バックヤード:午後10時
「塩さん、ちょっといらっしゃい」
夕方シフトを終えた午後十時。店長に呼び出されて、私はバックルームの事務机の椅子に腰を下ろした。煙草が許されているバックルームの空気はいつでも淀んでいて、入ると肺が汚い空気に汚染されて行くような気分になる。事務室がこんな状態でお客さんからクレームが来ないのが不思議だが、店長曰く、ちゃんと管理すれば大丈夫、とのことで通っている。
「いやあ、もう。今日も煙草臭いわねえ」
とはいえ、その店長も煙草は吸わない。許しているのは、一部の喫煙する従業員のためらしい。文句を言うくらいなら禁止にしては? と毎度思うのだが、店長は目の前の煙を払うような手つきで「ああ、いいのいいの」と手をぱたぱた動かすばかりで、今後禁煙にする予定もないらしい。
「それで、呼ばれた理由はわかってるでしょうね」
椅子に座るなり、店長は単刀直入に切り出した。まるで私を尋問するかのような口調だった。私は、店長の優しいながらも勇ましい口調と足を組んだ巨体に圧倒されながらも、はい、と素直に答えた。
「レジの件ですよね。お客さんからクレーム来ましたか」
「ええ、もう、これでもかってくらい大量に」
「でしょうね……しかし不思議な現象ですよ。聞いたこともないし、そんな、魔法か何かじゃあるまいし」
ふむ、と店長は顎に手を当てて鼻息を漏らした。剃り残しすら見えないまでに整えられた髭跡を確かめるように、指で何度か顎骨をなぞる。店長は男性なのに女性のように身なりに気を使っていて、口調や仕草は完全に女そのものだ。ただ、見た目がプロレスラーのようにがっしりと逞しいので、一見するとそれらと体とのギャップが凄まじい。
「すみません、店長。明日午前の発注なんですが」
後ろから今日の夕方シフトの相方である益田さんがひょこっと顔を出した。益田さんは私よりも二つ年上のこの店の先輩だ。
「あ、塩さん。ごめん、お取り込み中?」
「大丈夫ですよ。どうしました?」
話が頓挫しそうなところを、助けられたように益田さんを見た。
「いや、店長にね。発注を頼もうと思ってたんです。明日の午前は、ちょっと用事がありましてね。出られないんで」
益田さんは言葉を一つ一つ区切るように発音しながら「お願いします」と店長に発注リストを渡した。店長はノリのよい笑顔でそれを受け取り、載せられている商品にざっと目を通す。
「あらあ、明日の発注で新商品のフルーツ・クリーム・モンブランが入ってくるのねえ。楽しみだわあ」
家にいる主婦が通販の番組でいい品を見つけたときと似た歓喜の声で楽しげに一人盛り上がる店長。顔の前で平手を合わせて、花が咲いたような笑みを浮かべている。傍らで、益田さんがうへえ、と辟易して舌を出した。
「店長相変わらず甘いもの好きですね。酒とかたばこじゃなくてクリームモンブランに喜ぶ三十代のおっさんがどこにいるんです」
いい年して女子高生ですか貴方は、と益田さんが呆れ気味に両手を上にあげる。店長はむっとして発注リストを机の上においた。
「あら、失礼しちゃう。そんなこと言ったら明日の発注変わってあげないんだから。それに、クリームモンブランじゃなくて、フルーツ・クリーム・モンブラン、よ。クリームモンブランなんてどこにだってあるでしょう。これはね、モンブランにクリームという当たり前の組み合わせの中にフルーツをあえて使用すると言う禁忌を犯してまで、味わいを追求した究極のデザートなのよ? そんじょそこらのこじゃれた店のモンブランなんかと一緒にしないでちょうだい」
「そんなもの、コンビニで売る方が間違ってる気が」
怒涛の勢いで喰ってかかる店長に、益田さんが至極まっとうな意見で返す。だが店長は止まらない。
「いいえ! いずれにしても商品名を間違えるなんて言語道断。この店の店員としてあるまじきだわ。それに新商品に期待しちゃうのは誰だって同じでしょ。あなただって、この間、パソコンの前で新商品チェックしながら『ああ、新しい仮面ライダーの食頑出るのかー』なんて大喜びしてたじゃないの」
「う、何故それを」
「え、益田さんってライダーのファンだったんですか」
「ライダーって略すな! そこら辺にいるバイク乗りとか某型月のキャラに勘違いされるだろうが」
「あ、いえ、ここ店内なんですけど」
そして仮面ライダーをライダーって略している人はあなたの思っている以上に世の中にたくさんいると思います、益田さん。
「とにかく、あたしはクリーム・フルーツ・モンブランに大きな期待を寄せているわよ。これは少しでもおいしいデザートを求めて商品開発に打ち込んでいる本社の方々の贈り物よ。モンブランにフルーツって組み合わせも、話題性に事欠かない一品だと思わない? それに益田さんのいうようなモンブランに期待する三十代おっさんならちゃんとここにいるじゃないの。ここにいるってことは、似たような人もきっと世の中にはいるはずだわ。ねえ? 塩さん。そう思わない?」
「え? ……あ、はい」
「んー、さすが塩さん。あたしの言いたいことよく分かってるじゃない。それでこそうちの店員よ」
しまった。店長の迫力と物言いに押されて何となく頷いてしまった。褒められたが嬉しい以前に嫌な予感しかしない。
「これはもう当店のオススメポップ作るしかないわよ。『新商品! 新食感! 店長オススメ! フルーツ・クリーム・モンブラン』と大きく見出しを付けて、楽しげな感じにしましょう!」
勝手に盛り上がり続ける店長は、発注のリストをそのままにして、そうと決まれば早速準備しなくちゃね、発注は明日だし、と意欲のわいた小学生もかくやという足取りで文房具と厚紙を取りに向かった。ポップを作り始めるとなるとかなり長い時間が必要になってしまう。私は明日も早朝シフトがあるので、出来たらこの辺りでお暇したいところだ。
「店長、そろそろ、私はこれで」
「え、塩さん帰っちゃうの? 一緒にポップ作らないの?」
退勤を告げようと鞄を持った私に店長がさも私もポップを作るのだと思っていた、というような言い草で迫る。私はぴたりと動きを止めて店長を諫めようと作り笑いを浮かべる。
「明日の早朝もシフト入っておりますので。遅れたら困るのは、お店の方じゃありませんか」
「ええ、それなら一緒にここで一晩明かしましょうよ。寝ちゃったらあたしが起こしてあげるわ」
「ははは、そんな。御冗談を」
まるでウラカミさんに対峙している時のように、店長に乾いた笑いを向けるが、店長は冗談じゃないわよ、と逆に男性にはそぐわない極上の接客スマイルを私に返してくれた。まずい、もう逃げられないかもしれない。
咄嗟に益田さんに助けを求めようとしたが、益田さんは地面に手をついて土下座でもしてしまいそうなテンションで「仮面ライダーをライダーと略す塩さんでさえ店員扱いされているというのに、モンブランの商品名間違えたくらいで店員扱いされなくなってしまった自分は……」と呟いていて、私の方に向いてすらくれなかった。いやいや、益田さん。前後関係の脈絡が意味不明です。
「店長」
「ん?」
こちらこそ冗談じゃないです、と言おうとしたが、その言葉はお客さんに対してでもないのに接客スマイルを向けている彼の巨体にひるんで咽喉に絡み、寸前のところで留まった。
「……分かりました。ラミネーター取ってきます」
「あら、ありがとう」
代わりに出てきたのは自分でも思いがけない意欲的で素直な作業参加意思表明だった。バックルームの大型文房具置き場の深くで眠っている、段ボール箱にきちんと詰められているラミネーターを引っ張り出す。シートは確か、箱の中に入っていたはずだ。ポップを作る時にしか使ってなかったから、まだいくらか余っていたと思う。
時計を見ると、もう午後十一時を回っていた。たった一つの商品だから制作に大した時間はかからないかもしれないが、店長の気合の入れ方を見たところだと絵を描き始めたらかなりこだわりそうに思えた。納得のいくものを作るまで帰してくれないかもしれない。あの言い草だと、下手したら今夜は徹夜なんてことも、簡単に想像できる。
私はバイトにしては重いサービス残業にため息をつきながらラミネーターを店長の元へと運んだ。先ほどまでいた場所に戻ると、益田さんがまだ「自分は使えない」だの「いや一応、塩さんよりこの店での経験も長いはずだし、年齢だって上じゃないか」などと、何やらぶつぶつ言っていた。どうやらこれは再起不能のようだ。もう帰ってしまってはいかがでしょうかと、声を掛けたいのは山々だったが、下手に言葉をかけて皮肉と受け取られ、益田さんのプライドを傷つけてしまうと、それはそれで困るので、とりあえずそっとしておくことにした。ラミネーターを机の前に置く。どすん、と重たい音がした。
ところで私はポップを作るために店長に呼ばれたわけではなかったはずだったが、さて、本当の目的は何だっただろうか。