先行列車
霞がかった先の見えぬ道を少女は歩いていた。彼女の視線は下を向き、瞳は曇っている。そして、見ている光景は薄暗かった。表情は悲しそうであり、苦しそうであり、辛そうであった。負の感情が混ざり合い、せめぎ合い、荒れ狂う……今にも心から溢れ出し、少女の身体を深淵へ導こうとしている。その終着点は誰の手も届かぬ、光も存在せぬ死だ。
少女は気づかぬうちにどこかの建物に入っていた。目的もなく霞がかった道を歩いていたはずだが、視線を上げると間違いなく通路である。しかし、彼女はそのまま歩き続けることにした。どこかの建物に入っているということなど、彼女にとってはどうでもよいことだった。通路も霧がかかって先が見えづらかったが、霧は少し晴れてきたようだ。通路の全体像がわかるようになってきている。
(……大きな駅だ)
少女は自分が歩いているのが駅の通路だとわかった。
誰もいない。
客も駅員も一人もいない。構内アナウンスもない。電光掲示板もない。
そして、乗り場案内もなかった。
少女は誰もいない構内を歩き続けた。広い駅だった。
音も色もない静かな世界。
少女はこの駅に見覚えがない。だが、引き返す気にはならなかった。そのまま階段を下りホームへ出る。辺り一面霧の世界だったが、目の前に光が見えた。それは、列車のライトだ。少女はその列車に近づいていく。列車には行先が表示されていなかったが、彼女は列車に乗り込んだ。車内扉が開く。やはり、誰も乗ってはいない。乗客は彼女だけ。通路を進み、車内真ん中ぐらいの座席に座った。
窓には水滴がたくさんついている。と、列車が進み始めた。まるで、彼女が席に座るのが合図だったかのように。そして、車内は恐ろしい程静寂に包まれている。
動き始めた車内の中、少女は水滴がついている窓をじっと見つめていた。
(毎日、牢獄だ)
少女は考える。
(私は何者なのか?未来?幸せ?努力?義務?使命?勇気?夢?)
あらゆる言葉が彼女を翻弄し疲弊させ、傷つけていく。毎日毎日、来る日も来る日も。
(重い、重い……)
身体が、視線が下へ下へと落ちることになる。
あらゆる言葉が少女を縛り付け、もがけばもがく程複雑に絡み合い、重くなっていく。身動きできなくっていく。
少女は朝、起きたくなかった。眠っている時間が何も感じないからだ。だから、永遠に眠っていたいとしばしば思う。起きた後、彼女は憂鬱だった。朝食のトーストとは裏腹に、両親は凍てついて見えた。私のせいだ、と少女は思っていた。彼女には何の特技もなかったし、他人より優れているものもなかった。学力も身体能力も決していいわけではなかった。学校へいけば、少女はため息が出た。クラス内に頭が良くて、運動神経抜群のすごい子がいたからだ。文字通り、現実離れしていた。その子の才能が少女はうらやましかった。何度も何度も自分は駄目なんだと思った。現実だった。
車内の窓の水滴は依然として、外の景色を隠していた。
と、前の通路の扉が開いた。少女が視線を向けると、そこには若い女の人が立っており、そして微笑みながら通路を歩いてくる。
「向かい側いい?」
と女の人は少女に尋ねた。その人は少女から見て大学生くらいに見える。
「はい」
女の人は少女の向かい側に座った。少女とその人の雰囲気は全く異なっている。対照的だ。それは他の人から見てもわかる。しかし、少女から見てその人はどこかで会ったことがあるような、そんな感じがした。
「何か悩み事?そんな顔しているよ」
その人は少女を見て優しく尋ねてきた。優しくではあったが、同時に真剣だということも少女に伝わっていた。車内は二人の空間だった。
「はい」
少女の返事は自然と口から出ていた。少女自身驚いていた。言葉が出たことに。さっきまで他人と話す気分ではなかった。いや、そもそも少女は小心者であり、大人に話かけることも相談することもなかった。少女が大人嫌いというのもあるが。
「私に話してみて。力になれると思う」
「……私、自分が嫌いなんです。頭も良くないし、運動も苦手で。それに特技もないし。親はそんな私を嫌っていると思うんです」
誰にも言ったことがない心の内を少女は吐き出した。そして、彼女の言葉を聞いていた女の人の口が開く。
「誰でも一度は思うことだよ。私でもそうだったし。それに、私も君と同じ年のとき、勉強も運動もできなかったよ。特技もなかった。クラスには勉強も運動も何でもできる子がいて……そして、君と全く同じことを思っていたよ、何もできない自分を親が嫌っているんじゃないかって。でもね、それは間違いなの。自分の子供が嫌いな親は、本来この世界にいないの。君が感じている悩み、苦しみ、辛さは、お母さんもお父さんもみんな経験してきているから。君が悩んでいることは君一人で解決しないこともある。だから、誰かを頼りなさい。まあ、今は私を頼ってくれてうれしいよ。だって、君は今の今まで、抱えていた悩みを誰にも言ってないでしょ?一人で抱えることはできないよ。抱えていたら、どんどん大きくなっていくからね。早めに誰かに言わないと駄目だよ。誰かに悩みを話して聞いてもらうだけでも、心は軽くなるから」
少女はうなずいた。女の人の言う通り、今まで溜めてきたことを吐き出してみたら、心が少し軽くなっていた。
車内の窓の水滴は流れ落ちていった。外の霧も晴れてきた。
「勉強も運動も完璧にできる必要はないの。できることに越したことはないのだけれど、みんな同じわけじゃない。みんながみんな、テストで満点とるわけじゃないし、みんながみんな走って一番をとれるわけじゃない。先生だって、お母さんだって、お父さんだって、たぶんテストで毎回、満点とっているはずがないよ。体育だってそう。だから、君は心配しなくていい。君は君ができるところまででいい。君は君だから。だけど、努力をしないっていうのは駄目だからね。勉強も運動も自分ができるところまで頑張る。そこが大事」
「あの、お姉さんは、勉強とかで後悔したことはないんですか?」
少女は、この人に妙な親近感を覚えた。
「実はね、勉強で後悔したことがあるの。君にはまだ先の話だけど、受験でね。知っているでしょ、受験。私が一番行きたいと思っていた学校には行けなかったの。そのとき、どうして私は駄目だったんだろう、何がいけなかったのだろうって思いながら、泣いたよ。でも、そのおかげで今いる大切な友達、頼りになる友達にたくさん出会えて、今では受験に失敗したこと以上に、楽しいことがあったし、自分のやりたいことも見つかった。だから、私は思うの。あのとき受験に失敗することに意味があったってね。君も生きていて、間違った……失敗したってことがあるかもしれないけど、実は間違っていないかもしれない。意味ないことなんてない。正しい道かもしれないって、考えるようにしてみて」
(この人の言葉は、忘れてはいけない言葉だ)
少女は心で強く感じた。少女の瞳は、女の人の瞳をしっかり見ていた。
「あ、二十番目の駅。私、ここで降りるね。これから先、君は自分ひとりで頑張る必要はないからね。それじゃあね」
窓の外は確かに駅らしかった。そして、女の人は列車を降りた。少女が窓を見ると、降りた若い女の人が少女に向かって手を振っている。彼女も手を振り返した。そして、列車は動き始めた。
また、車内は少女だけになった。窓の水滴は少し残っていたが、外の景色は見ることができた。外は森だ。と、前の通路扉が再び開いた。少女は誰も車内にはいないと思っていたので驚き、すぐに視線を移す。そこにいたのは、さっき駅で別れた女の人より年上の女性だ。その人は少女の方へゆっくりと歩いてきて、
「向かい側いいですか?」
と尋ねてきた。少女は
「どうぞ」
女の人を見た。この女の人も、少女は知っているような気がした。やはり、なぜなのかはわからない。だが、さっき別れた若い女の人に若干、雰囲気や姿が似ているような感じがした。
「あなた、まだまだ若いのに、そんな顔をしちゃって。何を悩んでいるの?私に話してみない?」
向かい側の女の人は、こう少女に尋ねてきた。
女の人の年齢は少女から見て、苦手な大人の年齢範囲だった。彼女は大人が嫌いだ。言うこととやっていることが違う大人が。彼女から見て、大人は本当に頼りにできるかどうかわからない、蜃気楼だった。毎日のように聞いてしまう事故・犯罪。時には信頼できるはずの大人である警察管や学校の先生まで捕まってしまう世の中だった。
お金、お金、お金……お金のために犯罪が多いこともわかっていた。お金が舞って、命が散るのだ。大人になると、その世界に入らなければ、踏み込まなければならないことを、彼女は避けたかった。大人にはなりたくなかった。だけど、時間は刻々と過ぎていく……彼女が止まれ、と願っても決して時間は止まらなかった。
「あの、大人は本当に大人なんですか?」
少女の口は自然と開いた。しかし、今回は意志だった。少女の瞳には目の前の女の人が映っている。彼女は少女の漠然とした質問に対して、驚いてはいないようだった。
「んー、それは、あなたの質問通りよ。大人の人もいるし、そうじゃない人もいるのよ。つまり、大人の姿をした子供もいるの。困ったものなのよね。あなたが大人を嫌いなのは、言っていることとやっていることが違うところ。仕事をきちんとできないところ。できないことを他人に押し付けるところでしょ?」
「どうして、言いたいことがわかったんですか?私、何も言っていないのに……」
少女は、心の中でいつも思っていた大人に対する不満と不信感を全部当てられたことに驚いていた。と同時に、この人は味方だとも思った。
「だって、私もあなたぐらい若かったときに同じことを思っていたんですもの。そんな大人の世界に入りたくない。そんな大人になりたくないって。まあ今では、その大人になっちゃったけどね。この年になっても、大人が嫌いになることがあるのはしょうがないわね。みんな違う考えや生き方をしてきているだけではなく、自分を見失う大人も多いの。自分を見失うのは大人だけではないから、あなたも気をつけてね。友達をたくさん作ることは悪いことではないのだけれども、中には悪い人もいる。あなたの未来を壊そうとする。そういう人には近づいては駄目よ。たとえ、友達だとしても。それは、本当の友達ではないわ。大人はみんながみんな、確かにちゃんとしているわけではない。責任をもたない大人は大人であるはずがない。正直者が馬鹿をみることもあるのよ」
「正直者が馬鹿を見る……」
「でもね、ちゃんと頑張っている大人の方が多いの。心配しないで。それに、もしあなたが戦おうとするのなら、きっと、あなたにとって大切な人たちが助けてくれる。それは間違いないのよ。世界はあなた一人で変えることはできない。でも、変えることができることもある。そのときが来たら、あきらめては駄目。それと、あなたは大人が嫌いかもしれないけど、大人になるのよ。逃げることはできないの。だから、自分が嫌いな大人にはなっては駄目よ。自分が好きな大人になりなさい。あなたが思う大人の姿に」
「わかりました」
窓の外は広い草原だ。青々とした緑の若草が風になびいている。
列車の速度は落ちてきた。駅のようだ。
(もう、お別れかな……この人は素敵な人だな)
少女は大人になるのなら、この人になろうと思った。
「四十番目の駅に着いたみたいね。どうやら、ここで時間切れ。お先に失礼。それでは」
女の人はそう言って列車から降りた。窓はすっかり綺麗になっている。おかげで、こちらに女の人が手を振っているのがはっきり見えた。少女も窓越しから手を振った。
ちょっとして、列車が動き始めた。少女は窓を見ていた。霧がかかっていた最初の灰色の世界に比べると別世界のような感じだった。色がまぶしい。しばらくすると、海が見えてきた。水平線までは見えなかったけれど、広大な海は絶景だった。少女は窓に詰め寄り外を眺める。
(海はやっぱり広いんだ)
彼女は海が見えなくなると席に座り直した。また、森の中だ。列車がどこへ向かっているのかは、少女にはわからない。と、前の通路の扉が開く。景色に気をとられていた少女は少し驚いた。見てみるとお婆さんがこちらにやってきている。少女は手伝おうと席を立とうとしたが、「そのままでいいのよ。私、向かい側に座らしてもらうから」そう言ってお婆さんは、少女の向かい側に座った。お婆さんの言葉ははっきりしていた。少女はお婆さんが穏やかな表情を浮かべているのを見て微笑み返した。
「人に話を聞いてもらったり、話をしたりするのはいい時間でしょう」
お婆さんは少女に語りかけた。
「はい、本当にいい時間です」
少女もはっきりと、お婆さんに聞こえるように答えた。その言葉にうそはなかった。
「そう、よかった。私ももうお婆さんだけれども、話を聞いたり、話をしたりするのは大好きなの。楽しい話、悲しい話、苦しい話色々あるけれど。でも、話すことも、聞くことも大事なこと。私は、もう長いこと生きたから、先は長くはないけれど、生まれてきてよかったと思っている。あなたは、まだまだ先の道のりは長い。苦しいこと、辛いこと、悲しいこともたくさんある。だけど、楽しいことも、素敵なこともある。恐れないで。最後に笑えたら勝ちよ。だから、私は勝ち組ね」
少女から見て、お婆さんはとても輝いているように見えた。いや、間違いなく輝いていた。
「あなたも、最後にはきっと笑える。だって、私がいるもの。心配はいらないわ。私が若いとき、色々と失敗してきたけど、でも、その失敗が私を育ててくれた。今、笑っていられるのもそのおかげね。そして、素敵な人とめぐり会えた。まあ、お互いにぶつかり合うこともあったけど、やっぱり互いを信じていけたのよ。今の世で、そういう人に会えたのは幸せなことだと思っているの。あなたも、自分の幸せを見つけなさい。幸せは自分でつかむもの。チャンスをつかまえるのよ」
少女は理解した。心に留めておくべきことは何かを。生きていく上で必要なものを。自分を見失わないための道具を。
「ほら、外を見てみなさい。綺麗ねえ」
お婆さんにそう言われて、少女が窓を見ると宇宙が広がっていた。広大な暗黒の海に、きらきらと自分を輝かす星々。青、赤、白、茶、黄、紫……大きさも色も全部違った。少女の口は感動と驚きで閉まらなかった。少女の心が宇宙で満たされていく。闇に輝く星は一段と美しかった。圧倒的だった。彼女の悩みなど小さく思えてきた。と、列車はトンネルに入り、景色は森に戻った。
「とても綺麗だった。一生忘れないよ」
少女はお婆さんに言った。お婆さんは嬉しそうに笑っている。
「そう、よかった。もうお別れみたいね」
どうやら、次の駅のようだ。列車の速度は段々と落ちている。
「あなたは降りて列車を乗り換えなさい。私と終点まで行く必要はない。あなたはあなたの道を行かなければならない」
少女はお婆さんの言う通り、列車から降りることにした。そう、戻らなくてはならない。列車が止まると少女はお婆さんに向かっておじぎをし、そのまま列車から降りた。ホームを見渡すと反対向きの列車がある。少女は振り返り、窓に見えるお婆さんに向かって大きく手を振った。窓越しから、お婆さんも手を振っていた。列車は動き出したが、少女はずっと手を振り続けた。列車が見えなくなるまで。そして、見えなくなった後も彼女はしばらくの間振り続けていた。
(私も帰らなくちゃ)
彼女は帰りの列車に乗り込んだ。その広い車内の乗客は少女一人だけ。しかし、彼女は少しも寂しくなかった。彼女の列車は太陽に照らされ、窓から見える海は水平線の彼方まで見ることができた。
「ありがとう、私」
少女は、一言つぶやいた。