天使の右翼
恐怖はある。足がすくまないはずがない。ただ、それでも何もできないことが嫌だと、ナギは無我夢中で走った。
目の前で繰り広げられているのは、もう学生の戦いではない。人類の存亡を賭けて命をかけて戦う者たちの戦争にほど近い。力もなく、頭も平均のナギが足を踏み入れていい場所ではない。だが、原因が自分であること、またこんなことで失ってはいけない戦力である以上、ナギは命を散らしてでも二人の戦いを止める義務がある。
故に駆けたのだ。二人の戦いを止める方法はある。少なくとも苛烈を抑えることくらいはできるはずだ。アリーに『供物』を与え、半暴走状態を止めることができれば、この戦いはもう少しマトモな終わり方で落着するのだから。
「やめて、アリー!!」
「……邪魔、しないでもらおうか!!」
綾鷹に向けて振り上げられた真紅の爪がナギの声で止まる。同時に標的は綾鷹からナギへ。教師も、野次馬たちも動揺する中で、アリーの足はナギへと向かう。
もう誰もがアリーの暴走を疑わない。教師も止めようとしたが、標準装備ではアリーには到底敵わないと、手出しできずにいたくらいだ。誰かがアリーを止めなければならない。きっと、それはナギの役目なのだ。この事態を引き起こしてしまったナギが責任を取らなければならない。
その責任のとり方は……。
「……んぅ!?」
襲いかかるアリーの爪を無視して、ナギは抱きしめた。真紅の爪が横の腹の大きく抉っているが、それを気にせずに強く抱きしめたのだ。痛みに耐えながら、ナギはアリーへキスをした。腹を抉られたおかげで口の中は溢れかえる血液と唾液でごった返していたが、今はそれで良かった。
メイドから聞いた《獅子王》の『供物』は同性からの血液と体液の摂取。大規模戦闘の際はメイドがその任を担っていたが、半暴走状態のアリーがもとに戻る可能性が少ない以上、別の手段を取らざるを得ないためメイドは動けないでいたのだ。であれば、その任をナギが担当する他無い。
メイドの言う通り、半暴走状態のアリーは怪我をせずに近づけるはずもなく、おそらく生涯残るであろう傷を負いながらも、アリーに血液と体液を摂取させることに成功したのだ。
(これで元に戻らなかったら大損……)
事切れそうになり、体が沈む。だが、その体をやさしい手が押さえた。
霞む視界で、ナギは助けようとした人物を見て、苦しそうに笑い、我慢することなく思いの丈、いわゆる愚痴で刺す。
「暴走するほど、ボクが好きなのかい、アリー……」
「……あぁ、愛してるよ、命の恩人」
どうやら暴走は収まったらしい。真紅の爪は紅みが和らぎ、わずかに金を帯びて、先程よりもなめらかに流動している。
(これが正気の《獅子王》……はは、綺麗じゃないか、ちくしょうめ)
これでどうにか平穏な終わりを迎えられそうだ。ただ、まわりの黄色い悲鳴や怒号の叫び、焦ったような声が耳に痛く、ナギは眠れずにいた。
感動的、ロマンチックな一面だが、重傷者一名に教師はてんやわんやしている。加えて、『学園』のイケメンとキスをした『完敗の女』を見せつけられた女性陣は阿鼻叫喚の雨あられで、見た目だけは美少女ととれなくもないナギを密かに狙っていた男子たちからは殺意のような感情が向けられている。
その中でも一際濃い殺気を放つのは……。
「おいテメェ。俺の彼女に何してくれてんだ」
「……まだいたのか。『敗北者』くん?」
クスッと、アリーは怒りに燃える綾鷹を嘲笑う。
この戦いで両国の戦力を損耗させないようにするためとは言え、ナギが自主的にアリーの唇を奪ったのは確かだった。それを自分がナギに選ばれたのだと綾鷹に見せつけるには十分なインパクトだったに違いない。
勘違いでは済まされない状況に、とうとう綾鷹は禁忌を犯す覚悟をした。
「だから、そいつは俺んのだって……言ってんだろうが!!」
包帯が巻かれた両腕の内、左手の包帯の結び目を解く。あらわになる左腕は誰もが想像する人間のそれではなく、赤みがかった黒色の毛が生えた左腕は正しく『猿の手腕』であった。
「おぉい、神宮寺、貴様――」
「願いを持って、テメェの命をここで――」
猿の中指を右手で握り、そのまま折ろうとしたその瞬間。『それ』に気がついた全員が出どころを探し空を見上げる。同じく眠りにつこうとしたナギが見たものは、天使の羽根だった。
グラウンドの中央で天使の羽根が降る。クラスメイトが見とれた空には『右翼の天使』が羽ばたいている。そして、その天使は二枚の雑巾を持っていて、さらには見たことのある顔に、ナギは思わずため息を漏らした。
閃光が落ちる。正確に言えば、真っ白な雑巾に太陽光が反射し、かつ早すぎるがゆえに線のようなあとを残した雑巾の軌道であるが、のちに天罰と言われる雑巾投射の犠牲になったのは、激高する綾鷹と半暴走状態を引き起こしたアリーだった。
あまりの衝撃に地面に叩きつけられた二人の間に、天使が舞い降りる。けらけらと嗤っている姿は、本当に娘を愛しているのかほとほと疑問に思うほどだ。一息入れて、やがて天使は快活な笑みを持って、
「やれやれ、騒ぎを聞きつけてやって来れば、なぁにやってやがんだ、クソガキども。ここは技術を学ぶ場であって、殺し合いをする場所じゃねぇぜ?」
学園長、黒崎颯人。またの名を『右翼の天使』。あるいは三十一体しかいない『死なぬ者』――不老不死の怪物『フォリヴォラ』。絶対正義の一撃は、グラウンドの騒ぎを一瞬で黙らせるには必要十分を過度に逸脱していた。




