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客層ボタン  作者: 岩尾葵
7/9

215円:女性:三十代

 暫くして早朝のシフトが終わり、午前の仕事に突入した。ベンダーさんが生鮮食品の納品を済ませ、通常午前シフトに入っている相方さんが「おはようございます」と挨拶をしてバックルームに待機する。早朝の相方さんに引き継ぎに行って貰い、私はレジを見ながら食品廃棄、ならびにゴミ箱の袋を替える。終わった後は、バックルームから機械を取って来てパンと生鮮の検品をする。

 日や曜日にもよるが午前中はあまりパンの納品がない。一方で、生鮮の検品は腰を使う力仕事なのでなかなか骨が折れる。毎度のことだが、サラダ、サンドイッチを始めとしてお惣菜まで、生鮮は扱う食品の種類が多い。それらのバーコードを読み取り、数を確認してコンビニの保温庫に並べるまでが仕事で、その際まだ売れ残っている食品が売り場にあった時には、賞味期限を確認して古いものを手前に、新しいものを奥に配置し直す。これは廃棄時間をより効率的に確認できるようにするためのシステムだ。廃棄時間を過ぎた商品をバーコードスキャンしてしまうと、ピーと甲高いレジ音が鳴り響いて「廃棄時間を過ぎています」という表示が出てしまう。勤務時間が短いため、納品回数と廃棄回数が一番少ないシフトである午前が、その後のシフトの廃棄処理をより早く出来るように、しっかり賞味期限を確認するのである。

 生鮮食品の検品のあとは、午前シフトの廃棄の仕事が待っている。十時四十五分を目標にして、当日付け午後一時の商品を回収し、全て籠の中に入れて、あとで処分する。米飯売り場からデザート売り場までの商品に目を通し、該当の時間に賞味期限の切れる商品を見つける。

私は、お惣菜売り場までで七つほどの廃棄品を見つけた。たまに他のシフトで廃棄すべき商品が廃棄の時に回収しきれずに混ざっていることもあるが、今日は特にそれはなかった。

 一通り米飯、生鮮食品の賞味期限を見終わり、デザート売り場の商品廃棄に移ろうとしたところで、私の目に、綺麗な装飾を施した保温庫が飛び込んできた。上段にはケーキ類、中段にはシュークリームやプリンなどの洋菓子類、下段には水ようかんや栗大福などの和菓子類が並んでいる、一際華やかな売り場だった。赤と白のチェックビニールを敷き詰めた段に、個別に包装された菓子類が、買う人を待つように所狭しと冷蔵保温されている。私はその一角に、まだ売れ残っている店長のオススメ、フルーツ・クリーム・モンブランを見つけた。値段が高めに設定されているせいか、他のデザート類よりも心持売れ残りが目立つ。廃棄時間を調べると、二列に並べられているうちの前から四つが今日付けの午後一時の賞味期限だった。

 私は見つけたフルーツ・クリーム・モンブランを他の廃棄品同様、籠の中に入れた。冷蔵庫から取り出したそれらはひんやりと冷たく、照明の当たらないところに移すと他のこれからゴミになろうとする廃棄品と同じ、商品らしからぬ彩りにくすんでしまった。あれほど店長が力を入れて作った商品ポップも、今や他の商品の販促物に紛れて少し見えにくくなっている。他の人が商品周りを整理するときに気付かずポップの前に販促物を置いてしまったのだ。私はそれらを退けて、フルーツ・クリーム・モンブランのポップを手前に出しておいた。

 廃棄品回収の後暫くレジを打っていると、午前の相方さんが米飯の検品を始めた。壊れた方のレジを閉めて、正常な方のレジを開ける。正常な方のレジは、何度客層ボタンを押し間違えても、お客さんの見た目が変わってしまうことはない。片方だけで接客をする際は、いつもそのようにしようという、私と午前の相方さんの対策だった。

 店の扉が開く。お客さんが来たのだと、声を挙げて「いらっしゃいませえ」と言ってそちらを目視すると、入ってきたのはお客さんではなく、店長だった。「おはようございます」と慌てて会釈する。店長は「おはよう」と首だけ下げた。

 そのままいつものようにバックルームに行くのかと思ったが、店長は予想に反して店舗の商品を見始めた。昼食にはまだ早い時間だが、と私が思っていると、すぐにこちらに戻って来て、私が立っているレジとは別の方の、締め切られている壊れたレジの前に、持ってきた商品を置いた。

「塩さん、レジお願い」

「あ、はい」

 店長が私を名指しでそちらのレジへ呼ぶ。私は戸惑いつつも締め切ったレジへぱたぱたと走った。たまにレジを締め切っていても並ぶお客さんがいるが、店長がそんな行動を取るのは珍しい。第一、コンビニでレジを打っていれば、休止中のレジに人が並ぶことが如何に店員を苛立たせるか、というのは分かっているから、大抵は自分で買う商品は自分でレジを打ったり、店員がいる方のレジに並んだりするのが常である。店長ともなれば、それが分かっていて当然なはずでもありそうだが。

 私は何となく違和感を覚えつつも壊れている方のレジを開けた。店長の持ってきた商品は、あの、フルーツ・クリーム・モンブランだった。廃棄品回収後も残っていたモンブランは液体の染み出しもなく綺麗に形が整っていておいしそうだった。私は形を崩さないように入れ物を持ち上げて、バーコードをスキャンした。

「二百十五円になります。袋ご利用ですか?」

「いらないわ。スプーンだけお願い」

 畏まりました、と店長の要望に応えて、レジ下の引き出しから透明プラスチックスプーンを一つ取り出し、テープでモンブランのケースに張りつける。店長はその間、財布から小銭を取り出して、モンブランのお金を探す。五秒にも満たない間に、レジにスプーンの張りつけられたモンブランと、その対価である二百十五円が並んだ。

「塩さん」

 私が素早くその小銭を取ろうとしたところで、店長が一言私を呼んだ。はい、と反射的に返事をして顔を上げると、店長は何やら真剣な表情で私の方を見つめていた。何か問題があっただろうか。しかし袋を利用するかどうかは聞いたし、スプーンもちゃんと言われた通りに付けたはずだ。店員として何も問題はなかったはずではないだろうか。私が黙っていると、店長は「お願いがあるの」と何やらもったいぶったように一言付け加えた。

「はい、何でしょう」

「あのね、客層ボタン、ピンクの49を押してくれないかしら」

 二百十五円を持つ私の手が意思とは関係なく止まった。ピンクの49のボタンを押す。店長は、所作や見た目こそ丁寧で女らしさを感じる部分があるが、実際の性別は男性そのものであり、骨格などから判断してもそれは間違いないはずだった。その店長が、彼が、今私にこの壊れたレジでピンクのボタンを押せと言っている。一瞬判断に迷った。私は顔を上げて店長を見返した。

「え、冗談ですよね」

「冗談でこんなことお願いすると思う?」

 これは反語だ。

「店長、このレジは壊れてますよ。ここでボタンを押したら、店長は女性になってしまいます」

「そんなことは分かってるわ。だからお願いしてるんじゃないの」

「しかし、こんなレジの機能で女性になっても、体の中まで変われるかどうかなんて、分かりませんよ」

「それこそ、やってみないと分からないでしょう。大丈夫よ、今までのお客さんたちからも健康被害でクレームが来たことはないから」

「そういう問題では……」

「いいから押してよ。押さないと、店にあるフルーツ・クリーム・モンブランを、塩さんがボタン押してくれるまでひたすら一個ずつ買い続けるわ」

 みみっちいですね、と突っ込みを入れる間もなかった。店長の決意はかなり固いらしい。自分でレジを打ったのでは見た目を変えることが出来ないからこそ、今こうして私にレジを打つように打診していると言っても良かった。店長の目は本気だった。このまま私が正しいボタンを押し続けたり、命令を無視したとしたら、もう一度デザート売り場から、あのモンブランをレジに持ってくるに違いない、と思わせる、決意に満ちた強い力を宿していた。私が何ともいえずに呆然と立ち尽くしていると、店長もじっと私を見下ろしているばかりだった。

「わかりました」

 私は散々悩んだ挙句にそう返事した。店長が、あからさまにほっとしたような顔をして、緊張を解くのがわかった。

「けど、なぜ今更、突然女性になりたいだなんて」

「細かい理由は、あとで話すわ。あたしだって、この姿に全く未練がないわけじゃあないし、冗談で女になって、後で戻してもらおう、なんて考えてるわけじゃないんだから」

 きわめて明瞭に意志を述べる店長。決まりが悪いのは寧ろ私だけらしい。当の本人は、あっけらかんと、早くしないとせっかくのケーキが冷たくなくなっちゃうわ、などと言っている。

 私は意を決して握っていた二百十五円をレジの小銭入れに置いた。

「……丁度お預かりいたします!」

 レジに一秒に満たない速度で金額が入力される。同時に、客層ボタンをよく確認し、店長の希望の通り、ピンクの49のボタンを、まだ震えの止まない指先で、軽く叩いた。

 レジのドローアーがいつものように力なく開いた。左脇のプリンタからはフルーツ・クリーム・モンブランの商品名と値段と合計金額が書かれた短いレシートが印刷されて出てきた。それを右手で取り、お客さんへと差し出す。その前に、商品のお返し。いつもの通りの動作。だがやはり震えは止まない。踏ん張った足に力が入らず、がくがくと痙攣じみた動きが続く。

「レシートのお返……」

「ああ、いらないわ。そこに捨てておいて」

 いつもの聞きなれた店長のものとは違う、明らかに甲高い女性の声が、私にそう命令する。はい、とレシートを見たまま、私は顔を上げた。店長は既にモンブランを取ってレジから去り、バックルームへと移動しようとしていた。見送った背中が服に対して妙に華奢で、大きかった肩幅は、すらりと丸みを帯びて美しい弧を描いていた。

 本当に、ボタン一つで店長は女になってしまった。動揺に上がった脈拍が留まることを知らない胸の内で、私は仕事の間ずっと、ボタンを押した自分を責めたり、店長の命令を呑むしかなかったことを悔いたりと、酷く混乱をしていた。

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