐でありながら勇敢であった。
醜悪なゴマすりに意を介さず、誰よりも努力を重ね、結果に次ぐ結果を打ち立て、他を圧倒した上で頂点を手に入れた。
そんな彼女に、最後に持った感想は『悲壮』――そして『美麗』だった。
「私は、あなたを綺麗だと思う。あなたは嫌がるでしょうけどね、アリー」
「……お、起きたのか。ったく、心配させて」
「ごめんなさい」
決心は揺るがず、されど言葉はご主人と認めたアリーへと届かせる。
船を漕いでいたアリーは、未だに眠そうではあるものの、飛びつくようにメーヴィスを覗き込んだ。まだ体が重いメーヴィスは、後目を感じつつ微笑んでみせる。
「――どうして、あんなことをしたんだ?」
責めている様子はない。ただ不思議そうに訪ねてきた。
アリーはメーヴィスのことを親友だと思っている。もちろん、それはメーヴィスも同じだった。捉え方の違いだと、メーヴィスは心で思う。
アリーにとっての努力と、メーヴィスが見た苦しみは、奇しくも同じだった。同じに見えてしまった。親友の苦しむさまを前に、メーヴィスはかつての母の言葉を思い出す。
――全ては世界が続くからいけないのだ。
アリーを苦しめているのは、この世界のあり方そのものだ。誰も悪くない。悪いのは全部この世界なのだから。
メーヴィスの心は、アリーを救うためだけに注がれた。決して《ピンディーラー》に心を売ったわけでも、奴らの思想が正しいと考えたからでもない。全ては、愛するご主人を救う、この一点のためだけに、メーヴィスは《ピンディーラー》として意識的に主人を裏切ることを決意した。
アリーが父親と離れる、『極東』への留学中が最も容易に世界を瓦解させるに足ると、作戦を練る。
まずは第一師団の団員の懐柔、これは楽に行えた。アリーは師団員に優しく、またアリーの立場はあまりに有名であった。アリーに恩義を感じている者も少なくなかったことも踏まえ、アリーを助けるものだと知れば、簡単に師団員の心を掌握することはできたのだ。
次にパンデミックを起こすために『種子』を仕込む。これが一番の難点だった。『種子』を打ち込んだばかりの『感染者』は《誘惑の角笛》の効果が薄い。正確な命令を実行させることは不可能であったため、一週間ほど浸透させる必要があったのだ。
加えて、数日で多くの人が行方不明になれば、事件として大きな捜索作戦が行われる可能性もあるので、長い月日を有した。
そうして、二年の歳月をかけた。唯一の失敗は、師団員の中から心の油断として、噂と言う形で情報が出てしまったこと。そのせいで、作戦を早める必要があったが、タイミングは概ね完璧だったと言えるだろう。
しかし――
「あなたを救おうとした。ただそれだけです」
「そうか。オレのため、そうなんだな?」
「ええ。ですが、杞憂だったようですね。あなたは、私たちが思うよりもずっと強かった。弱かったのは私たちの方。この弱さを、奴らに漬け込まれた。全ては私の責任です。証言は、そう伝えてください」
「…………」
アリーの沈黙に、メーヴィスは諦めていた手に触れる行為に及ぶ。
「猛り狂う獅子は、あなたにこそ相応しい。終わってしまった絶望だけが闊歩するこの世界で、あなたは――私の光でした」
「ヴィス……」
ヴィスのポーカーフェイスが崩れる。目には涙が溢れていた。
悲しいのではない。虚しいのでもない。喜んでいた。メーヴィスは、愛するものの成長と、自分が信じたものが嘘ではなかったという確信で嬉しかったのだ。
後悔などない。自分の命を燃やして手に入れたものは、宝物の輝きだったのだから。
「失礼。時間だ」
「もう少し……もう少しでいいんだ。あとちょっと、せめて一言だけでも――」
メーヴィスがアリーの手を離す。素早く布団の中にしまうと、目の涙も拭い去って証拠を隠滅する。
軍服を着ている男たちがわらわらと入ってきた。自分を監禁するためにやってきたのだと察しての行動だった。時間とは、メーヴィスが起きてからのわずかな時間という意味で、これから二度と日差しは浴びれないと、メーヴィスの中で覚悟が決まる。
だが、アリーはそうではない。
胸のペンダントを見せて、祝詞を捧げようとする。力づくでも時間を作ろうとしていた。
それではいけない。メーヴィスはもう一度禁忌に触れる。
「アリー、聞いて」
「――ヴィス?」
「あなたの輝きは廃れない。あなたの疾走は衰えない。あなたの牙は、きっと世界すら救って見せるのだと、信じています。二度と会えなくなろうとも、母の悪意であなたと出会ったのだとしても、私はあなたを――アリエル・バートを誰よりも愛しています。だから、あなたはこの世界を恨まないで。悪いのは全て私。あなたを狂わせてしまったのは、きっと私なのだから」
離れる。離される。呆然としたアリーの瞳にはメーヴィスの笑みが、メーヴィスの瞳に眩しい光が灯っていた。
扉が閉ざされた。重く、強固なもののように思えた。一歩も動けず、震える手が扉に触れる。なぜか、異様に冷たく感じた。




