120円:男性:四十代→二十代
客層ボタンによるお客さんの変身騒動が人々に広まるまでにそれほど時間はかからなかった。大量のクレームがお客さん同士の間でも噂となり、異常が起きたレジには三日で人がほとんど来なくなる有様だった。常連のお客さんは騒動を知ると、どんなに並ぶことになっても異常のない方のレジで順番を待つ人もいた。五日もするとうちの店の噂は瞬く間に町全体に広がっていたようだった。レジからだけではなく、店からすら客足は遠のき、近くにある他のコンビニやスーパーなどに寄るお客さんも出始めたようだった。売り上げは目に見えて減っていったように思えた。バックルームで見られるパソコンの客数グラフはレジの故障の日を境に右肩下がりになり、元々一日あたり七百人超だったこの店の集客数は、私が故障以来三回目のシフトに入った時には、既に日に四百人を割っていた。
しかし皮肉なことに、お客さんが店に来なくなればなるほど、店員が客層ボタンを押し間違える回数もまた目に見えて減って行った。今まで捌き切るお客さんが多く、またコンビニのレジ店員に求めるスキルがファーストフードの店員と同じような迅速さのみであったことから、店員はお客さんがレジに並べば即商品バーコードをスキャンし、袋詰をし、お金を受け取り、客層ボタンを押して、お釣りを渡す、ということに常に焦りを感じながら動いていた。ところが、客数が減ってからと言うもの、今までレジ打ちに当てていた時間は大幅に縮小され、一人のお客さんあたりにかけられるレジ打ちの時間もその分長くなっていった。レジ打ちにゆとりを感じられるようになった従業員は、しっかりとお客さんの顔を確認してからレジを打つようになっていき、間違えそうになった時は手を止め、焦らずに見た目から推測できる年齢を押すようにした。どうしても年齢に判断が付かないときは、お客さんに直接年齢を尋ねる店員も出てきた。よく顔を見るお客さんは聞かれたときこそ訝しがったが、事情が分かると寧ろ年齢を間違えられたら困るのだ、と思ったのか、年齢の確認に積極的になった。気付けばクレームが来たのは、駅を利用する遠方から来たお客さんが、何も知らずに異常のあるレジに並んでたまたま店員が客層ボタンを押し間違えたときの一回きりになっていた。
店長の判断は物を売るという目的そのものから見れば、ほぼ裏目に出た、失敗と言える。しかし、お客さんが姿を変えられることが少なくなったという結果だけ見れば、目的とは違えたが逆に成功だったとも言えた。バイトをしている従業員同士では、減っていく客数を見ながら、このまま店が信用されなくなれば本部から閉店を命じられることもありうるのではないか、ともまことしやかに噂されていた。そこまでじゃないわよ、確かに前よりはちょっと大変かもしれないけど、とある時店長は冗談のように言った。店の経営にかかわっている店長から実際にそれを聞くと、何だかまるで今の店の状況が、雨の山で遭難していて救いを求めている集団のように思えた。
お客さんの足も遠のき始めたある日の夕方シフト。午後からの引き継ぎで、店長が暫く休養を取る、という連絡が回っていた。詳細は不明だったが、三日ほど休みを取るらしいとのことだった。お盆でも年末でもない時期に、二十四時間三百六十五日フル開店のコンビニの店長が店を空けるのは珍しい。よほど重大なことでもあったのだろうか。もしかしたら、最近のレジ騒動のせいで、本部から呼び出しがかかったか。あるいは、突然低迷し始めた客数を見かねた本部がいよいよ対策の必要を感じて、相談しに来い、と命じたのか。
その日、三回目の買い物に来たウラカミさんを見送って、今日受け付けた公共料金表の整理をしていると、仕事がなくなって暇になってしまったらしい益田さんから声を掛けられた。
「あー、また暇になっちゃったわ」
極めてのんびりとあくびをしながら、紙を整理する私の背後に立つ。お客さんのいない店の中では、テンポが遅い明るい曲調のバックグラウンドミュージックが流れているばかりで、私の作業を除けば人がいる音がしない。いらっしゃいませ、と声かけする相手もいない益田さんは、手持無沙汰にレジ回りをうろつくばかりだった。
「なあ、塩さん。今こんなに暇なのって、このレジの客層ボタンのせいなんだよな」
益田さんは私の背後にあるレジを指さしながら興味深そうに呟いた。私は一度、支払い用紙の整理の手を止め、益田さんの方を振り返った。
「そうですね。元はと言えば、そのレジの客層ボタンを間違えると、お客さんの姿が変わってしまうという現象のせいです。代わりのレジが来るまでの二週間、店長の意向でどうしてもレジを閉められないっていうので、まだ若干姿を変えちゃうお客さんがいますね」
それで店自体の信用が落ちてるみたいです、というと、益田さんは、ふむ、と頷いた。益田さんはレジの一件を話には聞いていたらしいが、実際にお客さんの前で故障した方でレジ打ちをしたことがないため、事件を実感しにくいらしい。自分は客層ボタンをいい加減に押すから、そのレジには絶対に入らない、と言い放ち、シフトの際には正常なレジの方に入るようにしていた。私と組んだ時も、常に壊れていない方を使っている。しばらく考え込んだ後、益田さんはまた「なあ」と思い出したように声を出した。
「何です?」
「塩さんは、仮面ライダー、好き?」
唐突に尋ねられたので、思わず失笑してしまった。それが何だというのだ。いい年してこの人の頭の中には仮面ライダーしかないのだろうか。今は業務中だし、第一、益田さんはこの間まで自分が仮面ライダー好きだということを隠していたのではなかったか。様々に考えながらも私は特に何と言うこともないように装って答えた。
「別に。あまり見たこともないので、好きでも嫌いでもないです」
「そうか。小さい頃に見ていたこともない?」
「ああ、小さい頃は割と見てましたよ。クウガとかアギトとか。戦闘シーンばっかり見てたんで、内容は全然覚えてませんけど」
そうかそうか、今の四〇代がガンダム見てたのと同じような理由だな、と何やら益田さんは何やら納得したように頷いて、レジから視線をあげ、私を見た。両手を挙げて、テレビの司会者のような格好で胸を張る。
「では塩さん。ここで問題です。仮面ライダーで、怪物に襲われてしまった一般市民はどうなりますか?」
え、と突然来た質問に意味も分からずに眉根を顰める。
「そりゃあ、死ぬんじゃないですかね」
「そう。普通怪物に襲われた人間は死ぬ。けど、子供が見る番組だから、そういう描写は数秒で終わらせてしまっていて、あまり主題としては持って来ないのが、特撮の演出方法だ。もちろん登場人物の死は思い切り描くけどね」
「はあ」
「では次の問題です。仮面ライダーと同じチャンネルで、仮面ライダーの前の時間枠にやっている番組は、何でしょうか」
益田さんの意図するところが全く分からないまま新しい質問を出題されてしまった。半ば呆れつつも、昔の記憶を引っ張り出して回答してみる。
「何とか戦隊何とかレンジャーって奴じゃありませんでしたっけ」
大正解です、と益田さんは大仰に声を挙げて軽く両手を叩いた。新しいお客さんはまだ来ない。二人しかいない店舗で、益田さんの拍手と解説の声が響く。
「そこまで分かってるならあと一息だ。最後の問題です。では、その戦隊もので、怪物に襲われた一般市民はどうなりますか?」
完全に白けきっている私に対して、益田さんは自分の畑の話をしている農民のように意気揚々と語った。私は最早まともに答える気力が失せて、片手で公共料金整理の紙を再度分け始めた。
「さあ。よく分からないですけど、死ぬんじゃないですか」
「ああ! 残念。外れ、外れ、大外れです。惜しいなあ、もうそこまで来てたのになあ」
何がですか、と聞くまでもなく、はあ、とだけ言って私は仕事を続けた。が、益田さんの勢いはとどまるところを知らない。
「いいかい、塩さん。戦隊ものは仮面ライダーよりも更に視聴者の年齢層が低いことが考えられる。もちろんマニアみたいな人も見てるっちゃ見てるけど、それ以上に男の子が見る可能性の方が高いし、制作側もそこをターゲットオーディエンスに据えて番組構成をし、話を作っている」
私の手は、公共料金の紙を水道・ガス・電気・その他、の四種類に分類していく。
「となるとだね。必然的に、一般市民が怪物に襲われた場合の描写のされ方も、仮面ライダーとは違ってくるんだよ。今は比較的低予算で番組製作がなされてるから、あんまりエキストラが出て来ないんだけど、最盛期のなんかはそれこそ大人数の一般市民が怪物の罠や術にやられたりしていたんだ。で、正義の味方が怪物を倒すわけ。そしたらね」
益田さんはそこで言葉を切って、重大な発表でもするかのようにぱちんと手を叩いた。
「何と、罠にかかった町の人々は、呪いが解けたかのように元に戻るのです! 死んでしまったかと思われた人々、行方不明になってしまった人々、その他事件に関係していた人は全て、怪物が倒されればきれいに元通り。ありがとう、何とかレンジャー! ありがとう、正義のお兄さんお姉さん! 町の人々は彼らがまるで救世主であるかのように感謝し続ける。怪物を倒してくれて、僕らは元に戻れた、と。まあ、幼稚園児や小学生低学年を対象にしているのだから当然、物語は希望に満ちたハッピーエンド。怪物を倒しても、行方不明になった人や、被害を受けた人たちが、そのままであるということはほとんどない」
「はあ」
何が言いたいのかさっぱりわからない益田さんの演説は一応今ので終ったようだった。話している間に公共料金の分類も丁度終わった。
「おいおい、重大なことを話しているのに、なんて生ぬるい返事をするんだい、塩さん」
せっかく大げさな身振り手振りを交えて説明した戦隊もののアプローチに全く意味を見いだせていないことを落胆するかのように、益田さんは私にずいと近づいてきて、肩を叩いた。
「だって、それ今のことと全く関係ないじゃないですか」
「いやいやいやいや、それは大いに違うよ。関係大ありだよ」
切実に嘆きそうな勢いで人差し指を一本立てて、レジへと向ける。
「いいかい。このレジは客層ボタンを押し間違えると、お客さんの見た目が変わってしまう変な仕様になっている。このレジは特撮で言うところの怪物だ。お客さんは、特撮で言うところの一般市民。そしてレジの客層ボタンの怪は、怪物の攻撃、もしくは呪いとしよう」
自信たっぷりに解説する益田さんの脇で、私はようやく言わんとしているところを理解しようとしていた。
「まさか」
「そう、つまりね、この店のこのレジの仕様だけど、仮面ライダーよりも戦隊ものの路線の可能性が、あるんじゃないか、って言いたいんだよ」
全く思いがけない方向性からの提案に、私は目を丸くした。益田さんは相変わらず自信満々といった表情で、お客さんが来ないレジに陣取ってにやにやしている。仮面ライダーよりも、戦隊ものの可能性がある。益田さんは、おそらくこういいたいに違いない。このレジを壊せば、お客さんが元通りになるのではないか。
「しかし益田さん、そんなことをされたら、それこそ解雇ものでは。警察から器物損壊の容疑を掛けられてもおかしくないですよ」
あまりに唐突な提案に私が狼狽していると、今度は益田さんの方がきょとんとした顔になった。
「ん? まだ実行するとは一言も言ってないよ。そういう可能性があるってことだけだ。それにそんな不確実で暴力的な方法よりも、もっと簡単な解決策がある」
「なんですか、それは」
これだけもったいぶっておいてそちらの方法を先に言わないとは、益田さんもなかなか憎い。益田さんは居住まいを正してレジを見た。
「これも、本当のことを言うと特撮の話なんだが、それで説明するとちょっと時間がかかってしまうから、塩さんでも知ってそうな、ドラえもんを例に出すとしよう」
「はあ」
「ビックライトは知ってるね? ドラえもんの道具で、ライトの光を当てると、当てられた人が巨大化するあれだ」
ふむふむ、と首を縦に振る。益田さんは続ける。
「ではまた問題です。あれは使った人が巨大化しても、元に戻れるのは、なぜでしょうか」
最近の番組に疎い私でもさすがにこのくらいは分かる。
「そりゃあ、スモールライトがあるからです。大きくなっても、スモールライトでまた小さくなれれば、結果として元に戻ったことと同じになりますからね」
正解、と益田さんは指を鳴らした。今度は鳴らした指で、客層ボタンを示す。
「それが答えだよ。今の客層ボタンはまさにその、ドラえもんのスモールライト、ビックライトの関係なんだ」
「え、どういうことですか?」
「ここまできてもまだ分からないかい」
促すように言われて、問題を解いている時に先生にどうしてわからないのと言われている小学生のように動揺する。私は床を見て考え込み、答えを見つけようとしたがどうしても思いつかない。やがて益田さんは、ああ、分からないならいいんだ、と笑って私を見ていた。
「簡単なことだよ。ビックライトにはスモールライトがある。客層ボタンには、正しいボタンと誤ったボタンがある、って言うだけの話さ」
ややまだ益田さんの意図が分かりかねている私にも、何となくぼんやりとした回答が見えてくる。が、丁度そのとき店の自動ドアが開く音がした。見慣れない顔のお客さんがレジにやってきた。
「いらっしゃいませ」
背を向けている私よりも、レジに近い益田さんがお客さんを迎えた。お客さんは急ぎ足でレジに接近し、荷物を置くと、レジの真ん前に置いてあったライターを一つ手に取り、台に投げだした。急いでいるのか、あるいはいらいらしているのか、いずれにしても店員にとって印象のよくない態度の定番だった。
益田さんは投げ出されたライターをいつも通りの調子で手に取り、バーコードをスキャンしていつも通りに会計を読み上げた。
「百二十円になります」
「おい店員さんよ!」
が、益田さんの声は不意に発された怒号によってかき消された。態度と言うよりは出された大声そのものに驚いて、私はびくっと肩を震わせた。反射的に首がお客さんとレジに立つ益田さんの方へと向く。しかし、そのお客さんは私に指をさし、「お前だよ、お前!」とまた野太い、今にも割れそうな声で叫んでいたのだった。
「おい、あんた。さっきレジ打ってた店員」
お客さんは四十代くらいの小太りの男性だった。サラリーマンらしく、ワイシャツと黒いズボンを身につけ、白髪まじりの髪の毛がやや薄い。顔を真っ赤にして、鋭い眼光を飛ばしてくる。呂律が回っていないところを見ると、酒で酔っ払っているのかもしれない。
「お前なあ、さっき何しやがったんだ、おい。女房が誰ですか、貴方は、つって家入れなかったじゃねえか」
耳障りな酔っ払いの声がじわじわと私を追い詰めた。これはもしかしたら、またあの客層ボタンの押し間違いか。私は恐怖で打ち震えている体に鞭を打って、一歩進み出、深々とお辞儀をした。
「申し訳ございません。先ほど、私、レジを打ち間違え……」
「ああ? 謝って済む問題じゃねえだろうが。どうしてくれんだ!」
お客さんの怒鳴り声がぴしゃりと謝罪しようとした私の言葉を遮る。違う、レジの打ち間違えをそのまま謝ったところでは、お客さんには何も伝わらない。第一、お客さんは客層ボタンの存在も、客層ボタンによって姿が変わると言う仕組みも知らないのだ。事を起こした所で謝っても何も解決しない。
「いいかい、こっちとら客なわけ。あんたらの店に金払ってやってんの。そんな店員さんじゃあ困るの。ちゃんと喋って謝って、責任とってくれないと」
「大変申し訳ございませんでした」
「だから謝ってるだけじゃ解決しねえって言ってるだろうが!」
呂律の回らない舌が力に任せて暴言を押しだす。立ちすくんだまま、上半身をお辞儀から戻すことが出来ない私に、容赦なく言葉の暴力は降り注ぐ。恥と怒りの熱量で擦り切れてしまいそうな思考回路を必死で繋ぎとめながら、お客さんの言葉の中から何か状況を引っくり返せない対処法がないかと探す。しかし、同じことの堂々巡りで、一体何を欲しているのか、それすら明確に捉える事ができない。
「あの、お客様」
私が謝り続ける脇で、益田さんがお客さんに声を掛けた。益田さんはいつもと何一つ変わらない調子でお客さんに言う。
「うちの者がご迷惑をおかけして、大変申し訳ありませんでした。つきましては、お会計の際に解決できますので、まずはお支払いの方をお願いしてもよろしいでしょうか」
「ああ? この上、まだ金を払えというのか」
「ライターがございます」
益田さんは指先を揃えてカウンターに手を出した。お客さんがレジの前に置かれたライターを見る。どうやら私に説教をしていてすっかり会計し忘れていたらしい。お客さんは眉をしかめつつ、いかにも気だるそうにバッグの中から財布を取り出し、お金を漁ろうとするが、途中で手を止めて、代わりに定期券入れを取り出した。
「スイカで」
「畏まりました」
益田さんは素早くレジを操作し、スイカでの支払い画面を出した。お客さんが定期券入れをカード接触部にかざす。短い電子音の後に、レジのドローアーが開いた。
「お客様、大変失礼なのですが、今おいくつですか?」
益田さんはすかさずお客さんと目を合わせる。お客さんはまた露骨に嫌そうな顔をしたが、益田さんの真剣な表情に圧倒されたのか、やがて表情を緩めた。
「今二十三だよ。それがどうした」
「恐れ入ります。ありがとうございます」
益田さんはお客さんに礼を言うとためらうことなく29の水色のボタンを押した。すると四十代と思われた目の前のお客さんは、お腹が見る見るうちに引っ込み、白髪まじりだった髪の毛が黒々とした艶を取り戻した。がっしりとした腕や足腰はすらりと細くなり、全体のバランスに見合った美しい四肢が完成する。先ほどまでの不躾な態度からは全く想像もつかないような好青年が、怒りと酒に顔を赤らめたまま、レジへと降って湧いたように現れた。
「こちらレシートになります」
驚く私に対して、益田さんは全く動揺した様子もなく、お客さんにレシートを渡した。
「お待たせいたしました。無事、解決いたしましたので、そのままご自宅の方へお帰りいただいて大丈夫ですよ」
皮肉の意味か、接客のためか、極上の笑みを浮かべて益田さんはお客さんに言い放つ。自分の身に何が起こったのか分かっていないらしいお客さんは、先ほどと同じく警戒を解かずに、ああ、本当かよ? と訝しがる。
「今度こそ、大丈夫です。駄目でしたら、またお越しくださいませ」
「へ。もうこんな店、頼まれたって二度と来ねえよ」
お客さんは買ったばかりのライターを持ってずかずかと店を後にした。益田さんはお客さんが店を出るまでその背中を見送り、ありがとうございました、と丁寧に、一音一音をしっかり発音するように挨拶をした。私もそれに合わせてお客さんに言葉を送ったが、内心もう二度と来るな、という気持ちで見送っていた。これで向こうから来なくなってくれると言うのであれば、願ったりかなったりだ。
お客さんがお店からまたいなくなると、益田さんはふう、とため息をついた。
「大丈夫、塩さん?」
私は、はい、と頷いて無表情を装い、整理した公共料金の紙を所定の位置に置きに行く。大丈夫なはずもなかったが、そんなことを考えている場合でもない、とすぐに気持ちを切り替えた。足が震えて仕方がないのを何とか抑え、戻って来てから、先ほどの話の続きを益田さんに頼んだ。
益田さんは極めていつもの通りににこにこしながら、まだ不安に顔が硬直する私に、肩を叩いてくれた。それから少し話をすると、段々気分が落ち着いてきた。
「で、さっきのビックライトとスモールライトの話ですけど」
「ああ」
「あれって結局どういう意味なんですか? 答えは何ですか」
益田さんは私の問いに口角を釣り上げて「さっきのお客さんの通りだよ」と教えてくれた。
「皆、勘違いしてるんだ」
「勘違いとは?」
「このレジの客層ボタン。一度間違えたら、お客さんの姿をもう一度変えることはできないと思ってる。けど違う。実際には、間違えれば間違えただけ、何度でもこの客層ボタンでお客さんの姿を変えることが出来るんだ」
「あ……!」
私はようやく益田さんの言わんとするところを得て、目の前の道が開けたような気分になった。
「ってことは、一度間違えてしまっても、お客さんが買い物した時に、もう一度正しいボタンを押せば、元に戻るってことですか」
「その通りさ。正しく言うと、元には戻らない。正しい年齢を新しく上書きすることによって、元に戻したように見せかけられるってことさ。さっきもビックライトとスモールライトの話を出したけど、ドラえもんがやっているのは、ビックライトの効果をスモールライトで消してるんじゃなくて、スモールライトの新しい情報を、対象に上書きしているってことだ。つまり、『間違いの間違い』を起こす。『反対』の反対は、賛成ってね」
なるほど、それは確かに盲点だった。店長を含めて、私たち益田さん以外の従業員は皆、正しいボタンを押さないとお客さんの姿を変えてしまう、という点にばかり着目しすぎて、いざ間違えてしまった場合の対処のことをほとんど考えていなかった。結果として、レジで客層ボタンを間違え、お客さんに迷惑がかかって店の信用を失ったとしても、対処のしようがないから仕方ないのだと諦めかけていた。お客さんが減ったことによって客層ボタンの押し間違いが減ったのは、怪我の功名みたいなものだったが、本音を言えば、こんな奇妙な現象はさっさと解決方法を見つけて、店の信用を取り戻し、元通りにレジを打てる環境にするのが一番なのだ。
私は益田さんの発見に目を輝かせて「凄い発見ですよ」と勢い込んで褒めちぎった。が、益田さんは褒められることなど何とも思っていないかのように淡々とまた語り始めた。
「ねえ、そういえばこのボタンって、誰がどのくらい変化しちゃうのかね。少なくとも今のところだと年齢は確定みたいだけど、他にも男女の切り替えもできるよね、このボタン」
また意外なところを突かれて、確かに、と思った。私は事件が始まって以来、客層ボタンを押す時に男女を間違えた覚えがないため、あまり考えていなかった。
「年齢を間違えると、年齢が変わる。男女を押し間違えると、性別が変わる、ということですか」
「うん、ついでにいうと、例えば年齢もそうなんだけど、あの見た目って、どういう理由があって変わってるんだろう。客層ボタンには年齢の幅があるでしょう。29と49の間には二十年もの年齢幅がある。三十代の見た目と、四十代の見た目はひとくくりにされるけど、お客さんの見た目に反映されるのは、そのうちのどれか一つの年齢のものだけだ」
言われてみるとそれもそうだ。たった一年でも顔つきの変貌が激しい若い世代も、19のボタンを押すとなぜか特定の年齢の顔がお客さんにアウトプットされる。五十代以上の場合では、それがさらに不明確になる。六十代であろうと、七十代であろうと、50のボタンで区別するしかないレジのキーでは、正確な年齢の特定などしなくてもいい。年代を間違えさえしなければいい、という少し幅の利いた解釈もできるが、お客さんに反映されるのは、その年代のうちの特定の年齢だけである。
「となると、何か法則性でもあるんですかね。幅広い年代のうちから選ばれる、年齢の一点に」
あり得そうな可能性を口に出してみる。が、益田さんは、いや、と反応した。
「自分もそれを考えたんだけど、そうすると性別の場合だとさらに面倒なことになりそうでね。全く別の生き物になっちゃうわけでしょ、性別がかわるって」
「ああ」
私は何となく益田さんの言いたいことが分かってきた。お客さんが去った後の、閑散とした店舗に、レジだけが嫌に印象的に見える。
「つまり、このボタンは必ずしもお客さんの個々人の未来や過去を吸いだして、吐き出してるってわけじゃないってことですね。性別が変わってしまったら、それこそ自分の今までの人生とは全く異なった人間となってしまう。歩んだことのない人生の一点を特定する法則性なんてあるはずがないと」
「そう。幅のある年齢の一点を決めるのに、本当に法則性があるなら、それはその人が本来経験してきた、もしくは経験する予定の人生の中で決められるはず。性別の間違いのように、全く別の人間になってしまう中でも年齢が特定されるようなら、それこそ、世界線とか、並行宇宙理論とか、パラレルワールドとかで、もうSFの世界だよ」
「まあ、もう今の時点で十分SFですけどね」
益田さんは私の一言に、それもそうだ、と言って軽く笑った。