表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
客層ボタン  作者: 岩尾葵
4/9

時間外労働

 いらっしゃいませ、おはようございます、と言えば今日の業務が始まる。それがコンビニだと私は以前まで勝手に思っていたが、バイトであれば、時間外にその言葉を発することは少ない。が、逆にその言葉を発しなくても仕事をするということもあるのだということをこの店に来てから嫌というほど思い知らされることになった。コンビニには接客以外にも様々な仕事がある。品出し、検品、店内掃除、冷蔵庫補充、仮点検、送金、レジ回り整理にフランク類や中華まんやおでんの準備、シフトに入っているだけでもそれだけあるが、発注や店舗改装、その他シフト内で終わらなかった仕事は時間外に取り組まなくてはならない。実はポップ作りもその、時間外労働のうちの一つである。以前、塾でバイトをしている同級生に、塾講は時給が良いのでバイトとしては美味しい方だと思われがちだけど、予習や復習、通勤時間を加味すると、他のバイトと比較して実際に大した差はない、と聞いたことがあるが、コンビニの多種多様な時間外労働もまた、バイトとしては割に合わないものと捉えられそうなものである。

「出来たわあ! 完成よ」

 甘美な声を挙げて店長が喜ぶ。完成したポップは、大きなモンブランにフルーツとクリームが強調されているイラストが施され、作る前に店長が考案したゴシックに似たフォントで装飾がなされている。シフトを終えてから実に約三時間後のことだった。

「いやあ、我ながら見事! 頑張って手を動かした甲斐があったわ」

 意外なことに手先の器用な店長は配色センスも抜群で、確かに私の目から見てもそのポップは購買意欲をそそる出来栄えだった。店長は軽やかな足取りでバックルームを後にすると、早速そのポップを貼りつけに、売り場のデザートコーナーへと向かった。バックルームの外から、深夜の人が店長を見て、「あれ、まだいたんですか」と驚いている声が聞こえてくる。

 一晩中かかるかと思ったが、案外早く終わった。シフト交代の時間まであと五時間近くもある。この分だと、一端自宅に帰って寝てきた方が効率もよいかもしれない。

益田さんは私たちがポップを作っている間にいつの間にか帰ってしまっていた。途中までポップ作りの傍らで必要なものを取りに行ってもらったりしていたが、三十分も経たないうちにあまりに暇になったので堂々と帰宅宣言をして店を後にしたのだった。夜も深まってきたから気をつけてね、と店長は優しく声を掛けた。益田さんは店長たちも頑張ってください、といって店外の闇の中に消えていった。

暫く深夜シフトの人と話をしていたのか、店の表から賑やかな笑い声が聞こえて来ていたが、少しして店長がバックルームに戻ってきた。ポップを貼り付けるのに使った文房具を両手に持っている。

「あ、わざわざありがとうございます」

「いえいえ。塩さんも、手伝ってくれてありがとうね」

 店長は文房具を事務机の引き出しの中に仕舞った。

「そういえばさっき、深夜の子とも話したんだけど、あのレジ、真剣に対策を練らないとマズイわね。深夜の子たちもレジ売ってる間に客層ボタン間違えて打っちゃって、びっくりしたって言ってたわ」

 ポップを作っている時とは打って変わったように店長が真面目に言ったので、私は一瞬何のことだろうと思ってしまった。が、レジの不具合を忘れていなかったのか、とすぐに思い直し、聞く姿勢に入った。

「不思議よねえ、客層ボタンでお客さんの見た目が変わるなんて」

 呆れた、とか対処しかねる、とかそういうニュアンスが滲む言い方だった。

「本当に。あ、ポップ作りに夢中になってて聞き損ねましたけど、お客さんからどんなクレームが来てたんです?」

「そりゃあ、もう、『学校に入ろうとしたら、突っぱねられた』とか、『今日は得意先との重要な会議があったのにどうしてくれるんだ』とか、いろいろね。学生が二十代くらいの見た目になったり、サラリーマンが中学生くらいの外見になったり、果てまた管理職クラスの五十代くらいの人が四十代中年と間違えられたり。そのあたりからは、退職までもうすぐだったのに十歳若返ってまた十年分働かなくちゃいけないのか、なんてのもあったわ」

「見た目が変わるよりもそっちの方を心配する人もいるんですね」

「まあ退職金が目前なのにゴール地点が一気に遠ざかったかと思うと、その気持ちも分からないでもないわね」

 店長はふふ、と笑った。

「というか、見た目が変わったからってよくうちの店のせいだってわかりますね。普通お客さんからだと客層ボタンって見えないじゃないですか。うちのクレームは、電話でしか受けてないはずですから、尚更凄いなあと思いますね。推理が鋭いというか。私だったら、例え見た目で学校から追い出されたとしても、泣き寝入りして終わっちゃうと思います」

「実は客層ボタン、お客さん側からでも見えるのよ。で、どこを押されるのかをきちんと見ていたお客さんがいたみたい。クレームが来た時に、『29のピンクのボタン押しましたよね?』って言ってきた方いたわよ。あと、『私はもっと若いわよ』って」

「いや、言い訳じゃないですけど、正直言って客層ボタンなんて割と適当に打ってますよ。混んでるときは大体49しか押しませんし、時々性別も間違えます。」

「まあ、そうよねえ。あたしもレジ打ちするときはお客さんを見ても大体の感じでしか押さないわ」

 店長でさえそうなのか、と私は少し驚いた。こういう話は、あまり益田さんや他の従業員たちともしたことがない。他の人が客層ボタンをどういう風に押しているのかというのは、全然知らなかったし、疑問にも思わなかった。

「となると、店員が客層ボタンを間違えずに完璧に押すって言うのは、不可能って思っていいんですかね」

「実際、塩さんはどうなの? 出来ると思う?」

「無理です」

 即答だった。返答の速さに店長が「お、おう」とどぎまぎする。

「正確に押すように心掛けてはいますけど、やっぱり見た目で年齢を判断するのってかなり難しいですよ。正直、49のボタンと50のボタンは、未だにどういう見た目で押し分けすればいいのか分かりませんし」

「あたしは、男性サラリーマンだったら白髪が多かったり髪の毛が後退気味だったりしたら、50のボタン押してるわ」

 店長、それはそれでどうかと思います。

「お客さんの年齢を見た目で判断する時点で大分あやふやなのに、忙しかったり二つのボタンを指の腹で同時に押しそうになったりしたら、正確も何もないですよね」

「確かにそうね。じゃあやっぱり、従業員にボタンを正確に押しなさい、って命じるのは、あまり効果がないか」

 店長は客層ボタンのクレームの件について、もう対策に乗り出そうとしているようだった。モンブランで大騒ぎしていた先ほどまでと同一人物とは思えない真剣な表情で、従業員の心がけの代替案を模索している。確かに、得体のしれない不思議なレジをあのままにしていては、客足は遠のき店の存続は危ぶまれる。私も店長の傍らで何かいい方法はないかと思案した。

「いっそのことあのレジを停止したらどうですか」

 考えうる限りで最も簡単な方法を提案してみる。しかし店長は首を横に振った。

「本当のこと言うと、それが一番手っ取り早いのよね。けど、うちにはレジが二台しかないから、片方を休止にしちゃうと、お客さん捌くのが大変になっちゃわないかしら」

 店長の言うことは尤もだった。都心の駅前に隣接するこのコンビニには、早朝に限らず全シフトに必ずピークの時間帯がある。特に、通勤客が多く行き帰りする時間帯である朝七時半と夜九時は二つのレジで対応していてもお客さんが列を作るくらいの混雑ぶりで、片方のレジを休止状態にしてしまえば、当然処理能力が半減し、その分お客さんの店に対するストレスがたまるであろうことは容易に想像がつく。業者に頼んでレジを交換するにしても、新しいレジが届くまでの時間はやはり片方のレジで対応しなくてはならない。そのように考えると、確かにやや効率が悪いとも考えられる。

「となると、新しいレジを買って、今のレジ一台を破棄、という形が一番早いし、都合がいいですかね」

 次に考えうる最善の方法として、レジを休止する前に新しいレジを買ってしまうというのを思いつく。が、店長はこれにもすぐに異を唱えた。

「それにしても、新しいレジが届くまでの間は、一台だけで接客しなくちゃならなくなるわよ。あたしも出来る限り早めにこの問題を解決しようと思って、新しいレジの発注はもう済ませてあるんだけど、今日電話したら、本社の都合で届くまでに少なくとも二週間はかかるみたい。近場の他の店舗に余っているレジがあるわけでもないし、結局、本社から新しいのが来るまでは、あのレジを使い続けるか、休止にするか、どっちかなのよ」

「となれば休止に出来ない以上は、使い続けるしかないってことですか」

 店長は黙って頷く。

「正直、この判断はどうかと思うけどね。クレームが来ている以上、店としてはお客さんに不利益がないように最大限努力すべきだし、そのための出費も惜しんではいけないわ。でも、例えそれらをこなしたとしても、今のこの状況は改善までに時間がかかり、その間にお客さんが不利益を被ってしまう。だから、根本的なところに立ち返って、私たちが何をすべきか、を最優先にするのがいいかなって。では、私たちの本来の目的とは何か。それは、お客さんに商品を売ることよ。お客さんの見た目を損なう恐れがあるのを選ぶか、レジが遅くなるのを選ぶか。究極の選択だけど、あたしたちの目的に立ち返れば、レジを打たないという選択肢は、ないと言い切れるでしょう」

 なるほど、店長はあくまでも店と言う立場から、お客さんに物が売れないことは何としてでも避けるべきだと考えているらしい。事を起こしてしまった私たちバイトがあまりに多くても、レジを止めるのはコンビニの意義に反する、と言っているようにも取れる。それも一つの考え方だろうか。

「ですが、期間限定と言えど、あんな奇妙なレジを野放しにしておく、というのは、お客さんを危険にさらすのを黙認した、と解釈されても、おかしくないですよ」

「もちろんそれもそう。塩さんの言う通りよ。とはいえ、今のところこれに代わる案がないしね。他の方法があれば、あたしもそれに賛成したいところなんだけど」

 店長は悩ましげにむっと黙って深呼吸をした。煙草で汚れた空気にむせて、大仰にごほごほ咳き込む。

「大丈夫ですか」

「大丈夫。平気よ」

 胸を片手で押え、ハエを払うようないつもの手つきを見せる。時々眉をしかめて本当に辛そうな表情をするため、こちらとしても案じずにはいられなくなる。が、言葉どおりにすぐに姿勢を戻し、再度こちらに向き直った。

「まあとにかく。これからの方針としては、とりあえず様子見ってところね。従業員には、なるべくレジを打つ時に正確な客層ボタンを押すよう心がけてもらうため、今日の深夜さんに引き継ぎで、お客さんの顔の確認の徹底を回してもらうわ。これで根本的な問題が解決されるとは思ってないけど、今日頼んだ新しいレジが来るまでの、二週間の辛抱だと思って」

 にっこりとほほ笑みを浮かべると、肉付きがよく角ばった顎の骨格が顕わになる。堀の深い端正な顔に釣り上がった眉が、店長の男性的でありながらも気品のある顔をより印象付ける。私は、そうですね、と笑って返して、席を立った。明日の業務に差し支えてはまずいので、と言い残し、退勤の挨拶をして店を出た。

 帰り際はずっと、客層ボタンのことを考えていた。あれを押し間違えるだけでお客さんに迷惑がかかると思うと、気が気ではなかった。何よりも、これで店に来るお客さんが減ってしまうのではないかという懸念が、少なからずあると思った。その場合の責任は、客層ボタンを押し間違えた店員にあるのか、それとも、あんな状態のレジを野放しにしておく店長にあるのか。

 いずれにしても、店ぐるみでお客さんに迷惑をかけている、というのは間違いないか、と思いながらその日は床に付き、泥のように眠った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ