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心緒  作者: 宮田カヨ
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その8

 拾った男が目を覚ました、と彼に言伝が届いたのはあれから三日が経った、朝食時のことだった。共に食事を取っていた同僚からは良かったじゃん、と他人事(実際他人事だが)のように言われ、赤毛もそれを真似していた。彼はその言付けを届けた部下に礼を言うとその場を後にし、足早に医務室へと向かった。

 あの男がどこの誰なのか、結局わかっていない。三日間、あの男について調べていたが、手がかりは何一つなかった。手がかり一つない状態で調べるのは無謀なことだったことは承知していたが、まさか何も手がかりが見つからないなんて、思いもしなかった。ここにある情報を使ってですら暴けないとは、無戸籍なのか、はたまた同僚の言っていた通り本当に鼠なのか。真実は本人の口から聞けばいいか、としか彼は考えていなかった。

 ドアをノックして、医務室の戸を開ける。

清潔感ある白が目立つ医務室には、普段は充満しているはずの消毒液の匂いが、ほんのかすかにした。窓でも開けていたのだろうか。

「ああ、来たか。こっちだ」

彼の旧友である若年の医師は、彼の姿を確認すると手招きをした。そして奥へと引っ込んでいく。彼もそれに続いていった。

「……浮浪者をここに連れてくるなと何度言えばお前は理解する。お前、頭はいい方だろう。規則くらい守れ」

「……すまないとは、思ってる」

「……いつも言い訳考える俺の身にもなれよな。たまにはお前も一緒に考えろ」

 医師と彼の話し声と足音が病棟によく響く。他の医師たちも同じように廊下を歩いているが、誰も二人に目を向けないし、挨拶や会釈すらしようとしない。腫れ物扱いだが、陰口を言われないだけマシだな、と彼は思う。

「……そういや、あの男さ、まじでやばかったわ。お前がここ連れてくるの遅かったらさ、多分死んでたよ」

医師は肩をすくめながら彼にそう言った。

「ろくすっぽ飯も食ってなかったんだろうな。飯持ってったらすげえ勢いで食ってたぜ。案の定、むせてたけどな。まあけど……」

「回復したことに越したことはない、だろ」

彼がその先の言葉を言えば、医師は頷いた。

「ああ。どんな奴でも、救えるならどんな悪党でも俺は治すし、助けられるなら全員助けてやる。馬鹿以外は治してやるよ」

医者の理想形だな、と彼は思った。金銭にこだわらず、ただ人を救いたい一心で医師になったこの男は、まるで医者の鏡だ(聞いたところ、この医師は軍医になる気はさらさらなかったらしい。軍医が足りず徴収され、無理やり働かされているらしい。本人曰く「馬鹿同士、勝手にやって勝手に死んでろ」、とのこと)。

「……その性根、是非ともあいつにも教えてやってくれ」

「無理無理。あの銭ゲバの根性直せるのはあの人参だけだよ」

「……人参とか言うな。せめて赤毛って言え」

「はいはい、悪うございました」

 医師は笑って、彼は必死にその言葉遣いを直そうと言い合いながら、ある部屋の前で止まった。

 部屋の前で暇そうにつま先を眺めていた少女は医師の声を聞き、姿を見るなり駆け寄ってきた。少女の頭を撫でながら、医師は彼に耳打ちをした。

「……あいつさ、お前にすげえ恩感じてるよ。上官たち、うるせえんだろ? さっさとものにしちまえ……それにあいつ、このまま外に放り出したら確実にくたばるぜ。あいつが誰か、お前わかってるだろ?」

 そして、言い終わるなり空いている手で彼の背を思いっきり叩いた。突然のことに、さすがの彼でも身構えることもできず、思わず前につんのめった。

「痛ってぇ……何するんだ急に!」

「すれたものの考えしか出来なくなっちまったヘタレのために根性入れといてやった、感謝しろよ? 俺らはここにいるから、終わったら呼べよな?」

「根性入れるにも、せめて別のやり方でやってくれ……」

 二人のやりとりを見ていた少女まで、医師を真似て彼の背を叩いてきた。力は弱かったが、子供なりの全力は何よりも重みがある気がした。

「ほら、こいつも後押ししてんだ。さっさと行って来い。あいつは一番右奥にいる」

 医師と少女は全く同じ笑みを浮かべながら、彼に手を振った。憎たらしいほど清々しい笑みに見送られながら、彼は部屋の中へと入っていった。

病室は相部屋であるため、各個人が使っているスペースはカーテンで覆われ、患者の最低限のプライバシーは守られている。その中、一番右奥のスペースだけはカーテンが開いていた。彼はそこに足を運ぶ。

「……こんにちは。初めまして」

 ベッドの上に座り、窓の外を眺めていた男は、彼に気づくと急いで立ち上がろうとした。それを制止し、彼はカーテンを閉めると近くにあった椅子に腰掛ける。

「目が覚めてよかったです」

「……あなたが、俺を助けてくださったのですね」

 低い声は掠れていた(三日もの間寝込み、喉を使っていなかったから、当然と言えば当然なのだが)。男は咳き込み、彼は無理に話さなくていい、と男を制止した。

 彼は自分の名を男に教えた。男は知っていると答えた。

「やっぱり、知ってるんですね……」

「ええ」

 男は彼に頭を下げる。普通なら、憎む相手である彼に対して。

窓から差し込んできた光が、男の傷んだ白銀の髪を照らした。羨ましい髪色だな、と心の何処かで思っていた。

「……助けていただき、ありがとうございました」

「そんな、やめてください。お礼なんて、されるほどのことやっていませんから」

頭を上げてくれ、といっても男は頭を上げない。

 彼は話を変えるために急いで口を開いた。

「あの、あなたのお名前、聞いてもよろしいですか? 推薦状を書きたいので」

 彼は服の内ポケットからペンと推薦状を探した。

 彼はここに浮浪者を運んでくるたびに、名前を聞いて職に就かせるために推薦状を書いた。働けるといっても軍需工場だが、彼がここへ連れてきた浮浪者はそこで働き、最低限の衣食住を保つことができている。中には第二の人生として、喜々として今の状況を謳歌している者もいる。軍や党に属している人間が、失業者に推薦状を書くことは認められている。軍だけではなく、帝国そのものを指導している総統が許可をしたからだ。

 男は顔を上げた。

「名前なんてもの、俺にはありません」

 彼の手が止まった。

「もう長い間、呼ばれていないもので……忘れてしまいました」

 男にとって、それはなんでもないことだったのだろう。だが、彼にとってはそうではなかった。

 医者の言葉を思い出す。おそらく、医者はこのことを知っていて、あえて黙っていたのだろう。名前も何も持たない男が、このまま外へ放り出されたら次はないのは確かだ。

 彼は手を握り締め、震えながら口を開く。

「……あの、あなたさえ良ければ、ここで働きませんか?」

「……え?」

 彼はもごもご、と歯切れ悪く言葉を続ける。

「あなたが良ければの話です……その、ご存知ですか? ここでは、ある程度階級がある者には側近をつけることが必須……というシステムを」

 男は頷いた。

 彼の所属している軍隊では、中尉以上の階級を持つものには、側近をつけることが義務付けられている。上官の仕事の補佐や、戦場で上官と共に率先して戦うことが側近の主な仕事だ。側近に選ばれた者は優遇され、昇級や賃金の割増などが施される。ごく稀に、士官学校出身ではない者を側近とする場合もある。彼の同僚とその赤毛、医師と少女がその一例だ。

「その、俺、側近がいないんです。だから、あなたさえ良ければ、ぜひ俺の隣で働いて欲しいんです」

 側近となることを拒否することも可能だが、大概の者はそうはしない。彼は今まで側近を付けたがらなかった。また、上官たちの側近となることも拒んでいた。昇級や賃金の割増など、彼には興味のないことだった。

 男は少し考え込んでから口を開く。

「……俺は教養も、戦い方も知りません」

「それは、すべて俺が教えます」

「……俺には、何もありません」

「構いません。俺がすべて与えます」

 男は一度、目を伏せた。

 言い終えて、彼は思った。一体、俺は今何を言った。何馬鹿なことを言っているんだ。民間人を巻き込むなんて、なんて馬鹿なことを。断ってくれと飯場願うように思った。彼の中に巻き起こる自己嫌悪と羞恥を知らない男は、伏せていた目を上げ、彼の顔を見つめた。

「……この命、どうか好きなように使ってください」

 男は彼の頼みを承諾した。なんとも古めかしい言い方だったが、男は彼に対して忠誠を誓ったのだ。

「……あ、えっと、よろしくお願いします」

 彼も男へそう返事をした。

「……そうだ、名前! あなたの名前を」

 相手の名前を知らないまま上官と側近という立場を始めるのは、いささか不便だ。男は少し考えてからこう言った。

「……好きなように呼んでください」

 彼は考えた。名前は一生もの、安易な名など付けられない。

「……フィデーリータス、というのはどうでしょうか?」

 彼が書いている小説に出てくる登場人物の名前だ。王と国、そして民に絶対を誓い、命を捧げ戦う騎士から取ったものだ。時間があまり取れず、序盤からあまり進んでいないが。

「……ありがとうございます、ジェニングス少佐」

 男が彼の名前を呼んだ。

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