其ノ七
島津又四郎義弘がその女性に初めて出逢ったのは、もう二十年近く昔のことであったと言う。
ときは弘治三年(一五五七年)の春、南九州三国統一を目指す島津家は、大隅蒲生氏の支城、北村城を陥落させた。義弘二十二歳である。三年前、岩剣城の合戦において初陣を果たした義弘は、この北村城合戦で初めて首級を挙げた。自身も重傷を負う激戦の果てである。
身に五本矢を受けたと言う義弘であったが、尋常ならざる身の内に漲る精力は衰えを知らず、黙々と犬や猪など獣の肉を喰い、いくさ場で喰うのと同じ麦入りの強飯を平らげ、傷を養っていた。担ぎ込まれた若殿が高熱を発したとて、これ幸いにと地の神官、坊主たちは平癒の祈祷を願い出たが、
「無礼もンがッ!おはんはこンおいが、死ぬと思うちょるとか」
と、そのたび本人は血気の形相で威嚇し、粗方はほうほうの体で退散した。義弘はふてぶてしい生命力で肉の吹きだした傷口もみるみる快癒させたが、ある日に訪れた不思議な装束の巫女が、義弘が浴びせた啖呵に悪びれもせず言いかえすのには怒るのを通り越して、思わず呆れた。
「ええ、若殿は、早いうちにお亡くなりになりましょう」
妙震姫と名乗った渡り巫女は、はっきりと言い切ったのだ。義弘の佩刀に魔を忍ばせようと狙う何者かがいるのだと言う。
「おはん、そいは正気で言うちょッとか」
恐ろしい形相で刀の鞘を払った義弘に対しても、その巫女はさあらぬ顔つきで頷くだけだった。
「詭弁は申しません。それよりも、どうかわたしの次に来た尼に、くれぐれも決してその佩刀を見せぬようにして下さい」
馬鹿なと思ったが、間を置かず来た。だが義弘は妙震が言ったその警告を訊かずに、怪しい尼に乞われるまま、その佩刀を預けてしまったのだと言う。
うっすらと赤みが掛かった目をしたその尼こそ、災い成す赤震尼だったのだ。
「必ずこの剣があなたが望む、血と栄光を授けましょう」
赤震尼は先の妙震姫と同じように、義弘に対して恐れげもなく言った。
その尼がいなくなると同時に、刀身に頭巾を被った女の影が映るようになった。義弘の脳裏に妙震の警告がさしたが、迷信に屈してなるものかといくさ場にこれを佩き続けた。だがそれが仇となったと言う。
永禄九年(一五六六年)十月、日向三山城合戦で伊藤義祐を攻めた義弘は、城攻めに失敗し、再び重傷を負ってしまうのだった。
自らが怪我を負うばかりでなく、敵味方無惨にも犠牲を出してしまう悪い負け戦だ。義弘には行安に憑いた女の霊が、血が足りぬ、と脅しているように思えた。そして悪夢を見た。この刀に悪霊を取り憑かせたあの尼が夜な夜な現れ、
「女の障りを鎮めるにはもっと人を斬れ、さもなくば、次は五体満足ではいられますまい」
と脅迫交じりに掻き口説く夢なのだ。
(あン若か巫女の言う通りじゃ)
あわてて義弘はその妙震と言う巫女を手を尽くして探させたが、すでに薩摩にはいなかった。
やがて義弘は、未見の人物から文を受け取る。なんとそれは北九州大友家きっての猛将と言われる戸次道雪その人からの便りであった。当時、大友家と島津家はことを構えておらず、両家の関係はまだ良好であった。にしても相手は、すでに百戦錬磨の毛利元就を対手にして、鬼、と言わしめるあの道雪である。文持つ若き義弘の手が、思わず震えた。
その書状はさる顔見知りの刀工の夫婦に、刀作りの鉄の調達のために、領内の立ち入りを許してほしい、とのことだった。すでに立花城を発った、と言う夫婦の名を見て、義弘は愕いた。妙震。刀工の若妻は数年前、薩摩の義弘を訪れたあの巫女だったのだ。
「そいが、会うてみたら、やはりおはんの御母上じゃ」
まさか、と名前だけで会った半信半疑の義弘は、再び現れた妙震姫を目の当たりに言葉を喪ったと言う。
「今ンおはんを見たときも、まこて(本当に)、わぜっかよ(驚いた)」
妙震との邂逅を思い出したのか、人食い熊も畏れる義弘が馬上の初震姫に照れ笑いを投げかける。
早速、妙震姫に義弘は、言いつけを守らず、尼に刀を見せてしまったことを相談したと言う。妙震は頷き、自らその刃を受け取ると、腕に傷を引き、血で清めてくれた。
「これであの者の穢れた意思は去りましょう」
と、災いを祓った義弘の波平行安で妙震姫はひとさし、星震舞を踏んだ。
「はは、若かときゆえ、おいは妙殿ンに惚れた。されど、あン女はついぞ首を縦に振らなんだ」
波平行安と同じ大和宇陀から、良質の産鉄を求めてやってきた刀工の夫に付き添って、妙震姫は義弘に靡かなかったと言う。義弘は薩摩の男だ。人妻も押っ盗るような男も中にはいるが、その辺りはさぱッとしているのが、薩摩隼人の大将たる由縁だ。
「よか。それより、あン妙殿ンにはおいらの武運の恩があっと」
無理やり妙震と夫を引き離そうとする部下を、義弘は逆に宥めたと言う。
義弘は乞われるままに鍛冶場を自ら案内し、夫妻の作刀が万全にゆくよう、便宜を計らった。
夫は最上の鉄を得、九王沢に帰ることになった。
「ことごとく得難きご厚情、何にも替え難くございます」
薩摩を離れるそのとき、妙震姫はその決意のほどを口にしたと言う。
「この日ノ本に仇なす、災いそのものを屠らねばならぬ旅なれば」
心は、この献身的な義弘に応えられなかった、と言わぬばかりである。義弘の心中に、口には表せぬ想いが残った。それが二十年越しに、道雪から送られた手紙によって蘇った。同じだ。道雪もまた、赤震尼によって災いを降され、半身不随の目に遭いながら、あまつさえその『雷切』の宝刀で、それを撥ねつけていたのだ。
「妙震殿に見込まれた武者二人、日ノ本武者に災いなすべく、現れし赤震の尼に一矢報いたく」
敵方に回った鬼道雪の文には、あのときと同じ、敵意は微塵もなかった。
「あン波平の地にて採れた隕鉄にて、鍛えたが、この脇差ち爺殿ンは謂うちょった」
義弘は胸元から、すらりと放った小さな守り刀を一振り掲げる。五鶯太は息を呑んだ。その黒い刀身とそこに浮かぶ、流星を思わせる光芒は、初震姫の持つあの星震の太刀に瓜二つではないか。
「こいは道雪の爺殿ンが、おいにあン時の案内の礼に遣わしたもンにごわす」
道雪は作刀の礼にと、妙震姫が送ってきた星震の脇差を惜しげもなく、敵方の義弘に送ったのだ。すべては、初震姫が赤震尼を斬る大望を果たさせんがため。正しく身震いするような道雪の武者振りに、義弘も心を動かした。
「初震殿ン、おいはこいを今こそおはんに返す。あン星震舞、今一度、妙殿ンに代わって、おいたち薩摩ン隼人に踊ってたもんせ」
義弘は将兵を集めると、松明を盛大に焚かせ、星震舞ひとさし、初震姫に舞を所望した。
星震の黒い二刀を携えて、初震姫は舞った。弾ける火花を浴びて、初震姫の舞は、息を呑むほどの神々しさだった。
初震姫の柔らかな肢体に火花弾ける黒髪が躍り、星震う二刀に宵闇がまとった。
「はははっ、こいはまっこて、武門言祝ぐ舞でごわす」
生のまま焼酎を杯で干すと、義弘は弾けるように笑った。飲み干した杯を割り捨て、膝を敲くと、今度は張り裂けるような怒号を上げた。
「おうしッ!皆ン者ン、繰抜で行ッど。陣形を組めえいッ!」
繰抜こそは、薩摩島津が誇る決死の戦術の真髄であった。陣形は、密集陣形である鋒矢に組むことが多い。だが、その戦術目的は当時の常識を逸していたと言わざるを得ない。
「押ッ出せえいッ!」
なんとそれは総大将を総出で最前線へ送り込む、危険極まりない突撃戦術なのである。
そもそも突撃における密集陣形の要諦は、中核となる総大将を分厚い軍勢の壁で保護することにある。しかし、繰抜とは抵抗してくる敵勢に対して左右の味方が足止めをし、最前線へ総大将自らを突貫させることを目的としている。戦術においてもっとも保護されるべき総大将を、護衛につく軍勢自らが死地へ追い込む、これこそ戦地のあらゆる常識を覆した決死の戦法なのだ。
島津義弘は大きなものだけで、この無謀な突撃戦術を生涯二度も敢行し、戦国最強の鬼島津の名を決定づけた。一度は朝鮮出兵の碧蹄館の戦い、そしてもう一度は、言わずと知れたかの関ヶ原合戦において、である。
西軍石田治部少輔三成の敗退決し、望まぬながら西軍に参加した島津勢は決死の撤退を余儀なくされた。東軍総大将、内大臣徳川家康が鎮座する敵本陣を横断すると言う、日本戦史史上、自殺行為としか捉えかねられない決死の突撃を決断した背景にはこの島津勢必勝の繰抜の戦術経験があってこそである。
命知らずの薩摩の兵は強悍そのもので、ことに怖じる大将は気性の上で認めない。ゆえに決死の局面、総大将こそが命を懸ける作戦に従事し、すすんで血路を拓く伝統があるのである。
上古九州の覇者、源鎮西八郎為朝の風韻を偲ばせる貫録十分の義弘が自ら太刀を取り、耳朶を打ちのめす怒号をおらびあげると、ただでさえ血の気の多い薩摩兵は、ぎらつく白目を潤ませて続々と、死を望む決死隊に集結しだした。
「初震殿ンに馳走じゃあッ!あンげんくさか赤目の尼僧に、薩摩ン武士の心意気ば見せてやっどおッ!」
薩摩隼人の咆哮は、晩秋の耳川の大地を揺るがした。その怒号は山容の端々にまで届き、野の獣すらも慄かせるほどの地鳴りとなった。
野太刀を抱えた薩摩勢が、地響きを上げて耳川を下る。
「狙うは赤震尼ただ一人ッ、歯向かわんもンは打ち捨ていッ」
思わぬ怒涛の追撃に混乱する大友勢が銃をとって反撃しようとするが、まさに赤震尼を追う猟犬の群れとなった薩摩隼人たちはこれを勢いのみで踏み潰す。
「チィィィィエエエエエィィィ!」
甲高い島津兵の叫喚が、まさに一丸となって響き渡る。
(すごい)
五鶯太は初震姫を背に、急先鋒の義弘の馬に追いつくのが精一杯だったが、この光景の壮観さにはさすがに震えた。男たちが潤んだ白目ばかりを輝かせ、黒い群れとなっている。すでにいくさは敗軍を追う様相だ。が、薩兵の血気はあくまで、その先にいる赤震尼と言う戦場の魔物に向けられたものなのだ。思えば源平以来、殿中に忍び入り、戦場を暗躍し、女はその禍々しい同胞を召喚ぶために、無数の武者の血肉でもってそれを贖った。
いわば日ノ本武者、最大の敵である。
と、雷鳴が地鳴りを上げる薩摩隼人たちを迎え撃った。雨もない、ふいの空雷であったが、五鶯太は別の意味でぎょっとした。続く雷光が、血のように赤いのだ。五鶯太は思わず顔を上げて馬首の往く手を見渡した。
凶雲は今や、はち切れんばかりに膨らんで、巨大な血腫のようだった。そこから膿がこぼれるようにして、何かが絞り出されつつあった。あの恐ろしい赤い雷光の声は、産声なのだ。赤震尼が同胞を産む。
あの女が再び申し子を産んだなら、戦いは次代に持ち越されてしまうだろう。
「急ぎましょう」
その声に、五鶯太は、思わずその雲から目を離した。なんと同じそれを、初震姫が視ているのだ。
「斬らねばなりません。復讐より何より、この、日ノ本武者たちのためにも」
初震姫が瞳を開いたのを初めて、五鶯太は見た。その瞳の色は霞んで、焦点は必ずしも合っているとは言えない。しかし、その瞳は淡い色を湛えて、この上なく美しく澄んでいたのだ。その目に復讐の熾火と濁った怒りはもはやない。
(なんて人だ)
日本戦国最強も名高い薩摩兵たちのためにも、初震姫は、剣を取ろうと言うのだ。壇ノ浦で平家の亡霊武者たちに助けられた時も、本当は感じていた。初震姫が負うべきは、応報ではなく、日ノ本武者たちの想いをこそ、であったのだ。
「確かに聞き届けた。よう言うちくれた。それこそ、日ノ本武者の遺志。おいたちも背負おう」
義弘の声がした。この大鎧の大将は、恐るべきこの怒号と雷鳴の中でも、初震姫の声を聞き分けていたのだった。
「行っどッ!必ず討ち漏らすなッ!」
義弘が全軍に号令すると、先駆けた。繰抜の勢いは止まる気配がない。
大友勢が逃げ散ったにも関わらず、やはり赤震尼は戦場に留まっていた。赤い凶雲の真下で女は屍を集め、相変わらずおぞましい所業を続けていたのだ。殺到する薩軍を前に赤震尼は即座に宗麟につけられた銃隊を指揮し、筒口を並べ立てさせた。
「撃ちなさい」
はたはたと、鉄砲玉の雨が降る。しかし、そんなことで停まる隼人たちではない。前衛が斃れようと次弾を装填する前に、屍を踏み越えて次の手が殺到する。
「小賢しかッ!」
一列縦隊を馬蹄で踏み荒らした義弘は、片手撃ちに鉄砲足軽を斬り伏せ、血玉を飛び散らせる。大石が屋根に落ちたような重い打突音は、義弘が鉢金ごと、頭蓋を叩き割る衝撃音だ。
馬首を巡らせた義弘は、銃を構えた鉄砲足軽に守られた赤震尼を視界に捉える。馬の腹を蹴った義弘は一閃、馬上から赤震尼の頸に向かって致命の斬撃を放った。
「ひっ、ひいいいいっ」
雄山羊が哭くような悲鳴とともに代わりに吹き飛んだのは、赤震尼を見捨てて逃げようとした鉄砲足軽の首である。
「はは、やはり一筋縄にはいかンようじゃ」
「何をするのです」
さすがに赤震尼も血相を変えた。義弘はそれに応えず馬上、首を斬り飛ばした行安の血ぶるいをする。びゅっ、と音を立てて、黒い血しぶきが散った。
「九州の覇王になりたいのでしょう。わたしなどに構っている暇などありましょうや。今、義鎮の足止めをわたしの配下のものがしています。ゆくなら大将首を獲りなさい」
義弘は鼻を鳴らすと、血と脂に濡れた切っ先を赤震尼に突きつけた。
「なんン。日ノ本武門、誰あろう、おはんが手柄首にごわそう」
「血迷いましたか。戦場の女首は、不浄の証。ことに尼僧を斬ったとあれば、その武運など早晩、廃れましょう」
構わず、義弘は馬を翻して赤震尼を襲った。その首を行安の刃が襲う。しかし白刃は、女を傷つけたりはしなかった。義弘の刃は血肉をまとわず、その腕を赤い蛇が貫き、甲冑の肩当もものともせずがぶりと噛みついた。それこそ赤震尼が中空から取り出して、放ったものであった。
「戦ン穢す物の怪が。おはんこそ元凶じゃ。我が行安の恨み、これにて返したどッ」
片腕に絡みつく、赤い蛇を無造作に振りほどき、義弘は言い放った。赤震尼は、歯噛みしてそれを睨みつける。
「たかだか源家の末流、お前ごときがッ、わたしを滅せると思うか!?」
「おいはここまでじゃ」
義弘はにべもなく首を振る。しかしそれが合図のようなものだ。五鶯太の横にすでに、初震姫の姿はない。その瞬間、黒い星震の太刀が、赤震尼の右袈裟を狙い、鋭く振り下ろされたのだ。女は辛くもそれを避けた。
剣の疵は再び手の甲。しゅうしゅうと黒煙が上がり、赤震尼の身を焦がしていく。
「おのれッ…おおおのれええええいっ!」
「…やっと、あなたにこの剣が届きました」
獣の絶叫を上げる赤震尼に比して、初震姫はあの嫋やかな声音を崩さない。九王沢から赤震尼を追った若巫女の、星震の太刀がついに、累代の元凶の命を脅かしたのだ。
「今度こそ、あなたを斬ります」
初震姫の声に迷いは、一切ない。母の仇と言う私怨を昇華した今、赤震尼のかけた呪いは跡形もなく消え去ったのだ。その剣は真っ直ぐに、赤震尼の命そのものを捉えた。
「喧しいッ!お前ごときに斬られて堪るかッ!」
赤震尼は袖を翻した。すると、その両腕から赤い流れのようなものがほとばしり、地面に沁み渡った。見るもおぞましい風景が現出したのは、その次の瞬間である。
(まさか…)
それは吐き気を催すような光景だった。地に伏した大友兵がこぞって起き上がったのである。明らかに死体のままだった。薩兵に頭蓋を叩き割られ、甲冑ごと四肢をちぎり取られた男たちが、痛みにうめき声を上げたまま、行く手に立ち塞がる。まさに文字通りの死兵であった。その瘴気漂う光景にさすがの薩摩兵も、顔色を喪った。
「恐るなッ!皆ン者、初震殿ンを守れえいッ!」
義弘の怒号がようやく、薩摩兵を踏みとどまらせるのみだ。死骸との乱戦が始まった。義弘は剣をとって馬を降りると、自ら遺骸を叩き潰す。義弘は死骸を屠りながら、南無阿弥陀仏の偈を唱えていた。戦場で朽ちるさだめの武者にとって遺骸を損ない辱めることは、おのれの不運を招くやも知れぬ苦行である。
「おのれ、おのれおのれえいっ!虫けらどもが…無駄なあがきをッ」
地金を隠さなくなった赤震尼の形相は、凄まじいものだ。
「もはや逃げられません。累代、日ノ本に仇をなし、無為の死を糧にせし魍魎よ。この上は正々堂々と、決しなさい」
赤震尼はすでに四面楚歌だ。すでに庇護者の宗麟たちは逃げ散り、四方を島津家の軍勢が囲み、初震姫が刃を向けていた。しかしだ。この期に及んで、この禍々しい尼は、嗤ったのである。
「ふっ、ふふふふふふ…」
古沼の底から響くような笑いは、やがておぞましいとしか言いようのないけたたましい哄笑へと変わった。
「あの小娘が、よくもここまでわたしを追い詰めてくれたものです。あなたの母親、妙震から二代もかけて、わたしの息の根を止めようとはご苦労なこと。やはりあのとき、幼いお前を殺しておくべきでしたか…」
赤震尼は苦笑すると、初震姫に問うた。
「どうしたのです?あのとき、なぜあなたを殺さなかったのか、それを聞かないのですか?ただ、わたしを恨めば、光を喪い、正気を見失う呪いをかけた理由を?」
初震姫は剣を構えたまま、黙ったままだ。毒々しい赤震尼の声が、汚わいのようにそれに振りかかった。
「誰あろう、あなたを苦しめたかったからですよ。命を挺してあなたを守った妙震の御魂を苦しめてやりたかったからね。あなたが苦しめば苦しむほど、妙震の御魂は哭き、穢れ、彷徨い、浄土を踏めぬゆえねえ!」
(まずい)
と、五鶯太は思った。今のは赤震尼が再び、初震姫に呪いをかけるための、いわば挑発だったのだ。赤震尼の案の定、我を忘れたか初震姫はその瞬間、物も言わず剣を振るった。しかしだ。
「ウッ、ウウウウウッ!」
その剣は、精確に赤震尼を捉えたのだ。星震の太刀は赤震尼の実態なき袈裟に、斜めに傷をつけた。その僧衣からは何かが焼け落ちる焦げ臭いにおいとともに血ではなく、蒼黒い硝煙が爆音を立ててこぼれ出たのだ。
「わたしを昂ぶらせようと、無駄なあがきです」
初震姫は言うと、今までにない構えを取った。それは古法に謂う引の構え、八相よりもやや高く、切っ先を相手の目元に突きつける甲冑剣術に似たものだった。
「まっ、まさかそれは…」
ただごとならぬ風情に、苦しみに呻く赤震尼の身体がついに、恐怖に強張る。
「これは母、妙震の得意とした構えです」
星震大社縁起に謂う。それは累代、悪縁を祓って流浪する星震の巫女の間で、脈々と伝えられてきた破邪・退魔の構えである。
「そもそも星震の巫女の剣は、累代の星震の巫女の御魂を降ろして扱うもの。母の御魂も、わたしの中に生きています」
「きっ、詭弁をっ」
追い詰められた赤震尼はほとばしる爆炎を孕みながらも立ち向かってきたが、初震姫の破邪の剣は狙いあやまたず、交錯するほんの一瞬を捉える。
「グアアアッ、グウウウッ」
赤震尼の苦悶が別人のもののように変わる。妙震の一矢が、今報いられた。初震姫がつけた傷によって、とうとう赤震尼はかつてない滅亡の際にまで追い詰められたのだ。止めの一太刀を放とうと、初震姫が剣を収め、逆手抜刀の自らが得意とする構えに直った瞬間だ。
赤震尼がついに、天に向かって断末魔の獣の咆哮を放った。その声はあの不吉な赤雲の孕んだ不吉な雷鳴の声音にそっくりだった。
そのとき、五鶯太は世にもおぞましいものを見た。
母親の獣が子を呼ぶような危急の声に、赤い雲から大きな滴がいくつも、赤震尼を取り囲むかのように垂れこめて来たのだ。それらは不定形ながらも、人の形をし、止めの一太刀を浴びせようとする初震姫の前途に群れてこれを阻んだ。
「どけえっ」
五鶯太は夢中で、腰に挿した銃を撃ち散らした。装填した散弾は赤い何者かを飛び散らせはするが、その姿は決して消えない。
(化け物め)
この連中は母親が逃げ延びるための時間稼ぎをしているのだ。このままでは、初震姫が割って入れない。五鶯太が歯噛みした瞬間だ。
「のけっ」
夷空の声だ。エキドナを構えた夷空が、馬を乗りいれてくる。眼前の一人をエキドナが吹き飛ばすと同時に、巨大な影が一つ、赤震尼を守る赤い影の群れに飛び込んでいく。
小野桐峰だ。この御師の剣士が携えた朱い霊刀が、銃弾もものともしない赤震尼の眷属を、難なく斬り祓った。
「戦場の魔物よ。おのれが申し子、九品は確かに俺が討ち取った!」
その声に、また同時に切って払った陰陽道退魔の印に、赤震尼は絞り上げるような啼泣を上げ、身を悶えさせた。
「これが石宗殿の御魂よ。覚えたか!この小野桐峰が一矢報いしぞ!」
赤震尼の苦しげな咆哮は、人間離れしたものだ。女は、いや、その姿をまとった隕星が遣わした何者かは、このときその存在を懸けて、地に住まう人間、と言う民にその憎悪のありったけを、絞り尽くしたのだ。
「五鶯太っ、狙えっ!」
夷空の叫びの意味を、理解する間に、五鶯太は懐に携帯していた癇癪玉を抛り放った。
中空を舞ったそれは、五鶯太が調合したもので打ち上げ花火の強烈な光量を放つ、閃光弾であった。
白い光が視界を埋め尽くすとともに五鶯太は、初震姫が赤震尼に立ち向かうのを見た。逆手の抜刀を、左から右肩に切り上げるように放つのだ。
その蒼い、星震の刃が煌めいて。
赤震尼の肉体へと吸い込まれる瞬間、この世の凡ては真っ白な閃光に包まれた。
(見えてる)
あの最中でも寸分違わず、初震姫は致命の一撃を放ったであろう。
耳を聾する爆音と衝撃波とともに、空は晴れた。
耳鳴りに顔をしかめた五鶯太の頭上に、気づくと暮れゆく晩秋の晴れ空が広がっていた。
あの血のように不吉な雲の面影すらも、空には亡い。
次の瞬間、五鶯太は視た。
初震姫の足元に、赤震尼が斃れているのを。その胴体は真っ二つに斬り裂かれ、赤くくすんだ土くれのようなものに成り果てていた。
凶星に産まれさせられた異形の怪物。
五鶯太は女の断末魔を聴いて、本能的に悟った。自分たち人間を糧にしてまで、この孤独な生き物も、この星に根付くべく、同胞を育まんと生きようとしただけ、だったのだと。
もっとも愛した息・九品を喪ったと知ったときの咆哮ばかりは、胸が締め付けられるようだった。
なぜなら彼らも、流れ着いたこの星で同胞を育み、必死に生きようとしていたに過ぎないからだ。
初震姫は血ぶるいをするかのごとく、剣を払った。星震の太刀風とともに、赤震尼の遺骸は焼き場の灰が散るかのように冷たい耳川の夜風に、跡形もなく消えていったのだった。
「余は、やっと目が覚めた。貴殿らの骨折りのお蔭ばい」
耳川の大敗戦覚めやらぬ、初霜が降りた日である。臼杵に戻った宗麟から召し出され、初震姫は、出仕した。介添えに五鶯太を召した他、傍らには戸次道雪が控えている。身も心も捧げた赤震尼が、恐るべき断末魔を遂げたと言うに、宗麟の表情は不気味なくらいに晴れがましかった。
「初震殿、こたびは少々の不覚を取ったが貴殿のごとき目覚ましきものの加護を得て、我が大友はこれからますます安泰のごたる。向後、ぜひにもよろしゅう我を守りたもう」
五鶯太は呆れてものも言えなかった。
赤震尼から一転、宗麟は手のひらを返したように今度は、初震姫の星震の社稷に家を傾けようと言うのだ。
「御目のようやく覚められたようで。此度はご祝着に存じ立て奉りまする」
初震姫は恭しく頭を下げたが、次の瞬間、きっぱりと言った。
「されども失礼ながらご家中、大殿が長年の陰の気が溜まりきり、悪縁の蔓延、この初震には到底、手に負えませぬ。ありていに申し上げて怖気を振るうばかりゆえ、赤震尼追討の本意を遂げた後は早々に、城下を退出させて頂きとう存じまする」
慇懃無礼の極まった物言いにさすがに宗麟も顔を強張らせたが、初震姫はさあらぬ体だ。
「それでは所用がありますれば、これにて」
「まっ、待て…初震、そう言を急がずともよいではなかか。そうじゃ、隣の間に酒肴も用意してあるのじゃ。貴殿らは恩人ばい。いくらでも、飲んで食うてよかぞ」
「お腹は、空いていません」
初震姫はきっぱりと言い切ると、立ち上がった。
「それでは後はご随意に」
「待てっ!待て待て待て!」
さっさと去ろうとする初震姫に、宗麟は取りすがろうとする。
「はっ、初震、そもじの本地は、どっ、どこであるか。この臼杵に迎えても良い。望むなら、今の室を廃しておのれを本妻に迎えてもよい。なあっ」
目の視えぬ初震姫の裾を、宗麟が引こうとした瞬間だ。道雪が進み出て、拳を固めて宗麟を殴った。
「つくづく御目の覚まされざることかッ!」
雷鳴のような鬼道雪の叱咤が、無礼を咎めようとした主君、宗麟の動きすらもはたと停める。
「無為の血が流され、大友の家が傾きし存亡の事態に、何が祝着ぞッ!」
その張本人を責める道雪の口調は、容赦なかった。
「織田のうつけにせいぜい媚を売りなされ。それが大殿がなせる大友の家士への唯一の償いばい」
この耳川の敗戦を期に、大友宗麟は中央政権に膝を屈することになる。
しかし、織田信長は結局、救援には来なかった。それは本能寺に仆れた信長の織田家を乗っ取り、畿内を平定し、自ら関白の座についた豊臣秀吉によって、であった。
九州への救援が来るのは、これより十年近くも先のことである。
その間、島津家の猛攻を食い止めたのは誰あろう、立花の鬼、戸次道雪の働きによる。
九州平定後、秀吉によって退隠させられた大友家には、雀の涙ほどの領地が与えられたばかりであった。
「鬼室は、破壊された。俺はかの地へ戻る」
「出雲へ?」
と尋ねる五鶯太に、桐峰は首を振った。
「吉野だ。尋ねる人もいるし、話さねばならないこともある」
聞くところによると、そこには耳川に散った角隈石宗の旧知が庵を結んでいるらしい。
「五鶯太たちも達者でな」
明那の故地でもある、吉野へ向かい、桐峰は発った。よく晴れた秋の日だ。博多を出た船は、夷空が手配したものだった。
「さて、私も海へ帰るぞ。お前たちは、どうするんだ?」
「大丈夫です」
五鶯太は即座に言った。
夷空は、五鶯太たちを送ってくれると申し出たが、初震姫はなぜか首を縦に振らなかったのだった。
「そうか。まだ、この地に留まる、か」
初震姫は、島津義弘から仕事を受けていることを、五鶯太は知っていた。戻るのはそれからになるだろう。
「で、お前はあいつに、着いていくことに、したんだな?」
確かめるように尋ねた夷空に、五鶯太は躊躇なく頷いた。世の人の縁とは、どう理屈で繕おうとも畢竟そう言うものなのだろう。
「わたしの生業はそもそも宿世の縁を祝るもの、あなたとは良い縁を結びました」
と初震姫が漏らした言葉を、五鶯太は憶えている。
「誰かから聞いたはずです。わたしが、供連れを択ぶのは、これが最初で最後です、と」
「甲斐へは、戻らない?」
黙って去ろうとした初震姫に追いすがると、彼女は目を丸くした。色とりどりに染まった耳川の野に、秋風が沁みる山道の辻の端である。
「ええ、行くんでしょう。これから先も。新しい旅へと」
(あんたはおれを択んでくれたんだ)
無数に交錯する衆生の縁から。択ばれて、手繰り寄せられた果てに、この初震姫につながる糸があるのなら。
「あなたが、供連れを択ぶのはこれが最初で最後。勘違いじゃなかったら、俺はそう聞きましたけど?」
きっぱりと言うと、初震姫は珍しく狼狽した。
「お腹が空いたんでしょ?夷空さんに、干し肉やら干し貝やら沢山もらいましたよ?」
と、五鶯太が言った瞬間、ぐううう…と地響きを立てて、初震姫のお腹が鳴った。
「さっききのこ採って来たので。そろそろ鍋にしましょう」
「よ、よろしくお願いします」
初震姫はお腹を押さえると、五鶯太に向かって頭を下げた。
鉄鍋を取り出して、いそいそと薪になる枯枝を拾い始める。そんな二人に、秋爛漫の九州の陽の熱が、今日も豊かに降り注いでいた。
「…以上が、九州の旧家で発見された医家の聞き書きの内容でした」
九王沢さんが語る『初震姫と鬼室の若僧』の話は、非常に興味深かった。聞けばこの話こそが彼女があの、八雲未発表の遺稿を模した形式で描いた『初震姫とむせび泣く亡霊』の話の原本なのだと言う。三十分ほどの話だったが、僕の目の前にもありありとその情景が浮かんだ。
それにしてもだ。よもやそこまでと言うほどの検証と傍証を積み重ね、彼女の類まれな想像力で構成されたその話はまさに、一座の興には惜しいものだった。
十一月、冬に近いほどの冷え込みがきつい甲府を離れ、僕は都内にいる。あの夏以来、数か月ぶりの九王沢さんのメールによって僕はある展覧会に招待されたのだ。
『星震の巫女~歴史に埋もれたはつふりの足跡をたどって』
と言う特別展示は、僕にとっては破格の内容だった。それは丸々、八雲から七叡に、そして現代に受け継がれた初震姫の物語だった。織田信長の依頼を受けて室町幕府いわくつきの名物を探し当て、九州までたどり着いた初震姫と御付きの五鶯太と言う少年の足跡は非常に興味深かった。九州戦国史に沿って紹介していく展示は、僕のような外国人にも非常に分かり易く、目を見張るべき点が多かった。
しかもガイドは、九王沢さんだ。受付で僕を見るやすぐに駆けつけてきてくれた。九王沢さんはそれから僕につきっきりで初震姫のことや、九州での小泉八雲の話などを飽かずに語り尽くしてくれたのだ。これ以上ないVIP待遇と言っていい。
「あの夏は、ご面倒をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした」
そのお詫びだと、九王沢さんは言う。
「い、いえ気にしないでください」
僕はあわてて言った。今から思い返してみても、久しぶりだったのだ。あんなに愉快な気分になったのは。
「この展示会が今年のうちに実現したのも、ウィンズロウさんのお蔭です。遠くからお呼び立てしてすみません。どうしてもいち早くウィンズロウ准教授に、初震姫のお話を伝えたかったので」
九王沢さんは、輝くばかりの天使の笑みを湛えて言った。僕にとってそれはこの夏、七叡の別荘でともに汗を流したあの仕事の何よりの報酬だった。
「ウィンズロウ准教授は以前は、中東にいらっしゃったのですか?」
「はい、イラクに十年ほど」
九王沢さんがふと尋ねたのは、妻とのなれそめを語った時だ。あれはちょうど湾岸戦争が終わったばかりだった。国連平和維持軍での活動を終えた後、僕はかつての上司に乞われるままに退役して民間軍事会社に就職していた。
「もう、昔の話ですよ。人に語るようなことは、ほとんどありません。知り合いも誰もいませんしね」
にべもない言い方をしないよう気を遣いつつ、僕は応えた。九王沢さんにだけではない。僕は軍人の時代のことを聞かれたら必ずこう答えるようにしているまでなのだ。
そもそも軍人だった経歴を僕は、誇るわけでもないし、その体験を殊更人に話そうとは思わない。とても複雑なのだ。さぞや悲惨なものを見て来ただろうと思っている人の前に立って、いちから話をするのが物憂いほどに。
「わたしは、戦場と言うものを知りません。興味を持っていいものかどうかも、分かりませんが、知るべきことは知っておくべきのように思えます。この耳川でも多くの犠牲が出たとされていますが、初震姫が渡り歩いた世界は常にそう言う世界だったのだ、と痛感させられます」
それは正しく、生と死のか細い狭間だ。ネットすれすれに落ちたボールがどちら側に落ちるかなんて、誰にも見当もつかない。
しかし生き残った連中ですら、幸運を拾ったかと言えば、決してそうではない。
当時僕と顔を合わせた人間のほとんどが、もう死んだ。原因は戦死や自殺ばかりではない。病気であったり、事故であったり。突き詰めれば多かれ少なかれ皆、問題を抱えている。僕たちに代わってあのイラクやアフガン、そしてシリアで戦う連中の末路を聞くと、言い知れぬ感情がこみ上げてくる。本当は人は、戦場になど行くべきではないのだ。生まれた地を離れて、しかも人を殺しに行くなどと言う体験など、しなくてもいいのだ。
それから僕は、この夏に相良七叡の別荘で発見したあの初震姫の肖像画に再会した。念入りな修復が行き届いているのか表装も直され、発見した時よりその姿は往時の精気を取り戻したように思えた。
「この絵は、あの諏訪の近在の廃寺に元はあったそうです。そこに寄寓したある居士が描いたと言うのが、その寺の口伝で残っています」
と、九王沢さんはスタッフの権限で掛け軸の裏を見せてくれた。
寛永十五年 五鶯坊 筆
とある。
「五鶯…坊?」
まさか今、九王沢さんが話してくれたあの五鶯太と言う少年か。
「だと良いと、わたしも、思います。その廃寺の年代記を今、調査中なのですが、この五鶯坊は富士御師の家柄で、晩年、たびたび九州まで周遊したと言うことも分かっている人物ですから」
そうして九王沢さんと二人で、掛け軸の初震姫を見ていると信じられないようなことがあった。たまたま通りかかったと言う、一人の若い女性が僕たちを見つけて、わざわざ声をかけてくれたのだ。
女性は弱視であった。杖を探りながら僕たちの元に来て、弟だと言う、高校生ぐらいの若い介添えも一緒に紹介してくれた。
「わたしも八雲が好きなのです。テレビで展覧会の話を聞いて、必ず来たいと思いました」
九王沢さんのはからいで女性は、展示物に触れることが出来た。僕たちがあの夏見つけた掛け軸と、九王沢家に伝わったあの星震の太刀である。垂髪のような黒い髪を腰まで流した女性は星震の太刀に触れると、なぜかしばらくほっとしたように立ち尽くしていた。
「ありがとう。お二人のお蔭で、ようやくまた、巡り会えました」
女性は深々と頭を下げると、しばらく佇んでいた。
「もしかして今、あなたの足元に何かがいますか?とてもよく、寄り添っているみたいですよ」
僕と話した時だ。女性が、不審そうに言ったのは。
そこにはもちろん、何も居なかった。でも僕は、何もいないはずの足を少し持ち上げて、こう言ったのだ。
「猫だと思います。うちに置いておけないので、仕方なく連れて来たのですよ」
考えてみればいくら招待されたとは言え展示会にペット連れでくる人間など、いるはずがない。とっさに出てしまったのだが、
「それは良かったです」
なぜか女性は、本当にほっとしたようにこう言ったのだ。
「やっと見つけてもらったのです。彼女も、あなたからまだ、離れたくない、と思いますよ」
「わたしが死んだら、わたしをどこかで見つけて。必ずどこかにいるから。ちゃんとあなたに合図するから。忘れないで」
妻の声が再び聞こえた。僕は、はっとしてその女性を見返した。
彼女は薄く目を開けて、朗らかに微笑むばかりだった。
ただの猫だと言った僕に、女性は『彼女』と言った。
女性には誰か分かっていたのだ。今の僕に寄り添っていたのは。それがただの猫ではない、別の何かだと言うことが。
気がつくと女性はどこかに消えていた。
介添えの男の子も、影も形もなかった。
後で確認したがスタッフもその二人を通した記憶がなく、そのことを憶えていたのは僕と九王沢さんの二人だけだった。僕は勝手に思っている。彼女こそがあの夏、僕の元に妻を連れて来てくれた、あの巫女だったのだ、と。
人の物語は相変わらず、脈々と続いていく。
無為の犠牲を積み重ねながら僕たちは、生きている。しかし僕たちは黙々と自分の死へ向かうことしか出来ないのかも知れない。いつも僕たちは他人の命の大切さに、気づくことがないからだ。
僕たちは歴史を知っていて、なおかつ一顧だにしない。この世界は、その膨大な犠牲が紡ぎ出した、おびただしいほどの縁で形作られていることに、気づいているにも関わらず。
通り過ぎれば見過ごしてしまうほどに今、この瞬間も無数の魂の犠牲が折り重なって人間の現在は続いている。少し立ち止まって祈りを捧げれば、彼らはいつも僕たちの身近な場所に感じられるはずなのに。その存在を知れば、実体ある生命が無為に喪われてゆくことの不毛さを理解することが出来るのに。
「わたしもたまにね、見えたらいいなと思うもの。文献や想像力だけじゃなくて、本当にその目からこの世界に、漂っているものを」
(あるよ)
僕は自分の足元に視線を送って、呼びかけた。
(今もそこに、君がいるように)
そして口の中で小さく感謝の言葉をつぶやいた。
(それが視えるのは、君のお蔭さ)
気づくと、もうお昼だった。
「あっ、そう言えばもうこんな時間でした!」
と、九王沢さんがそこで初めて気づいたように僕に言った。
「お腹が空きましたね」
「うん、そうだね」
と、僕は、立っていた場所を離れた。
「お腹が空いたな」
僕たちは、こうしてこの世界を生きていくのだろう。
枯れかけたプラタナスの並木道に麗らかな秋の陽が、今日も落ちていた。
ついに完結致しました☆夏からお付き合い下さり、皆さま本当にありがとうございます☆ふとした思い付きから始まったこの時代劇共作。共作者の九藤朋さんとともに試行錯誤しつつ、あわてたりして、やっとここまでたどり着きました。まずありがたいのは、挿絵まで描かれる九藤朋さんの存在の大きさ。地は博多にお住まいとのことで、九州弁を指導して頂いたり、この連載中はお世話になってばかりでした。また、だけでなく、繊細な描写をする九藤さんの筆致にますます刺激を受け、わたしも新しい世界が開いたように思えます。初震姫のイラストの明度調節をしてくれた小月恵さんにも、また感謝をささげたいと思います。ご両名、改めてありがとうございました。
さてわたしの初震姫はこれにて完結ですが、九藤朋さんの最終話で来週、本当の完結です。ラストスパート、朋さん、力の限り応援してます。桐峰殿が切り開く運命。期待してますね!
また末尾になりましたが、様々な形で応援やメッセージ下さった方々にも、九藤さんに魁て感謝の言葉を捧げます。ここで天正鬼とぶらい、伝:初震姫は終幕です。ただ初震姫にもまだ、先があると思います。またの登場の折はよろしくお願いします。永のご愛読ありがとうございました。来週の伝:小野桐峰完結をどうぞご期待ください!それではまた会う日まで!