その3
朝、修道院の裏にある小さな広場に人がいた。
広場には畑がある。この修道院では、穀物や果物など、自分たちの口に入るものは自分たちで育てる。自給自足がこの修道院の決まりだった。
修道院に暮らす孤児たちの多くは広場を駆け、数人の子供達はニュイの書いた物語を読んでいる。ニュイを含む数人の大人たちはそれを静かに見守り、子供たちとともに野原を駆けていた。
この修道院には大人は数えるほどしかいない。ニュイと同時期に一人が修道院で働き始めたが、それでも人手が足りていないことに代わりない。それぞれが大量の仕事をこなさなければ、この修道院は回っていかない。加えて時の読み書きができない者も多いため、ニュイのように読み書きができる者はその倍以上の仕事や孤児たちへの世話や教育も施さなければならない。孤児たちの中でも、年長と呼ばれるものたちは大人に混じって働かなければならない。今この時間は、そんな中与えられたひとときの休息だった。
広場に響く子供達の声を聞きながら、年老いた修道女が口を開いた。
「あなたがここにきて、もう一年が経つのね。早いものね、時が経つというのは」
隣に座っていた修道女が、ニュイにそう言った。彼女は、この修道院の責任者であり修道院で働く大人たちのまとめ役だ。
「ええ、シスター。あの時は……ありがとうございました」
「あの時のあなたは荒んでいたわ……怯えてもいた。けど、今のあなたは笑うようになったし警戒もしていない。そのほうが、断然いいわ」
ニュイは困ったように笑い返した。それすらも嬉しいのか、修道女は嬉しそうに笑んでいる。
今からちょうど一年前の春。ニュイは行き倒れていたところを、この修道女に拾われた。ひどくみすぼらしく、痩せ衰えて心身ともに傷ついていた彼を見つけ、助けた修道女は一体どういう心境だったのだろうか。助けても利益はないと言ったが、修道女は彼を修道院に連れて帰り、介抱した。そして、行き場がどこにもないと分かればこの修道院で働けばいいと居場所まで与えた。名前を名乗りたくないといえば、名前まで与えてくれた。今、彼が名乗っているニュイ・リッテライと言う名前は、彼を拾ったこの修道女が名付けたものだ。
何故見ず知らずの人間にそこまでするのか、と理由を問いただしたが修道女は一貫してこう言っていた。
「ここでは、宗派や人種など関係ないのです。助けることができる方を、見過ごすなどありえません」
修道女は、今ものその意見を変えていない。人のことをとやかく言えた立場ではないが、お人好しが過ぎる、とニュイは思っていた。
かつてのニュイも、この修道女と同様にお人好しだと周りからよく言われていた。
利益にもならない人間を助けて何になる、とよく同僚からは言われていたものだ。あの時はがむしゃらだった。善行を積みたかったのか、弱い立場の者に同情していたのかわからないが、目に留まった人間は全て助けたい一心で動いていた。
それが失敗してからしばらくの間はその心を忘れていたが、この場にいるおかげで、忘れていたものを思い出せた気がする。
「ねえ、ニュイ」
一人の女児が、ニュイの服を引っ張った。手の中には昨晩、彼が書いた物語が握られている。
一人が、大人を呼び捨てにするなとたしなめたが、ニュイは構わないと首を横に振った。
「どうした?」
「どうして、お姫様は王様が好きだったの? この王様、とってもひどい人よ」
「どうしてひどいんだ?」
「だって、お姫様が好きって言ってもそれがわかんないんだよ? お姫様がかわいそうよ!」
女児の言葉にニュイは笑って、そうだな、と静かに言った。
「確かに、そうだな。この王様はひどい人だ……けどな、お姫様は真剣に王様を愛してた。お前も大人になればわかるよ」
ニュイの声は真剣そのものだった。女児はあまり納得のいっていない様子だったが、その言葉を聞いて疑問を口にする。
「ニュイは好きな人いるの? このお姫様みたいだった人なの? それとも王様みたいだった人なの? どんな人だった?」
「……内緒だ」
「なんで? ずるい! 大人ってばすぐに内緒ばっかり! わたしだってもうおとななのに!」
「俺から見れば、お前はまだ十分子どもだよ」
女児は物語を隣にいた男児に渡すと、頬を膨らませながらあぐらをかいているニュイの腿を叩いた。修道女や他の大人たちはそれを見て笑っている。大人を自称しているのに、動作はまるで子供そのもので、それが可愛らしく感じてしまう。
あの夜と同じで、こんなに穏やかな時間を過ごすなんて、昔では考えられなかったことだ。それがどんなに幸せなことか、今はよく実感できる、
「……ねえ、ニュイ。もし、もし戦争が終わったら……そしたら、もっといろんな国のお話が読める? ニュイも、もっとお話が書けるようになるの?」
ニュイの書いた話を読みながら、今度は男児が口を開いた。
この修道院で暮らす孤児は戦争で両親や帰る家を失った戦争孤児や、食い扶持を減らすために捨てられた子供だった。襲撃を受け、命からがらこの場にたどり着いた子供。この修道院に連れてこられ、両親からいつか迎えに来るとだけ伝えられそのまま捨てられた子供。様々な事情を抱えた孤児が暮らしている。
ニュイに話しかけた子供も、そんな孤児の中の一人だった。
「……ああ。世界の話が読めるし、俺ももっとたくさんの話を書けるようになるさ」
少し考えてから、ニュイはそう言った。男児は嬉しそうに笑っている。