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心緒  作者: 宮田カヨ
42/62

その42

昨日ってクマサンフェスだったんですか?


 イノセンスの首や腕に残っている傷は、地下にいた二十数年間にできたものだ。幼い頃から鎖をつけられていたせいか、どんな治療を施しても消えることがない。

 シュティレはイノセンスを宿舎に連れて帰ることはしなかった。連れて帰れば、好奇の目に晒されるのは目に見えていたし、イノセンスの身が危ない。

 地下から連れ出してわかったことがある。イノセンスは両足で立つことができなかった。文字の読み書きはもちろん、食事の仕方や言葉を喋ること、排泄のやり方さえ知らなかった。

それと、イノセンスが自分より年上であること。生まれた歳や誕生日など詳しいことはわからないが、大まかな情報から、イノセンスが年上であることはわかった。それに、こいつは。

 畜生以下の生活をしていたことは理解していた。

 その畜生以下を、早く人間にしなくては。シュティレは焦っていた。

「ほら、立ってごらん」

 手を握って、両足で立つことを促す。だが、イノセンスは嫌々と首を横に振って泣くのを堪えていた。食事をとらせようとしても食べようとせず、寝ようともしなかった。

 それがシュティレを苛立たせた。

 シュティレは苛立ちを覚えると部屋を出て、しばらくイノセンスに顔を見せなかった。もし苛立ったままイノセンスのそばにいたら、当たり散らしてしまいそうだった。

 八つ当たりだけは、無様だからしたくはなかった。

「それがいけないんだ」

 イノセンスのことを話しているのはごくわずかだ。

 その中の一人で、子供が生まれて、育てて扱いにも長けているウィンチャスターはそう言った。

 最初、イノセンスのことを言うべきか悩んだ。言えば弱みになり、それを理由に揺さぶりにかかってくるかもしれない。

 言ってはならない、またあの時の二の舞になってしまう。頭の中でそう呟く自分と、大丈夫だから、と呟く自分がいた。

「なぜ?」

「……いくら体は成人していても、頭は子供のままだ。今までそばにいた人間は自分に暴力を振るやつばかり……人への恐怖もある。そんな奴に苛立ちを見せてみろ、かわいそうなだけだ」

 ウィンチェスターは捲し立てるように言葉を続けた。

「今のお前にできることは、話しかけ、そばにいてやることだ」

「……それって意味ないんじゃ」

「無くなどない。ともかく、作法を身につけさせるより先に、そばにいてやれ」

 そう言われたものの、そばにいるとは何をすればいいのだろうか。

 ソファに寝そべりながら、シュティレはため息を吐く。シュティレが行動を起こすたびにイノセンスは怯え、行動を逐一目で追ってきた。いつ殴られるのか、身構えて震えている。

「……しんど」

 子供の頃のことは、正直あまり思い出したくないことの方が多い。

「……最悪」

 思い出すたびに湧き上がる、あの男への憎悪。

 どうして、その人を迎え入れたんだ。ナハトにそう聞かれた。

「その、子供……嫌いですよね?」

 友人という関係になって日が浅いせいか、ナハトは恐る恐る聞いてきた。もともと嫌われていた相手と友人の関係になったのだ。警戒心が解けず距離の取り方が分からなくて当たり前だ。

「まあね。あと敬語やめて」

 大人の言うことは聞かず知恵もない子供のことを、シュティレは嫌っている。

「……じゃあ、なぜ?」

「……そうだな、頭が空っぽだからじゃない?」

 変に知識がある状態って面倒だからね。

 ナハトにはそう言ったが、シュティレ自身この言葉にはあまり納得していない。どうして、自分が一番そう思っている。

 イノセンスの方に目をやる。眠たいなら寝ればいいのに、イノセンスは眠ろうとせず、シュティレの顔色を伺っている。眠ることも許されなかったのか、はたまた殴られることでも警戒しているのか。

「……イノセンス、眠いなら寝なよ」

 シュティレが呼び掛ければ、イノセンスは怯えて震え始めた。部屋の隅に行こうとするが、眠気が限界にきているのか、体がうまく動いていない。

 全く、これだから子供は。

 ソファから降りて、イノセンスのそばに行く。イノセンスは逃げ出そうとするが、うまく体が動かないようだった。

 正面から抱いてやって、背中を軽く叩いてやる。

 最初は抵抗していた。泣くのを堪えながら首を横に振っている。大丈夫だから、そう声をかけながらイノセンスが落ち着くのを待った。

 あの男も、眠れずにいた自分によくこうしていた。大人特有の暖かい手で背を軽く叩かれ、頭を撫でられると、すぐに眠ってしまうのだ。

 イノセンスも同じだった。次第に抵抗は弱くなっていき、船を漕ぎ始め、シュティレの肩に頭を乗せて眠気に身をまかせ始める。

「……全く」

 イノセンスを抱えて、ベッドに寝かせようとする。成人男性にしては軽すぎる体重に、シュティレはバランスを崩しそうになった。イノセンスにあるのは、骨と皮、それと髪の毛だ。ろくに筋肉もついていなければ、贅肉もない。

 ベッドに寝かせてやれば、イノセンスは薄く目を開けてこちらを見ていた。どうして寝ないのだろうか。規則正しく背を叩き、イノセンスが眠るのを待つ。けれど、イノセンスは眠ろうとしなかった。

「……どうしたの? 早く寝なよ」

 もしかして、自分がここにいるから眠れないのだろうか。それなら離れてみるか、とシュティレは部屋から出て、再びソファに寝転ぶ。

 子供の頃、そばに誰かがいないと眠れなかった。イノセンスは自分と真逆なのか。子供にもいろんな性格があるんだな、シュティレはそう思いながら目を閉じる。


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