第二話 「神様はちょっと意地悪で」
いつからなのか。
確かに退館の時間は過ぎていたが受付に事情を話していたはずなのに、消灯されてしまって完全に取り残されてしまったのか。
瞼をそっと開けるとそこは絵の具で塗りつぶされたような漆黒の世界。
佳音が目をあちこちに移動させ黒以外に目につくものがないかを探していると身体中にまとわりつく微かな痛みで自分の身に何が起きたのかをはっきりと頭の中で再生された。
佳音はそこで懐疑心を持つ。
転落している途中で意識を失ってしまったからなのか地面に衝突した時の痛覚はまったく無い。その痛みを想像し体内の血が凍えているのが伝わてくる。そして至った結論は、
「私・・・本当に死んじゃった?」
死の直前までの回想に囚われていたが佳音は静電気のように立ち昇る自分の髪や衣服、背後にそっと近づいてくる温和な風で自分は何処かに向かって落下していることに気が付いた。
転々と移り変わる黒一色の視界が体勢や時間、全ての感覚を狂わせる。
「これは地獄行きってやつか。まじかぁ・・・私そんなに悪いことしてたっけ」
記憶の本棚からこれまでの人生で地獄行きを決定付けてしまったことはあったのか。それらを抜き出そうと佳音は顎に手を添え頭の中で仰向けの体勢でふわふわと落ち続ける。
佳音が辿っていく記憶。それだけではないはずなのにこの空間がより一層、消極的な記憶ばかりが思い浮かばせ佳音の心臓部を握りつぶしていく。
だが鈴木佳音の人生は既に終了している。それを思い出し振りほどくように顔を思い切り振り回し頬を両手で叩きながら自分に言い聞かせた。
「だぁー、もう!今更考えたってしゃーないじゃん。私・・・死んじゃったんだからさ」
「やっと起きたと思ったら、死んだって決めつけるの早すぎない?」
「でもどう見たってここは・・・ぬっ?!」
この漆黒の中に私だけしか存在していない。そう思い込み見えない天井に向かって佳音が独り言を呟いた時だ。
どこか遠くから口を挟むように突っ込む男性の声。言葉遣いはなんだか若いが明朗で優しさが絡み合う綺麗な声。一言なのに思わず聞き惚れてしまう声に佳音の耳に熱が帯びる。
予想もしていなかった出来事に佳音は言葉を飲み込みそのまま固まってしまう。だがやっと会話できる相手に出会えた。その事実を理解しすかさず質問を投げかける。
「すみません。どちらさまですかね?・・・まさか、閻魔様?地獄から迎えに来たとか?何が理由で地獄行きになっちゃったんです――」
「だーかーらー、勝手に決めつけないでよ。そもそもその人、誰?僕は歴とした、神様だよ」
「誰って・・・神様なら閻魔大王とやらとお知り合いなんじゃないんスか?」
「話が噛み合わないな。僕は神であり、君たちの神ではないんだよ」
「・・・?じゃ、じゃあここはどこなんスか。どっちにしろ神様なら答えることはできますよね?」
「ここはそうだなー。君が住んでいた世界から天国や地獄といった他者の世界に行くための道の分岐点。つまり君は分かれ道から僕の世界へ進んで今その途中にいる・・・って言えば伝わるかな?」
投げつける質問から続々と返ってくる答えに佳音は混乱が生じる。表情や脳内まで固ってしまい顎に手を付いた状態で落ちていく。
姿は現していないが“神”と名乗る男の声は佳音が硬直している様を見ながらため息をし少し呆れた様子で話を続けた。
「ねぇ、これから話すことをよく聞いて?僕が言った通りにすれば君は元の世界に帰れるかもしれないんだから」
「でも神様、私・・・死んじゃったんスよね?」
「その前に僕も聞くけど。君の肉体、精神の活動がはっきり止まった瞬間のことを覚えてる?」
「いや、それはないっス・・・」
「でしょ?だから君は帰れる可能性がある。君も帰りたいだろ?」
会話ができる相手、“神”の声が聞こえてからは先程のネガティブな記憶は再び本棚へ戻され星理奈や職場の仲間、家族・・・そして咲霊。会いたい人たちの顔が次々と浮かび上がる。そして固まっていた脳内は解れ佳音は首を縦に振った。
どこからこの様子を見ているのか、元の世界に帰りたいという気持ちが表れ出した佳音の緩んだ表情に“神”は安心したのか優しくなった声で再び佳音に語りかける。
「良かった。表情が明るくなったね。それじゃあここからが本題。君は帰れる可能性がある。あくまで今はまだ希望の状態でしかないんだよ」
「ということは・・・帰れない可能性もある?」
「そう。でも僕と取引をしてくれれば元の世界に帰ることが希望から確実なものになるのさ!」
「・・・で、その取引というのは?」
「そんな身構えないでよ。簡単に言えば僕が君を元の世界に帰す代わりに・・・君には僕の世界を救ってもらう」
“神”から差し出された取引。
佳音は地球に存在する何十億分の一人の人間。これぞ天と地の差のグレードの者同士で何を取引するのかを心臓の鼓動が高まるのを感じながら佳音は聞いているとあっさりそれを覆すような条件を差し出してきて、佳音は思わず声を漏らす。
「はぁっ・・・?」
「まーその反応になるよね。でも僕は本気だよ。冗談じゃないからね?君は鈴木佳音であり、これからは僕の世界では『救世主』となる」
「メサ、イア・・・?」
「うん。正確に言うと取引以前に君が選ばれたってことなんだけどね」
「もうなる前提じゃないっスか!」
「いいから説明を聞いて!時間もないし一回しか言わないから!」
“神”は救世主について箇条書きにでもしているのか要点をまとめて一方的に話し始める。
救世主という存在は“神”に世界を救うに相応しいと選ばれた者だけがなれるということ。
“神”の母親的なポジションであり全生物を超越した存在の中で最上級クラスの“女神”がいて、女神が記しているその世界の預言が存在すること。
そしてその預言に世界が危機にさらされるレベルの災いの内容が書かれると、“神”が救世主を召喚し世界を救済の道へ導かせること。
自分の説明の仕方に満足したのかこれで理解してもらえただろうと思い込んでいる“神”は救世主なるということを自覚できたかを問うが、佳音は即答する。
「なんか嫌だわー」
「・・・ぇえっ?!なんでそこで断っちゃうの!この僕がせっかく分かりやすく説明したのにっ」
「だって!確かに帰りたいけど・・・やることが壮大すぎ!面倒臭そうじゃん。私が世界を救う?多少ドラム叩けただけの人間が?それぐらいできる人、私の世界にうじゃうじゃいるんスよ?」
「大丈夫だって。僕が君に『力』を与えたからその力で世界を救ってもらえれば・・・」
「いやいや待って。その世界だって何十億ぐらいの人間がいるんでしょう?ただの一般ピーポー一人が能力をもらえたところで知らない世界を・・・そこの住人をどうやって救うんスか!」
説明を理解しきれず混乱する気持ちが追いついておらず苛々に似た感情が思わず声に出てしまう。
それに少し驚いたのか“神”はしばらく黙り返事が無くなると、佳音はあろうことか“神”に反抗的な発言をしてしまった自分の失態に青ざめ冷たい汗をかきながら恐る恐る漆黒の天井に向かって呼びかける。
「あ、あのー・・・さ、さっきの発言は申し訳ございませんでした。神様・・・聞こえてますかー・・・?」
「ふっ、ふふ・・・あははははっ!」
「ふぇっ?!」
「あーごめんごめんっ。今まで何人か救世主を召喚してきた・・・って言っても最後に召喚したのは800年ぐらい前だけど。でも希望を差し出しているこの僕に迷いなく反抗してきたのは君が初めてだったから可笑しくて。いやぁ改めて、君を選んで正解だったなー!」
“神”は突然堪えていた笑いを漏らした。その笑い声はなぜか機嫌が良い。
本当に地獄に落とされるのではという思い込みで挙動不審になっていた佳音も釣られて驚きの声が口から漏れてしまう。それでも慌てて反論に入る。
「いーやーだーって言ってるじゃないっスか!大体神様のほうこそ勝手に決めつ――」
「ところで君は・・・向こうの世界でまともな恋愛もできずに此処に来ちゃったみたいだね?」
「んなっ、なぜそれを・・・!」
「君が呑気に寝ている間に、どんな人生を歩んできたか見せてもらったんだ。ちょっと不運なことが続いちゃったかな?可哀想に。恋した相手も良い人には出会えなかったみたいで」
「(なーんか言い方が上から目線な医者みたいでムカつく)でも神様だからお見通しなのか・・・じゃなくて!それがなんだっていうんスかっ」
「僕は君のことが気に入ったんでね。君に救世主としての旅にモチベーションを上げて欲しいんだ。だからもう一つの条件・・・僕の世界で『真実の愛』を見つけてもらおっかな!」
「『真実の愛』ィ?!そんなことで私が引き受けるとでもお思いでぇ?」
佳音が小声で愚痴を漏らしている時に突然他の話題を提示され・・・ましてや自分の過去の恋愛について触れられたことに唖然としてしまう。
声が若いせいか“神”という存在よりちょっとエエ声した生意気な男が佳音の歩んできた人生を小馬鹿にしているようにしか聞こえてこない。
そのせいか挑発してくる“神”に潔く謝罪したことを恥じ意地でも『二つの条件』から逃れようと佳音は止まってしまった口を動かした時だった。
「ふふっ・・・それがもう遅いんだなー。ちゃんと周りを見てごらん?」
そこは視覚で捉えられる物体は自分自身の寝転がっている身体しか存在していない漆黒の世界。
だが“神”の一言で佳音の瞳に映る世界は、塗り替えられる。
佳音が瞬きをした瞬間、白い輝きを放つ強烈な光で視力が霞み反射的に目を閉じる。その温かさを感じる光は佳音を包み込む。
目覚めの時のように瞼を手でこすり再びゆっくり視界を開けると佳音を照らす太陽光。そして一面に染まる純粋で濁りの一つも無い青い空。
背中を押す風の力が強まってきているのを感じた佳音は宙を浮く仰向けの体勢からぐるりと回転させた。
「え?・・・ぇぇええええーっ?!」
僅かな時間で数ページめくった後のような展開。佳音は言葉を失ったが濃緑の大地が目に飛び込みやっとここで自分は落下しているという認識を持ち声を上げる。
「だからね、君にはもうこの道しかないんだよ?それに君はこの世界のことを多少は知っているみたいだしね。」
「この状況でそんな意味深なこと言いますっ?!」
「もっと説明しなきゃいけないんだけど時間切れになっちゃうから僕と話せるのはここまで、かな。改めて・・・巻き込んじゃって、ごめんね」
あれほど佳音を挑発していた陽気な声が一瞬、別の人格に変わったかのように優しさを装った寂しげな声で謝罪をする“神”。それが心の中で引っかかりつつも佳音は永遠に続く空に向かって声を張り上げる。
「じゃあ!せめてっ、これからどうすればいいかだけ教えて!」
「あ、あぁ。まずは君を探している男・・・?まぁ、男か。とりあえずその人と合流して!その後の行動は彼に聞けば分かるから」
「わ、わわっ分かりました!・・・あっ!あと最後に」
「なに?」
皮膚を揺らすほどの風圧。落下するスピードが加速しているのが分かる。佳音の真下に見える緑で包まれた高山のような盛り上がった大地が見える。佳音はそこに指を向けながら細々とした声で、
「私・・・このまま落ちて死にません?」
“神”は機嫌の良い滑らかな声が戻り、少しばかり興奮した様子で佳音の最後の質問に答える。待望していたことが成されたかのように。
「君の下に見える大きな樹に向かって落ち続けて。君には元の世界の時よりも辛いことが待ち受けているだろう。でも負けないで。僕が与えた『力』を使って世界を救って、真実の愛を見つけるんだよ!それでは・・・いってらっしゃーいっ!」
「遊園地のアトラクションかー!!っていうかあれ、樹なのぉぉおおおお?!」
ついに“神”の声は途絶えてしまった。佳音は叫びながらもう間もなく追突する大樹の頂上に盾にすらならないと思いつつも上半身の前で腕をクロスさせる。
緩むことのないスピードで佳音は大樹の新緑へ消えた。