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心緒  作者: 宮田カヨ
43/62

その43

 寝かしつけて以来、イノセンスはシュティレに対して怯えることをやめた。顔色を伺うことはあるが、震えたり、泣くのを我慢する(声を抑えながら泣くことが多いが)のをやめた。

 最初は何かあったのかと思った。どこが具合でも悪いのか。それとも、自分が仕事で家を開けている時に何かあったのか。

「イノセンス? どうしたの?」

 服を掴んできた。呼びかけても、何も言わずに(喋れないから当然だが)こちらをじっと見つめてくる。

 喋る時は目線を合わせろ、ウィンテェスターの言葉を思い出し、しゃがんでみる。

「イノセンス?」

 名前を呼んでやれ、何でもいいから喋れ。ウィンティスターの言葉を思い出す。意識をするようにしているが、どうもこれが妙にこっぱずかしくてかなわない。

 イノセンスは少しシュティレの顔を見つめると、胸に顔を押し付けてきた。甘えるように顔を動かし、喃語あげている。一体どうしたのだろうか。一度ベレッタに見せるべきだろうか。粗暴ではあるが、あれでも一応医者の端くれでもある。

「どうしたの?」

 イノセンスは答えない(喋れないので当たり前だが)。


 ただいま。ここ数ヶ月、家に帰った時にその言葉を発する機会が増えた。

イノセンスはその声を聞くと、どんなに遅い時間でも、傷だらけの顔に笑顔を浮かべながら、シュティレを迎え、帰りを喜ぶ。

 イノセンスが笑顔を見せたのはつい数週間前のこと。ウィンチェスターの忠告通り、話しかけてそばにいてやった。ただそれだけだった。それだけなのに、イノセンスは嬉しそうに、下手くそな笑みを見せた。

「ただいま、イノセンス」

 シュティレがそう言えば、喃語を返してくる。頭を撫でてやれば、下手くそな笑顔を浮かべて喜び、もっと、と手を掴んできた。

「はいはい」

 イノセンスが自分を求めてくる。そのことに満たされている自分がいる。この感情は一体なんなのだろうか。

 イノセンスを抱き上げて、部屋へ行く。

「ああ、そうだイノセンス」

 ソファに座らせて、服を脱ぎながら話しかける。イノセンスはシュティレが脱いだ軍服の上着に手を伸ばす。

「俺、しばらく家開けるから。ベレッタのところの妹と一緒にいてね」

 戦場へ行くのは軍人の仕事だ。長い間家を空けてしまう。その間イノセンスをどうするか悩んだ。奴隷商のところへ預けるわけにもいかない、ベビーシッターを雇えるわけでもない。どうするか悩んでいたら、ベレッタがこう言った。

「だったら俺の家に預けたらいいじゃねえか。フリューリングも帰らせるからな」

「……手間じゃないの? いちいち家に預けて迎えに行くって」

「手間じゃねえよ。送るのは生きて帰ってこようって決意になる、迎えに行くのは楽しみになるしな」

「……ふーん」

 そういうものなのだろうか。帰りを待ってくれる人間なんて、今はもういない母とあの男だけだった。だが、あの男はあくまで母の財産と家柄だけが目当てだった。自分の帰りを待ってくれたのは、あくまで母に取り入るためだろう。

 こいつは、あの男と違って帰りを待ってくれるのだろうか。

「行儀良くしてなきゃダメだよ?」

 イノセンスは、きっと言葉の意味を理解していない。けれど、シュティレが言うから笑顔でうなずいている。

「……全く」

 置いて行ってしまうのが少し惜しい、そう思ってしまうのは何故だろうか。


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