その42
昨日ってクマサンフェスだったんですか?
イノセンスの首や腕に残っている傷は、地下にいた二十数年間にできたものだ。幼い頃から鎖をつけられていたせいか、どんな治療を施しても消えることがない。
シュティレはイノセンスを宿舎に連れて帰ることはしなかった。連れて帰れば、好奇の目に晒されるのは目に見えていたし、イノセンスの身が危ない。
地下から連れ出してわかったことがある。イノセンスは両足で立つことができなかった。文字の読み書きはもちろん、食事の仕方や言葉を喋ること、排泄のやり方さえ知らなかった。
それと、イノセンスが自分より年上であること。生まれた歳や誕生日など詳しいことはわからないが、大まかな情報から、イノセンスが年上であることはわかった。それに、こいつは。
畜生以下の生活をしていたことは理解していた。
その畜生以下を、早く人間にしなくては。シュティレは焦っていた。
「ほら、立ってごらん」
手を握って、両足で立つことを促す。だが、イノセンスは嫌々と首を横に振って泣くのを堪えていた。食事をとらせようとしても食べようとせず、寝ようともしなかった。
それがシュティレを苛立たせた。
シュティレは苛立ちを覚えると部屋を出て、しばらくイノセンスに顔を見せなかった。もし苛立ったままイノセンスのそばにいたら、当たり散らしてしまいそうだった。
八つ当たりだけは、無様だからしたくはなかった。
「それがいけないんだ」
イノセンスのことを話しているのはごくわずかだ。
その中の一人で、子供が生まれて、育てて扱いにも長けているウィンチャスターはそう言った。
最初、イノセンスのことを言うべきか悩んだ。言えば弱みになり、それを理由に揺さぶりにかかってくるかもしれない。
言ってはならない、またあの時の二の舞になってしまう。頭の中でそう呟く自分と、大丈夫だから、と呟く自分がいた。
「なぜ?」
「……いくら体は成人していても、頭は子供のままだ。今までそばにいた人間は自分に暴力を振るやつばかり……人への恐怖もある。そんな奴に苛立ちを見せてみろ、かわいそうなだけだ」
ウィンチェスターは捲し立てるように言葉を続けた。
「今のお前にできることは、話しかけ、そばにいてやることだ」
「……それって意味ないんじゃ」
「無くなどない。ともかく、作法を身につけさせるより先に、そばにいてやれ」
そう言われたものの、そばにいるとは何をすればいいのだろうか。
ソファに寝そべりながら、シュティレはため息を吐く。シュティレが行動を起こすたびにイノセンスは怯え、行動を逐一目で追ってきた。いつ殴られるのか、身構えて震えている。
「……しんど」
子供の頃のことは、正直あまり思い出したくないことの方が多い。
「……最悪」
思い出すたびに湧き上がる、あの男への憎悪。
どうして、その人を迎え入れたんだ。ナハトにそう聞かれた。
「その、子供……嫌いですよね?」
友人という関係になって日が浅いせいか、ナハトは恐る恐る聞いてきた。もともと嫌われていた相手と友人の関係になったのだ。警戒心が解けず距離の取り方が分からなくて当たり前だ。
「まあね。あと敬語やめて」
大人の言うことは聞かず知恵もない子供のことを、シュティレは嫌っている。
「……じゃあ、なぜ?」
「……そうだな、頭が空っぽだからじゃない?」
変に知識がある状態って面倒だからね。
ナハトにはそう言ったが、シュティレ自身この言葉にはあまり納得していない。どうして、自分が一番そう思っている。
イノセンスの方に目をやる。眠たいなら寝ればいいのに、イノセンスは眠ろうとせず、シュティレの顔色を伺っている。眠ることも許されなかったのか、はたまた殴られることでも警戒しているのか。
「……イノセンス、眠いなら寝なよ」
シュティレが呼び掛ければ、イノセンスは怯えて震え始めた。部屋の隅に行こうとするが、眠気が限界にきているのか、体がうまく動いていない。
全く、これだから子供は。
ソファから降りて、イノセンスのそばに行く。イノセンスは逃げ出そうとするが、うまく体が動かないようだった。
正面から抱いてやって、背中を軽く叩いてやる。
最初は抵抗していた。泣くのを堪えながら首を横に振っている。大丈夫だから、そう声をかけながらイノセンスが落ち着くのを待った。
あの男も、眠れずにいた自分によくこうしていた。大人特有の暖かい手で背を軽く叩かれ、頭を撫でられると、すぐに眠ってしまうのだ。
イノセンスも同じだった。次第に抵抗は弱くなっていき、船を漕ぎ始め、シュティレの肩に頭を乗せて眠気に身をまかせ始める。
「……全く」
イノセンスを抱えて、ベッドに寝かせようとする。成人男性にしては軽すぎる体重に、シュティレはバランスを崩しそうになった。イノセンスにあるのは、骨と皮、それと髪の毛だ。ろくに筋肉もついていなければ、贅肉もない。
ベッドに寝かせてやれば、イノセンスは薄く目を開けてこちらを見ていた。どうして寝ないのだろうか。規則正しく背を叩き、イノセンスが眠るのを待つ。けれど、イノセンスは眠ろうとしなかった。
「……どうしたの? 早く寝なよ」
もしかして、自分がここにいるから眠れないのだろうか。それなら離れてみるか、とシュティレは部屋から出て、再びソファに寝転ぶ。
子供の頃、そばに誰かがいないと眠れなかった。イノセンスは自分と真逆なのか。子供にもいろんな性格があるんだな、シュティレはそう思いながら目を閉じる。




