空虚な花束を
仮設テントを吹き飛ばしながら、アリーは左手でがっしりと掴んだメーヴィスの首を離さずに駆ける。
いくらナギが時間を稼いだと言っても、避難が終了していたわけではない。ただし、アリーがメーヴィスをつれて、避難所から離れるための道だけは出来上がっており、そこを突っ走った形になった。
投げ捨てられるメーヴィスは、メイド仕様の制服が土埃で汚れた程度で、怪我を負っているようには見えない。見事に着地に成功したメーヴィスは汚れを落とすようにスカートを叩く。
「あの状況で冷静さを取り戻されるとは、成長なさいましたね。おもらしをなさっていたあの頃が懐かしいですよ。」
「ヴィスとオレは同い年だからそんな姿見たことないはずだよな⁉︎ ……まあ、全部ナギのおかげさ……オレは、とんでもなく弱かったんだな」
「いいえ、アリーは強い。強過ぎたからこそ、我々ではお救いできなかったのです」
妖艶に微笑む親友を前にアリーは笑う。
どうして、とは言わなかった。聞いても理解できたわからないなら、初めから聞かなくとも同じだと考えたのだ。アリーは自分を救うために、手始めに『極東』を沈めようとした親友のことが微塵も理解できないでいた。
流動性をもって体を這う《獅子王》には、まだ命令は下されていなかった。その命令がようやく下される。
騒ぎを聞きつけて、アリーのいる場所に誰も近づけないように学生達が整備する。寂しくも観客はいなかったが、少し離れたところにナギがアリーの背を見ていた。
風が吹く。
土煙は起こらずとも、潮の香りを乗せた風は両者の頬を優しく撫でた。
「“レグルス“‼︎」
流動する液体金属は腕に巻き付き、まるで籠手のように変化したかと思えば、両腕の籠手の先端から三本の爪を生やした。金装飾を施された紅の爪は、艶やかにその存在を輝かせている。
それがアリーの答えだと知って、メーヴィスは心なしか悲しそうな表情になる。
「わかっては……いただけないのですね」
「オレの弱さでキミたちを間違った方へ向かわせてしまった。その責任からも逃れようとしてしまった。だけど、止めるよ。オレは《獅子王》の後継者。『エデン』の最高戦力として、親友――メーヴィス・フェアチャイルドを止める」
その決意は契約した意思ある武装、《獅子王》にも届いたようだ。獅子の威がさらに深まり、もはや常人では心が折られ、直視することすらままならないほどに膨れ上がる。
並々ならぬ成長を見たメーヴィスは、またも微笑んだ。手に持つナイフは依然として輝きを鈍らせない。両者ともに本気でやりあう準備は出来上がった。
「なら、私も秘策をご覧に入れましょう」
左手に持ったツノの形のエメラルドが光る。
一歩遅かった。
アリーはメーヴィスを即座に止めるべきだった。さらに言えば、初めに捉えた時に息の根を止めておくべきだったのだ。それができなかったのは、親友を殺せなかったという甘さと、まだ救えると心の隅で思えてしまったことが原因だろう。
ともかく、アリーは選択を誤った。
ペンダントだったツノのオブジェクトは肥大化し、やがては右手に持つナイフよりも大きくなって、いわゆる角笛に変化した。
その道具が危険であると嗅ぎ分けるのに、数秒という致命的な時間がかかり、アリーは駆け出した。しかし、アリーの凶悪な鉤爪が届くよりも早く、メーヴィスは角笛に命を吹き込んだ。
その時、まるで世界が鳴動したように感じた。
角笛から放たれた音は、大地を震わせる力を持っており、アリーの足が一瞬にして止まってしまう。やがて、角笛の音はアリーの足を止めさせるためのものではなく、もっと大きなものを動かすためのものだと知る。
アリーの背後から、悲鳴が聞こえたのだ。
「なっ……」
例えるならば、ゾンビだった。ふらふらと歩くものいれば、走り出すものもいた。体のどこからかガラスの花を咲かせているのが特徴のそれらが突如として現れたのだ。
さらには、総じて生きている人間に襲いかかり、噛み付く姿はまるで一世を風靡したホラー映画の大スターのゾンビのようだったのだ。
恐怖と焦燥からようやく立ち直りそうだった市民達の心が塗りつぶされていく。生徒達の指示も聞かずに暴れ出す市民を見て、アリーはナギの身の心配で駆け出しそうになった。
けれど、その足はまたしても止められる。
「どこへ行こうというのですか?」
「くっ……ヴィス、キミは‼︎」
ふふっ、と、笑うメーヴィスの手にあるナイフが辛くもアリーの喉へ、あと数ミリというところまで迫る。《獅子王》で受け止めたが、どうにも最後の一線を越えられないアリーはいまだに迷っている。
メーヴィスはアリーの腹を蹴り、その反動で距離をとってから、左手の角笛を見せびらかせて言う。
「これは《誘惑の角笛》というもので、意志の弱い人間や動物を操ることができるものなのです」
「それを教えていいのか?」
「もちろん、構いません。私は負けませんので。そして、何をまだ迷っているのか存じ上げませんが、もう一つだけお教えすれば、わかっていただけますか?」
指で指し示す。その先には市民を狂わせている元凶であるゾンビのような人々がいた。
噛みつき、引っ掻き、握りしめ、あらゆる方法で市民に張り付いている花の生えたゾンビのせいで、グラウンドは鮮血で染まっていく。無闇に動けないアリーは神経をすり減らしながらもメーヴィスの話に囚われる。
「気がつきませんか? あれは《第一の獣》、北極の底に芽吹いた透明な花、《愛を吸う者》の種子を体に植え付けられた者の末路です」
「《第一の獣》だと……⁉︎ まさか、じゃあその笛は‼︎」
世界を終わらせた『七匹の獣』の一体である《愛を吸う者》の種子をどうやって手に入れたのかなど聞かずとも、容易に《ピンディーラー》から提供されたのだと推測が立つ。
《第一の獣》の種子に犯されたもの――『感染者』は伸ばされた根によって脳の大部分を捕食され、動く死体と成り果てる。さらに、『感染者』に襲われた者は同じくガラスのような花を体のどこかに生やして、体が息絶えるまで人を襲い続けるという逸話があった。
そして、メーヴィスが持つ角笛は意志の弱いものや動物らを操ることができるものだという。
脳を捕食された『感染者』は意志のない人間と同じだ。動けることからも脳の命令系統が死んでいないのだとすれば、あの角笛があれば『感染者』を操れると考えていい。つまり、メーヴィスの秘策とは、『感染者』の大群のことであった。
地面を掴むように両足でしっかりと地面に立つ。
どうあれ、アリーのやるべきことは変わらない。やらなければならないことに角笛の奪取が追加されたくらいだろう。加えれば、時間制限まで設けられたと考えれば大分の痛手だが、問題はない。
抑えていた力を解放して、グラウンドを崩壊させる勢いで駆ける。
「言い忘れましたが、『感染者』を作ったのは私ですよ、ご主人様?」
鉄砲玉のように真っ直ぐに突っ込んだアリーをナイフ一本で受け止めて、微笑むメーヴィスは睨みつけるアリーにそう言った。
身の毛もよだつ金切音と可憐な火花が散り、アリーはようやく手遅れであることを知ってしまった。




