二億九千万年と、少し
私は目を覚ました。
覚醒、浮上、自己認識。そんな言葉も続いて浮かんだ。近いようで遠いようで、やはり近いところでしゅりしゅり、という音がしている。わずかに触角が痙攣した。何とも言い難い違和感があったが、その原因を突き止めるよりも先に、視覚情報の整理が優先された。私を中心として、真っ白な図面に周囲の状況が急速に描かれていく。
厚手のガラス越しに、人間の子どもが私を見上げていた。ぺたりとガラスに密着した、子どものやわらかそうな掌に視線がいく。私の腕の細い棘でも容易に貫けそうだ。
子どもの口がわずかに動いた。健康的すぎてかえって毒々しいような赤くなめらかな唇から、不釣り合いな言葉が漏れる。
『正常覚醒確認、グリーングリーン。これより、意思疎通テストに入ります』
仰々しく室内を見回す子どもの顔はマイクから遠のいて、降り注ぐスピーカー越しの声には波が生まれていた。だが、室内には他の人間の姿はない。
スピーカーを見上げてみたが、室内灯が眩しいのですぐにやめた。視線を下ろせば子どもの腕よりもよっぽど太い枝木が組まれているのが見えた。そのうち一本の先端に、私は翅を左右に開いたまま鎮座しているのであった。とまり心地を確かめるために六本の肢を動かして居住まいを正してみるが、木肌のお行儀の良さがどうにもしっくりこない。てかてかと輝くケミクリートの床の上に生み出された自然にぞっとしないでもなかった。
子どもは私に、言葉を理解できているのであれば右手を挙げろと指示を出した。右手、というのは恐らく、胸部から伸びる肢のうちの右前肢を指すのであろう。素直に従うと、子どもは目を輝かせ、誇らしげな表情をした。私にはわかっているのであった。ガラスもマイクもスピーカーも、人工植物とケミクリートも、人間には手と足とがあってそれが四本で、私には肢が六本あって人間とは違う種であるということも。これまで一度たりとも見たことがないものを知っているというのは奇妙な話だ。しかし、慣れ親しんだもののように知識が次々と提供されるのだから仕方がない。
『意思疎通確認、グリーングリーン』
一人、子どもが宣言する。まだ物足りないと、そわそわ落ち着かない様子であったが、ややあって子どもはわざとらしくこほんと咳ばらいを一つした。本題に入ろう、と眉をきりりと持ち上げる。
明白に誰かの言葉を借りて子どもが語ったのは、地球環境の現状についてであった。ここは私が生きていた時代の、およそ三億年後の未来にあたるのだと言う。私の頭には、とある装置が埋めこまれていた。子どもが構想し開発したもので、それにより私は人間並みの思考能力と知識を得ているらしかった。違和の正体を、子どもが手品の種明かしをするように生き生きと語って、私はそれに妙に納得していた。
『タイムマシンによって過去に干渉し、それが未来にどのような影響を与えるかを調査することを、未来環境アセスメントというわけだが』
これにより昆虫類の多くは取捨されることが決まり、と句点のない子どもの暗唱は続く。
地球環境は、緩やかに、しかし確実に悪化していた。資源を地球上の生物が等しく享受することが難しくなった。それを苦だとして、資源に対して独占的になっていったのが人類であった。人類にとってより良い世界であることに執着した人々は『過去』に目をつけた。丁度タイムマシンが開発された元年に、記録的な異常気象が続いたことにも一因がある。
過去を改変し未来を変える。それが、人類が快適に生きるための手段であるとされた。そうして人類に不必要なものを根本から消し去る過去改変、歴史の修正が行われるようになったのである。永らく虫害に悩まされていた食物の生産において、外敵の消失は飛躍的な進歩に繋がった。
過去の人的操作にデメリットがなかったわけではない。しかし人類には、それをも凌駕する科学の力が存在していた。未来環境アセスメントは、大きなデメリットが発生しないために徹底して行われているのであった。
人間のためだけの、究極的な世界の再構築。やがてその基準は人間の快と不快をも併合するようになる。人が生きるために必要なため、ではなく、人が生きる上で不必要なために排除するのだ。人類の排他的創造によって、多くの昆虫が消滅の危機に瀕していた。
体の大きさこそ、四分の一ほどに小さくなっているようだが、我々の子孫として三億年後にも生き続けている昆虫は存在する。頭部の左右に突き出た複眼と小さな単眼三つに短い触角を持ち、鋭い顎や二対の長大な翅を有する昆虫、トンボ。そのトンボが、人類に不必要であると見なされたのであった。そうして私は今ここにいる。祖である私がもたらす影響を調査するため、アセスメントの一環として捕らえられている。
だが、この子どもの思いはやや異なるようであった。
『……ぼくはこの計画には無理があると思うんだ。矛盾だってたくさんあるし、他の生き物を研究することで得たものもたくさんあるもの。それを捨てちゃおうなんて、大人たちはおかしいよ』
それに、ちょっと怖い、と子どもは私から目を逸らした。その幼い響きのある一言が、もっともこの子どもの本心に近い言葉なのだと、私には理解できた。それもすぐに、誰かを真似たような大仰な素振りで掻き消される。
『さぁ、きみはぼくの作った頭脳を持って、過去へ帰るんだ。昆虫が知的生命体だとわかれば、その有用性を大人たちは認めるはずだよ』
子どもは私を、タイムマシンに乗せて過去へと送り返した。約三億年分の大きな矛盾を頭に詰めこんで、私は過去の地へと降り立つ。
それから、二億九千万年と、少しの時が立った。
世界は、巨大な翅脈を持つ者が支配している。人類は愚かだったのだ。自ら、一時的な支配権を得るという夢さえ捨て去ってしまった。選定される身でありながら、他者を選定しようなどと考える愚かな者は、観察するにも値しない。その結論を未来より送りこんだのであった。
私は落胆の色が隠せないのであった。子どもの装置はすぐに頭から捥ぎ取って捨てた。昆虫に、人間並みの知能を与えてどうしようというのか。人間程度の知能など。
人類は知らないのだ。この地球上でもっとも優れた知的生命体が何であるかということを。そしてそれらが、どれほど長く生き永らえながら、下位生命体を観察し続けているのかということを。
短い文章量でどれだけ世界を広げられるか、という挑戦の作品になりました。
設定や世界観をいろいろと考えるのは好きだけれど、それを生かせるような作品を書くにはまだまだ実力が不足しています……(^^;
今回は課題制作でしたが、他にも個人でも短編に挑戦していきます!