イケメンにはアッパーを
「君は――なら――かい?」
「君は――救う――かい?」
「君は――――愛せるかい?」
(またこの夢……)
薄っすらと霧がかった風景の中央で、暗闇が問いかける。それに対する解答を、いつだって彼は出すことができずにいた。
やがて、夢は覚める。
夢の世界での意識が遠のくのを見計らって暗闇は、最後には決まってこう言い残して行くのだ。
「また会おう、險?縺ョ邇九&縺セ」
『それ』はいったい何と言ったのか。いつも聞き取れない。まるで、その言葉にだけフィルターが掛けられているように、モザイクの言葉は再びを勝手に約束して消えていく。
意識が途切れる。夢の終わり。現実の始まり。しかし、彼の現実は悪夢よりもたちの悪いのものだった。
■□■
快晴だった。
閉めたはずのカーテンが開かれており、熱を持つ太陽光が顔面を焼いている。太陽が嫌いな人間は少ないが、太陽を好きだと宣言する人間は見たことがない。
朝の始まりを告げるその星を、好きになれる日がいつか来るのか疑問ではあるが、彼、もとい彼女――黒崎凪は眠い目を擦る。が、数秒して違和感を覚える。
「お~ナギ。ようやくお目覚めか?」
違和感の正体は十中八九、ナギの顔を覗き込んでいる少し肌の焼けた黒髪のイケメン――神宮寺綾鷹で間違いない。幼馴染のような関係であるはずの彼の顔を起き抜けに拝見するのは、実に怒りを助長した。
しかし、何か間違いがあってもいけないと、あたりを見回す。勘違い無く、ここはナギの自室で、ナギは自分のベッドに眠っていた。加えて言えば、ナギは眠るときに下着姿になるため、今日も変わらずの姿であることからも、綾鷹をわざわざ部屋に呼び立てるわけがない。
そもそも、朝方のこの部屋に綾鷹がいることは不可解であった。
なぜなら、ナギは一度だって綾鷹に入室許可を出してはいないのだから。
「ふんぬ!!」
上半身を起こし、一息入れるとノーモーションからのアッパーが炸裂した。予想打にしなかった攻撃に綾鷹の顎は見事に撃ち抜かれる羽目になる。打ち上がった体に、寝たままのナギが綾鷹の無防備な腹を踏みつけるように蹴って、壁際まで押し出した。
壁に背を強打し、床に打ちひしがれる綾鷹に向かい、ナギはほとんど裸体姿の自身を守るように毛布を巻いて吠えた。
「曲がりなりにも女子の部屋に許可なく入るとはどういう要件だ、変態?」
「ばっ、お前……俺はただ起こしに来てやっただけだろ!? それに許可ならもらってるし!」
「ほほう? 誰に? 一体誰が、ボクの部屋への許可を出したって言うんだい? ほれ、言ってみそ?」
「誰って……お前の母ちゃんにだよ!」
そこそこ本気で殴って蹴ったはずなのに、失神どころか「いたた」で済んでいるあたり、頑丈さはピカイチだ。綾鷹も、突然のことで怒ったらしく、顎を摩りながらだったが、怒気を含めて説明した。
誰にだってプライバシーというものがある。それは一切の侵害を許されないれっきとした法の一つだ。ただ、それを破れる人物がいるとすれば、それは『産みの親』くらいのものであろう。
したがって、ナギのプライバシーを侵害するのに、『母ちゃん』という言葉は無効になる。
なぜなら……。
「いつも言ってるだろう。ボクのプライバシーを侵害できるのはボクだけだ。たとえ、母さんでもクソパパさまでも姉さんでも、ボクの部屋に勝手に入るのだけは許さない。綾鷹、もしも君がボクの部屋に勝手に入りたいというのなら、ボクの産みの親でも連れてくるがいいさ!」
ナギには血の繋がった家族がいない。話によれば戦争孤児というやつらしい。ここにやってくるまでの記憶は定かではないが、なんとなく連れてこられたという雰囲気はある。
故に、ナギの持論によれば、ナギのプライバシーを侵害できる人物は存在しないことになるのだ。もちろん、生みの親が現れれば話は変わるのだが、ご時世がご時世なので感動の再会はおそらくないだろう。
しかしながら、ナギの上等な持論はさておいて、世の中には禁句というものが存在するわけで、まさしく今のナギの発言は特定人物に聞かれることで激しく怒りを買う言葉でもあった。
「なーぎーちゃーん? 朝ご飯できてるって、何度も呼んでるよね~?」
部屋のドアが開く。そこから顔を覗かせたのは、この世で一番怖い人物と位置づけられているナギの母親――黒崎美咲だった。
寝ていたから朝ご飯の話など聞いた覚えはないが、今の話を美咲に聞かれていたと考えると背筋が凍った。
エプロンに髪を一本にまとめた姿は、朝の母親そのものだ。ただし右手に装備されているものを除けば恐怖はいくらか和らいだことだろう。そう、右手に握りしめられた三徳包丁さえなければ。
「げ……か、母さん……」
「いま~、な~んか聞こえた気がしたんだよね~」
思わず「げ」という言葉は口から漏れる。バッドタイミングで入ってきたものだから、おそらくは先程の会話を聞いていたに違いない。もう随分と生きているのに若々しくきれいな顔立ちの優しい笑顔がただただ怖い。
震えながらも会話を逸らそうとナギは努力する方向でシフトチェンジした。
「へ、へぇ……なんて聞こえたの……?」
「ん~。確か、クソババアの命令なんて無視しろとか~」
「そこまで言ってないよ!? そんなひどいことは流石に言ってないような気がするなぁ!?」
一瞬耳が局所的に悪口に変換されるようになってしまったのかと疑いたくなるほどに、斜め上の解答を受けて、ナギも驚きで声が大きくなった。
その横でソロリソロリと部屋を出ていこうとする綾鷹を見つけ、ナギは頬がひきつる。
(こうなったらもう逃げられない! かくなる上は……)
えいやと綾鷹の包帯の巻かれた右腕にしがみつくように抱きつき、冷や汗を流すナギは綾鷹を巻き込むように口車が走る。
「あ、綾鷹が寝ているボクを襲おうとしたんだよ! それはもう野獣のごとくね! だからつい、心にもない言葉が出ちゃっただけなんだ、母さん!!」
「ちょ、おま、俺を巻き込むなんてズリーぞ!? そもそも俺は――」
(うるさい! 元はと言えば寝起きに顔を覗き込んでいるやつが悪い!)
冷や汗は数秒で滝のような汗へと変わり、ナギは事の顛末を待つ。
僅かに訪れた静寂な間が、たとえ三秒程度だとしても、ナギにとっては永遠とも思えるものだった。無論、巻き込まれた綾鷹にとっては、永久よりも長い時間だったようだが。
すると、美咲は小さく息を吐くと、包丁を下ろし、腰に手を当てて、
「もう。いいから早く着替えなさい。遅刻しても知らないからね?」
「お、お咎めなし……?」
「あら? 刺されたいの?」
「いえ、すぐさま着替えさせていただきます!!」
きらりと、よく磨がれた三徳包丁が輝く。そこに美咲の笑顔が追加されたために、恐怖は二、三割増加したとも言えるだろう。
完全に許してくれたわけではなさそうだ。けれど、包丁で刺されたり、長らく怒りにさらされることだけは避けられたようで、ナギは胸をなでおろす。
美咲と勝手に侵入してきた綾鷹を追い出すように外にやるや、ナギは壁に掛けられている制服を眺める。艶やかなスカイブルーの女子制服は何年着ても着慣れない。それもそうだ。ナギは中身が男なのだから。
深い溜め息を吐きながら、これ以上遅れると母親に本当に刺される可能性も無くはないため、仕方がなく自分の匂いが染み付いた制服に着替える。
黒崎凪。十六歳。見た目は少女、心は男。過去の記憶の大半を覚えていないが、この世界が異世界であるという違和感を持つこと約十年。忙しくも楽しいと思える世界に根付き始めて、唯一彼の誤算であったのは――
――――この世界において、『最弱』の少女として生まれてきてしまったということだろう。
しかも、割と美少女に。