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契約の儀

 『感染者』が動かなくなってから、まだそれほど時間は経っていない。今でこそ、惚ける市民や、疑問符で動けなくなっているメーヴィスだが、時間の経過でそれどころではないと気がつくだろう。

 それに気がつくまでの時間がいくらかかるのかはさっぱりわからないが、長くはないだろう。つまり、不透明な期限の中で、ナギはアリーにメーヴィスを倒させるための力を与えなければならない。先立って、アリーに立ち上がる勇気を与える必要があった。

 人の心は折れやすい。さらには立ち直りにくいものだ。それを完全に折られてしまった獅子の心を奮い立たせるなど、至難の業と言える。


 しかし、それをしなければならない。でなければ世界の前に『極東』が沈んでしまう。体の変貌はあったが、身体能力の変化は訪れなかったナギにとって、『極東』が沈んでしまうことは死に直結している。

 ゆえに、『極東』を守ることは最優先されるのだ。


 だが、初めの言葉は慎重に選ばなければならない。こういった、他人の心を動かす言葉は、最初と最後が肝心だ。だから、ナギは『世界を救う』と言った。

 少なくとも、ナギの言葉に耳を傾ける覚悟ができたらしいアリーを目にして、ナギも覚悟を決める。アリーの頬を触れて、よそ見をさせないと瞳はしっかり彼女を見つめている。


「一つ。これはボクと君の口契約だ。けど、この契約は他の何においても優先される」


 薬指の赤錆に塗れた指輪から文字の糸が解けていく。宙を揺蕩い、ナギとアリーをぐるりと取り囲んでしまった。

 アリーはナギから目を離さない。ナギの手がアリーの頬に触れていたことで、注意が向かなかったのかもしれないが、それ以上にナギを信頼しているように見えた。


「一つ。これはボクと君の秘密を共有し、隠し続けることを前提として成り立つ契約だ」


 あたり一面に白玉星草が咲く。アリーの向こうにいた放心状態の市民たちが一人、また一人と消えていくのが見えた。これはナギの言葉によって起こったものではない。市民の避難を一任されると言った麟太郎が起こした《Kパーツ》の特異な能力だ。


 これに関してはナギのいう『契約』に一切の影響を及ぼさないため、気にせずに続けようとする。だが、状況が変化していることを憂いて、『契約』を早めようとは考えていた。


「一つ。この契約で君はボクを守り、ボクは君を救わなければならない」


 白玉星草が舞う。グラウンドに大勢いた市民たちの姿は今ではもう半分ほどになっている。麟太郎はうまくやっているようだ。

 そしてまだ、メーヴィスの動揺は有効内だ。市民たちの避難も順調に進んでいる。各々がやるべき仕事をやり切ろうとしていた。


 ナギの『契約』もじき終わる。願わくば、最後までメーヴィスがこの状況に気が付かないでくれることを望むばかりだ。


「一つ。上記に違反した場合、互いにその命を持って清算されるものとする」


 『契約』の途中で、奇しくもメーヴィスがこちらに気がついた。おそらくは白玉星草のせいだ。ナギから逃げるように離れていたために、距離は十メートルと言ったところ。メーヴィスの足で数秒もかからない距離と言えるだろう。


 まだ、獅子を立たせるには言葉が足りない。いくら『言の王』が万能な絶対命令権を有していようと、体が動かなければその命令は受理されない。それゆえ、今のアリーに戦えと命令しても意味はないのだ。


 しかし、と。ナギは笑む。


 メーヴィスは一歩遅かった。あと数秒早く気がついていれば、確実にナギの『契約』は阻止されていただろう。けれど、その僅かな時間で、ナギは世界を救うにたる道筋を渡り切った。獅子が立ち上がるお膳立ては済ませたのだ。


 後は、アリーの心にナギの言葉が突き刺さるか否かだ。


「ボクの手を取れ、アリー‼︎ 君はボクの旦那になるんだろう? なら、格好良くボクを守ってよ‼︎」


 メーヴィスのナイフがナギの喉へと向かう。アリーとの戦いでは感じられなかった殺意が、そのナイフには込められていた。

 ナギにそれを避ける技量はない。メーヴィスもそれを知っているからこそ、何よりこの場でナギが一番危険だと認識したからこその一撃だったのだろう。


 そのナイフの切先に、爪が突き刺さった。

 驚くメーヴィスは言葉も出せず、代わりにナイフを止めた獅子がメーヴィスの腹を蹴って距離を取らせる。ナギの左手は右手で掴まれて引き寄せられる。ボロボロの制服から見える素肌にダイブさせられて、しっかりと抱きしめられたナギは、心臓をバクバクとさせながら息を吐く。


「アリー……」

「やっぱり、オレは弱いよ、ヴィス。でもこうして、嫁に必要とされるなら、オレはまだまだ強くなる。強くなれる気がするよ」

(ボクはまだ、アリーのお嫁さんになるって言ったわけじゃないんだけど……まあいっか)


 アリーが立ち上がった。左腕には《獅子王》の爪が光る。だが、よく見ると形状が微妙に違う。綺麗な真紅だった爪は、金を帯びて金紅色に変わっていた。

 しかも、思い返せば、《獅子王》への追加分の『供物』を与えていないのに、アリーの体力はまるで全回復ししているようだ。


 何が起きているかナギには理解できないが、その姿を残った市民が見て感嘆の声を漏らすのは聞こえた。見惚れてしまうほどに美しい《獅子王》のこの姿こそ、きっと本来の《獅子王》の姿だったのかもしれない。


「そういえば」

「?」

「ナギの秘密ってなに?」

「え、それを今聞くの……? まあ、いいけど。実はボク、前世では男だったんだよね」


 ぶっちゃけた話だよという前置きを入れず、ナギがそういうと、アリーは小首を傾げて眉を顰めた。

 そして、一世一代のぶっちゃけ話を聞いたアリーの返事はというと。


「大丈夫? 病院紹介しようか?」

「あはは。だよね、忘れて」


 なんとも無情なものだった。

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