263円:男性:二十代
客層ボタンを押し間違えるとお客さんの姿が変わってしまう、この奇妙な事故が最初に起きたのは、数日前の早朝だった。
私はその日も早朝のシフトに入り、いつものようにウラカミさんの相手をしていた。ウラカミさんはよたよたとした足つきの、七十代くらいのご老体だった。頭の毛はすっかり抜け切ってつるつるになってしまっていて、病気にでも罹っているのか、腰が曲がり、杖をついて歩いていた。その日もいつもと同じように七時半にやってきては、お好み焼きパンと、スプライトの復刻版と、ザ・チーズバーガー、そしてマイルドセブンの八ミリショートボックスが二つを買って、会計をしようとしていたところだった。
だがお金を預かり、客層ボタンを押そうとした際、私は誤って手を滑らせて水色の50を押すはずが、水色の29を押してしまった。しまった、と思ってはいたが、そのときはああ、またいつもの押し間違いだ、としか思わなかった。
しかし商品を詰めた袋をウラカミさんに渡そうと顔をあげた時だった。そこにいたはずの、頭がつるつるで、腰がほぼ直角に曲がったご老人の姿はなぜかどこにも見当たらず、その代わりに私より高身長の、顔に皺一つない、女子高校生が見ればイケメンと騒ぎ立てそうな大学生くらいの男性が忽然と現れたのだった。
私は一瞬、目にもとまらぬ速さでウラカミさんが商品を持たずにレジから去ってしまったのかと思ったが、あのよたよたとした足取りで、しかも杖を持って歩いていた彼がそんなことが出来るはずはない、とその考えを即座に否定した。代わりに思い浮かんだのは、目の前の成人男性が、実はウラカミさんの孫か何かなのではないか、というまだ現実的な発想だった。しかし、今までウラカミさんはこの店に一人で来ていて、今日に限って孫を連れてくるなんてことはありえないだろう、しかもこの男性はつい先ほどまでは店の中にいなかったではないか、と思うと、その考えもあっさりと打ち消された。
では、この男性は一体何者か。目の前にある袋の中身を見るべく、私は男性の手から膨らんだレジ袋を拝借した。
「ちょっと、失礼させていただいても宜しいですか」
「ああ?」
男性は不機嫌そうに眉をしかめたが、そんなことを言っている場合ではなかった。袋をこじ開け、その中身を確かめる。
お好み焼きパン、スプライトの復刻版、ザ・チーズバーガー、そしてマイルドセブンの八ミリショートボックスが二つ。間違いなく、ウラカミさんのいつもの商品だった。
「あの、大変失礼なことをお尋ねするのですが、お客様はウラカミさんですか?」
「ああ? さっきから店員さんは何をいっとるね。おかしな人だよ。何で今、目の前にいる客の顔を覚えてないん」
そういうあなたは毎日私の名前の漢字を聞いてくるじゃないですか、と皮肉の利いた冗談を言う暇もなかった。ウラカミさんのその返答は、揶揄するようではあったが、確かに「自分はウラカミです」と言っているに違いなかったのである。喋り方、買っている商品、突然現れる成人男性、これらのことから推測すると、この謎めいた現象は、実に非現実的な想像によってしか説明できない。
つまり。先ほど、私は客層ボタンを押し間違えた。この男性は、ボタンを押し間違えたことで、ウラカミさんが若返った姿である。
その日、ウラカミさんは私が掛け持ちしている夕方シフトの時間帯にもう一度店を訪れた。正しく言うと、見慣れた七十代のウラカミさんではなく、ボタンを押し間違えて二十代に若返ったウラカミさんが、朝と全く同じ商品を籠に入れて、私のレジへとやってきたのだった。見慣れない姿にウラカミさんだと気が付かず、私は黙々とレジを打ち始めていたのだが、商品を見てようやくウラカミさんだと気付いて顔を上げると、何やら洒落た格好をした成人男性は、「老獪な笑み」を浮かべて私に恭しくお辞儀をしていたのだった。
「店員さんよ、こりゃあ一体どういうことなのかね。鏡を見たら、三十年くらい前の自分に戻ってるし、家に帰ったら女房に驚かれるしで、訳が分からなくてねえ」
訳が分からないのはこっちだ、と思いながらも、私は「さあ……当方でもさっぱりです」と答えた。ウラカミさんはその返答にむっとしながらも、まあこんなことはそっちにも分からんよな、と言って、煙草を買って店を後にしたのだった。
怒られなくてよかった、と思う気持ち一方と、結局あの人はウラカミさんでよかったんだよな、と思う気持ち半分で、彼のまっすぐな背中が出て行ったコンビニの自動ドアを、私は何となく目で追った。
「はい、いらっしゃいませ」
別の仕事に移る暇もなく、直後にお客さんがレジにやってきた。いつもの通り、声をかけ、バーコードをスキャン、商品をレジ袋に詰めて、失礼します、と差し出す。
「お会計が、二六三円になります」
お客さんがお金を出し、それをレジ台で滑らせて回収し、客層ボタンを押す。一番押しやすい位置にある49のボタン。煙草を一緒に販売するときにも、未成年のボタンを押してしまっては販売できないので、お客さんが何歳だかわかりにくいときは、よく押す。それをやはり手を滑らせるようにして軽くプッシュした。
お客さんは急激に髭が伸び、それまでの瑞々しい肉体が突如、骨太でがっしりした体躯へと変貌した。
間違えた、今のお客さんは二十代だったのだ。ありがとうございました、と客層ボタンで変身させてしまったお客さんを見ながら、不思議なレジに内心慌てるしかなかった。