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汝、何を望まんと欲す

 アリーとメーヴィスの戦いが始まった直後、そこそこの規模の爆発が起きていた。普段は使われないプレハブや、空き教室などが爆発を起こしたようで、その原因は目の前に現れた大量のゾンビ達だろう。


「な、ななな、何、あれ⁉︎」

「ゾンビだな」

「そんなものが現実にいてたまるか‼︎ そういうのはホラー映画の中だけで十分だよ!」


 しかし、見るからにゾンビのような体の一部から透明な花を咲かせている者たちは動揺を隠せないナギたちに関わらず市民を襲い始めた。その様子はまさしくゾンビ映画で、大量のゾンビに襲われるが如く。


 戦う術を持たない市民達の感情は全て恐怖へと塗り替えられ、恐怖は冷静な判断を阻害する。右往左往と逃げ出す人たちは、もはや制御などできようはずもない。


 目の前ではゾンビが迫り、背後ではアリーがメーヴィスを止めるために戦っている。『極東』で一番安全であるはずの『学園』が一瞬にして一番危険な場所へと様変わりしてしまった。


 そんな最中、この場においてなおも冷静な男がいた。

 麟太郎はナギに掴まれている手を逆に握り返して、力強く引き寄せる。「わわっ」と、危なげにバランスを崩したが、転びそうになるナギを抱き寄せた麟太郎は灰のニット帽に手をつける。


「こんな状況になってもバカ猿がお嬢を探しに来ないということは、あちらでも何かしら起きているんだろう。お嬢、僕から離れないでくれるかな?」

「う、うん。それはいいんだけど……」


 チラリと、人の影の間から覗くアリーの戦いは、お世辞にも優勢とは言えなかった。アリーが敗北するようなことがあれば、最悪の事態へと発展することは誰の目から見ても明らかである。


 一方で、大量に現れたゾンビ達は生徒と市民の区別なく襲いかかっており、武装しているはずの生徒が手も足も出ないでいるところから、単にゾンビと片付けるには早計だろう。


 おそらく、この場において冷静な麟太郎には、あのゾンビが如何なるものであるかの検討はついているはずだ。ただ、それを知ってナギにできることがあるかといえば、残念ながらまるでないわけだが。


「お嬢、あれはおそらく『七匹の獣』の一匹、《愛を吸う者(コフュート)》だ」

「《愛を吸う者》って、南極の海底に住むって言われる?」

「北極だ。南極の下に海はない」


 『七匹の獣』についての知識が不足しているのは、自分には関係ないと不真面目に授業をこなしていた弊害だろう。


 ともあれ、目の前のゾンビ達が北極に住まう『七匹の獣』であるとわかった以上、対処する順位は大きく変わる。現れたのが『七匹の獣』であるなら、ただの生徒で太刀打ちできないのは然るべきことだ。


 この状況をどうにかするには最低でも《ストラテジーブック》レベルの強者が必要である。


 一人、また一人と倒れていく。生徒も、老人も、赤ん坊も、男も、女も、まるで関係ない。本能のままに襲い来る『感染者』は地面を赤く染めながらその数を増やしてやってきている。


 人を喰らい、無尽蔵に増え続ける悪魔の花。喰らわれた者は『感染者』となり、脳の大部分を捕食されて、痛覚や感情といったものを失った動く災害へと変わり果てる。いくら知識不足としても、ナギにだって《愛を吸う者》の生態くらいは覚えている。


 感染率は百パーセント。

 即死率は五十パーセント。

 感染してしまえば最後、親も子も愛する者でさえも分別なく襲わせることからつけられた名前が《愛を吸う者》だ。


「対処法は確か、完全に燃やすか……」

「脳を破壊する。脳が生き続ける限り、例え頭だけになろうとも襲い来る」

「で、でも、あの量は……」


 初めは多くとも百体ほどだった。しかし、爆発が起き、悲鳴が出てから少しの時間が経過していた。逃げ惑う市民らはあちらこちらへと走り出して収拾がつかず、なおかつほとんど全方位からやってきた『感染者』によって少しずつ数を減らしている。


 市民が減るのに連れて、『感染者』は増え続けていた。このままではジリ貧どころではない。あと一時間もしないほどであたり一帯が血の海地獄に変わる。絶望は時間の問題だろう。


 つんと、鼻を突く強烈な匂いでナギは顔を顰める。


「ひどい匂いだ……」

「目の前で人が死んで、出てきた感想がそれなら問題はなさそうだね」


 呆れているのか、感心しているのか、ナギを抱き寄せている麟太郎はそんな感想を述べている。

 見れば、麟太郎は顎に手を当てて、何やら考え事をしているようだ。何を考えているのかと問うてみたい欲求を押さえつけて、解答が出るのを待つ。


 やがて、血の海がナギの視界を汚そうとまで迫る中、一つの質問が耳を撫でた。


「君はどうしたい、お嬢?」


 どうするべきだと思う、ではなく、どうしたいと聞く麟太郎。

 その質問の意図がわからないが、よくよく思い返してみれば、ナギはその質問の回答を持ち合わせてはいなかった。


 アリーが戦っている場所ではない遠くで爆発が起きた。別の場所では一瞬の悲鳴と沈黙が広がっている。赤く染まった大地を滑りそうになりながら走る人々。転んだ人を踏み潰した人、無意味な死すら迎える者もいる。


 一人の苦しみを取り払うために大勢を犠牲にした人がいた。

 自分のために大罪を背負おうとする人を止める王子がいる。


 誰かが誰かのために何かをしている。希望を求めて絶望の中を走っている人たちが目の前には大勢いるのだ。


 一人では何もできない者は、何を願えばいい?


 願う権利がないと思っていた。だから思考を停止していた。何かをしようとする姿を見せたのは、少しでもそういう人でありたかったからか。ナギは、真の絶望を知る。


「ボ、ボクは……」


 その絶望は視界を焼いた。優しい月明かりのような光で、視力を失う。しかし、暗転しない。白く、薄く、広く、犯されていく。喧騒が、悲鳴が、嗚咽が、足音が、磯の香りが、鉄の異臭が、色が、物が、なでる潮風が、あまねく世界を構成していたものたちが一斉に別の生き物のように睨みつけてくる。


 汝、何を望む。


 テレビの砂嵐が起こる。

 世界がバグる。

 まるでチャンネルを変えられたように、ナギを除いた全てがまったく嘘のように変化した。絶望が香る世界。終わりを触れる世界。無力感を味わえる世界。始まりを目視できるようにした世界。希望を音にした世界。


 ナギは、この世界を知っていた。そして、世界の宿主はそんなナギを待っていた。

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