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客層ボタン  作者: 岩尾葵
8/9

休憩時間

 休憩時間を迎え、昼食を買ってバックルームに入ると、三十代くらいの瑞々しい肉体の女性が、パソコンの前のアームチェアにゆったりと腰を掛けていた。見たことのない顔、かと思ったが、その人の顔にはよく見ると先ほどまで男だった人の面影が何となく見てとれる。それに気づいてようやく、ああ、この女の人は、店長だ、と思い直した。店長は店に来る時まで来ていた服ではなく、女ものの胸元を強調したぴったりと体のラインが浮き出るような服を着ていた。

「いつの間に着替えたんです」

私が問うと、店長はパソコンから顔をこちらに向けて、ああ、さっきね、と曖昧な返事をした。振り返った素振りから、必要以上に胸の形が変形する服装に、少し目のやり場に困る。

「これは、通勤前に妻の洋服箪笥から拝借したの。イケてるでしょ。なかなかセクシーよねえ」

 店長、奥さんいたのか。普段から女らしい格好に女らしい趣向なものだったから、てっきり独身とばかり思っていた。と、そういった私の感想よりも先に、店長は、まあいらっしゃい、と手招きして、事務机の隣に腰掛けることを促した。言われた通り、私は店長の隣に腰掛け、目の前の机に昼食に買った品々を置いた。

「さてと。どこから話せばいいかしらねえ」

 先に切り出したのは店長だった。腰かけたアームチェアに思い切り背を凭れると、軋んだ椅子のスプリングがギイ、と音を立てた。

「面倒だから一問一答で答えようかしら。塩さん、何か聞きたいことはある?」

 店長は背もたれから一度離れて、肩に羽織っていたジャケットのポケットに手を突っ込み、蛍光ピンクの細い箱を取り出した。同じ場所からライターも取り出し、机の上に置く。この銘柄は確か、ピアニシモフランメンソールだったか。店長は箱から一本煙草を取り出すと、ライターで火をつけ、美しい豊かな唇でそれに口づけた。

「あれ、店長、煙草嫌いなはずじゃ」

 男性であったときはそれこそ顔をしかめるほどに煙を払っていた店長が、何の心境の変化か煙草を吸っている。その様子にまず一つ聞く予定もなかった質問が出た。店長は人差し指と中指で煙草を摘んで、ふっと息を吐く。ラズベリーにミントが混じった香りが、店長の目の前でふわりと舞った。

「ああ、ちょっと吸ってみようと思ってね。人生経験の一つとして。これ他の煙草より少し安いし、良い匂いだし」

「はあ。値段ならピースの方が安いと思いますが」

「良いじゃない、別に。それにこれ結構いいわよ。塩さんも一ついかが?」

「いえ、結構です」

 あらそう、と店長は言って、吸いかけの煙草を口に戻した。明るすぎる店内と比べて光の少ないバックルームで、煙草の先に灯した火がぼんやりと光っている。その光を見ていると無限に時間があるような気になってしまいそうだが、私は気を取り直して、本来の目的を思い出す。

「とりあえず、なぜ女性になりたいと思ったのか、ってところから、聞かせてもらえませんか」

 真っ当な質問だろう、と自分でも思った。おそらく店長もそう思っていたのだろう、一つ、そうね、まずそこよね、と言ってまた椅子に背を凭れた。

「元はと言えば、私が女になりたいと思っていたのは、ずっと昔からなの。気が付いたら、女の人に憧れていて、自分もああなりたいと思った。けど、私は男だったのよ。どんなに女の人に憧れても、体は大きく武骨になるし、身長だって知らない間にどんどん伸びちゃって。髭も生えるし、筋肉もつくし、自分の体が変わっていくことに、戸惑うことが多かったわ。なんであたしは女の人になりたいのに、体は男の人になっていくんだろうって」

 店長は摘んだ煙草を灰皿の上に置いた。

「最初は嫌いでも何でもなかった男の体が、成長していくごとに段々嫌いになっていった。腕とか足とか顔に、毛がボーボーに生えるのが気持ち悪くて仕方がなくて、毎日こまめに手入れしてたわ。学生時代まではたまに女装もしてた。彼女にプレゼントするんです、って言ったら、店の人は信用してくれたから、女物の服を手に入れるのは難しくなかった。で、親に見つかって怒られたりね。結局あまりに不利益が多いから、途中で男として生きていくしかないのかなあって、いろいろ諦めちゃったんだけど、とにかく女性になりたいっていう気持ちは、生まれつきって感じであったの」

「生まれつきですか」

 口から吐き出した煙の向こう側を見るように目を細め、店長はええ、深く頷いた。

「でね、その後いろいろあって、今の妻と付き合い始めたんだけど、やっぱり向こうが男性として私のこと好きだったら、申し訳ないから、付き合い始めの頃に、そのことをカミングアウトしたの。そしたらあの子、はあ、で? って言って何でもないように言うのよ。分かってるのかどうか怪しかったから、気持ち悪くないの、とか、私中身は女よ、とか言って揺さぶってみたんだけど、それで結局あなたはどうしたくて、私とどう付き合いたいの、って言い返されちゃって。普通、こういうこと言ったあとって、考えさせて、だとか、驚いた、だとか言われるものだとばかり思っていたから、その反応が新鮮で、ますます彼女に惚れこんだわ。そのあと、何年かして、結婚もしたしね」

 店長は思い出し笑いを漏らして、煙草の火を消した。奥さんの話は初めて聞いたがとても想像が出来なかった。そんな話があるとも知らなかったし、第一、店長が結婚していたということも、全く聞いたことがなかった。が、店長が奥さんによほど惚れこんでいるのは、白く化粧乗りのいい頬の(店長は私が来るまでの間に何と化粧までしていた)綻びを見れば分かった。

「けど、そうしたらもう、わざわざ女性になる必要もなかったんじゃないですか? 女性になったら、それこそ奥さんと夫婦、と言えなくなってしまうかもしれませんし」

「うん、まあ、それはそうなんだけどね……」

 そこで店長は言葉を濁した。灰皿に落とした煙草を拾い上げ、その先端を、ぐりぐりと皿底に押しつける。

「塩さんはさ、“あなたに私の気持ちなんて分からないでしょ”って言われたら、どうする?」

「え、何ですか、いきなり」

「いいから。どうする」

 私は一瞬黙考し、すぐに思いついたことを言う。

「そりゃあ、自分と相手は、人間が違うのだから当たり前です。でも、そこで止まるんじゃなくて、まずは、相手の立場に立って物事を考えるようにしますかね。とりあえず、相手が何を考えているのか、分かるまで徹底的に話し合って、それから自分に出来ることがないか、と考えます」

「そうね。素晴らしく模範的な回答だと思うわ」

 店長は煙草を灰皿に押しつけたまま、私の方に視線を移して微笑んだ。

「でも、それで本当に相手を理解したことになるのかしら。それって、他人を理解したつもりになっているだけなんじゃないかしら」

 が、直後に返ってきた反応に、足元をすっと抜かれる思いになる。

「どういうことですか」

 聞き返すと店長は、ふと笑う。

「例えば、今の私の話を聞いて、塩さんは私がどれだけ女性に憧れて、女性の体を羨ましく思ったか、理解できた?」

「それは」

 言葉に窮した。決して店長の話が分からなかったわけではない。だが店長が自身の肉体を憎らしくなるほどに、長い間、強く女性の体に憧れてきたというのは、あの短い話で理解できたなどと軽々しく言ってはいけない気がした。

「誘導尋問みたいになっちゃってごめんね。でもそういうことなのよ」

 店長はまた笑っていた。

「違うものは、違う。例えその二つの間に距離感の差があったとしても、これは変えがたい事実なの。そして、その歴然たる事実があるからこそ、埋めがたい溝が出来る。当たり前のことだわ。どんなに綺麗事や正論を並べても、事実は事実。違うものは違う」

 しみじみと、自身に言い聞かせるように、店長は言った。私は黙っていた。店長の言いたいことが、見えるような見えないような、まだぼんやりした影にしか捉えられなかった。

「ところで、この間、私が店を三日ほど空けたことがあったわよね。正しく言うと、五日だけど」

「え? ああ、はい」

 突然変わった話に戸惑いつつも返事する。店長は、相変わらず煙草を押し付けたままだ。

「あれ、皆の間ではどういう話になってたんだっけ?」

「えと、あの客層ボタンのせいでお客さんが来なくなって、店が潰れそうだからその対策に行ったんじゃないか、とか、店長がクレームへのストレスで胃を痛めたんじゃないか、とか」

 ハハ、と面白そうに店長は笑って、灰皿から手を離し、目の前のパソコンを指さした。そのままマウスを握り、手際良くウィンドウを操作する。

「見て」

 指し示された先には、今月の売り上げの折れ線グラフが表示されていた。二週間前から徐々に下降してはいるものの、総売上額は今月初旬とほぼ同額だった。

「確かに客数は少し減ったかもしれないけど、この店の売り上げ自体は皆が心配するほど減ってはないわ。まだ店が潰れることはないから安心して」

 ウィンドウを閉じ、店長はこちらに向き直った。ありがとうございます、と礼を述べる。

「それに見ての通り、私はあの程度のクレームで音を上げたりはしないわ。そんなことじゃあ、コンビニの店長なんて務まらないもの」

「それもそうですね」

「まあ、何も言わないで出て行ったのだから、そのくらいしか思いつくことがないのも当然と言えば当然なんだけど」

「といいますと……?」

 何か他に理由があるのでしょう、と私が言いたいのを店長も理解しているようだった。

「実は病院行ってたのよ。妻がね、妊娠したかも、っていうから」

 が、予想を遥かに超えた答えに、私はぽかんとしてしまった。

「え、にんしん……?」

「そう。で、検査受けてきたの。そうしたら、妊娠どころか、病気だって分かって、もう大騒ぎでね」

「え、ちょ、ちょっと待って下さい」

 頭の整理がつかないのをアピールして、店長に待ったを掛ける。この数分の間に聞いた情報と、この二週間にあったことが、いくつも頭の中を駆け巡る。客層ボタンの故障。店長の不在。益田さんから教わったその対策。知らせより二日遅れて帰って来て、様変わりした店長。女性になりたかった店長。女性になった店長。店長の奥さん。休みの間に行っていたという病院。奥さんの妊娠宣告。調査してみたら、病気。

「そうしたら、店に遅れて戻ってきた、っていうのは」

 何ら話の糸口の見えなかった先ほどまでの話と、店長の奥さんの話、さらに店長が女性になりたかったという話が、おぼろげながらに私の中で一つのまとまりを帯びてくる。同時にこんなところまで赤の他人である私のような人間が踏み込んでしまったのを、申し訳なく思った。

「そう。妻の側にいるのためよ。彼女ね、子供が産めない体になっちゃってたの。外傷がある訳じゃないから、看病とかはしなくて平気だったんだけど、結構精神的に辛そうでね。お医者さんに、暫く旦那さんが側にいてあげて下さい、って言われた。彼女、ずっと子供、欲しがってたから。で、仕事休んで言われた通り、一緒にいたはいいんだけどね、凄いショックだったみたいで、何を言っても不機嫌そうだし、心配すれば“あんたみたいなオカマに本物の女の気持ちが分かるわけないでしょ“って、これもう、酷い言いようでね……」

遠くの方でぼんやりと姿を滲ませていただけだった像が、輪郭を明瞭にしてはっきり私の前に現れた。

私は息を呑んだ。店長は続けた。

「それを聞いて、もう、本物の女になってやるしかない、って思った。その後暫く妻に付き添ってたけど、やっぱり駄目だった。所詮、男である限りは、彼女の辛さに近寄ることも、辛さを共有することもできない。だったらもう、女になるしかないわ。元々、この体は嫌いだったんだし、丁度よかった。男を捨てるのに、躊躇いはなかったわ。それを思いついたのは、本当、つい最近でね。気付いてしまえば、どうして今まで思いつかなかったのか、不思議なくらいで」

 自宅に帰って鏡を見ると、暫く手入れしていなかった髭や髪が伸び放題なのが目に付き、このままでは駄目だ、と奮起したという。そして今日、大好きなフルーツ・クリーム・モンブランのポップを見て、いよいよあの壊れたレジの前に立ち、それを実行に移す、と決めた。

 こんなことをして、妻が喜ぶかどうかはわからないけど、やらないより全然いいと思った、と店長は続けた。

「だってもう、私の彼女の間に溝はなくなるもの」

 力強く、確実な芯をもって断言する。それだけで、店長が如何に今まで一人で奥さんのことを、女性の体のことを、真摯に考え、大切に思ってきたのかが伝わってくる。

重大なことを聞いてしまったという思いと、店長が私に頼んだことの責任の重さが、じわりと背筋に汗をかかせた。店長が私にこの話をしたのは、おそらくたまたま客層ボタンを押してもらおうとした時にレジにいたのが、私だったからだ。それが、まさかこんなことになろうとは、全く予期していなかった。

 私は店長に対して何も言えず、ただ沈黙を貫いた。こんなときにどういう言葉をかければ、一人で問題を抱えてきた店長を慰めることが出来るのかわからなかった。大変でしたね、やお疲れさまでした、は、何かが違う。接客では足りない別の気持ちを、言葉にする術を知らなかった。

 それきり、休憩時間は終わってしまった。私はまた持ち場に戻り、何度打ったか分からないレジの前に立った。店長が本点検を済ませてバックルームから出てくると、午前の相方さんが大いに驚いた様子で、誰、あの人? と私に尋ねてきた。店長ですよ、と返しても、相方さんは最初信じようともしなかった。理由を全て割愛し、私がボタンを押したんです、と話すと、相変わらずあの人も物好きだねえ、という反応が返ってくるだけだった。

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