その43
寝かしつけて以来、イノセンスはシュティレに対して怯えることをやめた。顔色を伺うことはあるが、震えたり、泣くのを我慢する(声を抑えながら泣くことが多いが)のをやめた。
最初は何かあったのかと思った。どこが具合でも悪いのか。それとも、自分が仕事で家を開けている時に何かあったのか。
「イノセンス? どうしたの?」
服を掴んできた。呼びかけても、何も言わずに(喋れないから当然だが)こちらをじっと見つめてくる。
喋る時は目線を合わせろ、ウィンテェスターの言葉を思い出し、しゃがんでみる。
「イノセンス?」
名前を呼んでやれ、何でもいいから喋れ。ウィンティスターの言葉を思い出す。意識をするようにしているが、どうもこれが妙にこっぱずかしくてかなわない。
イノセンスは少しシュティレの顔を見つめると、胸に顔を押し付けてきた。甘えるように顔を動かし、喃語あげている。一体どうしたのだろうか。一度ベレッタに見せるべきだろうか。粗暴ではあるが、あれでも一応医者の端くれでもある。
「どうしたの?」
イノセンスは答えない(喋れないので当たり前だが)。
ただいま。ここ数ヶ月、家に帰った時にその言葉を発する機会が増えた。
イノセンスはその声を聞くと、どんなに遅い時間でも、傷だらけの顔に笑顔を浮かべながら、シュティレを迎え、帰りを喜ぶ。
イノセンスが笑顔を見せたのはつい数週間前のこと。ウィンチェスターの忠告通り、話しかけてそばにいてやった。ただそれだけだった。それだけなのに、イノセンスは嬉しそうに、下手くそな笑みを見せた。
「ただいま、イノセンス」
シュティレがそう言えば、喃語を返してくる。頭を撫でてやれば、下手くそな笑顔を浮かべて喜び、もっと、と手を掴んできた。
「はいはい」
イノセンスが自分を求めてくる。そのことに満たされている自分がいる。この感情は一体なんなのだろうか。
イノセンスを抱き上げて、部屋へ行く。
「ああ、そうだイノセンス」
ソファに座らせて、服を脱ぎながら話しかける。イノセンスはシュティレが脱いだ軍服の上着に手を伸ばす。
「俺、しばらく家開けるから。ベレッタのところの妹と一緒にいてね」
戦場へ行くのは軍人の仕事だ。長い間家を空けてしまう。その間イノセンスをどうするか悩んだ。奴隷商のところへ預けるわけにもいかない、ベビーシッターを雇えるわけでもない。どうするか悩んでいたら、ベレッタがこう言った。
「だったら俺の家に預けたらいいじゃねえか。フリューリングも帰らせるからな」
「……手間じゃないの? いちいち家に預けて迎えに行くって」
「手間じゃねえよ。送るのは生きて帰ってこようって決意になる、迎えに行くのは楽しみになるしな」
「……ふーん」
そういうものなのだろうか。帰りを待ってくれる人間なんて、今はもういない母とあの男だけだった。だが、あの男はあくまで母の財産と家柄だけが目当てだった。自分の帰りを待ってくれたのは、あくまで母に取り入るためだろう。
こいつは、あの男と違って帰りを待ってくれるのだろうか。
「行儀良くしてなきゃダメだよ?」
イノセンスは、きっと言葉の意味を理解していない。けれど、シュティレが言うから笑顔でうなずいている。
「……全く」
置いて行ってしまうのが少し惜しい、そう思ってしまうのは何故だろうか。




