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其ノ六

視覚記憶()として残る、初震姫の幼少の体験は、鍜治場に横たわる亡父の遺骸から始まっている。

男は大和宇陀(うだ)から諸国を放浪し、良質の鉄を求めて九王沢に到った刀工(とうく)だった。まだ年若の初震姫の母とともに、男は来る日も来る日も鍛錬に明け暮れていた。初震姫にとっては鍛冶場でふいごを吹く、父の印象すらおぼろげだった。

その父が(かまど)の傍で(たお)れている。うつ伏せでも、仰向けでもなく、右半身を下に、何かを捧げ持つかのように組んだ両手を頭の上に伸ばして。そんな恰好で眠る人間がいるはずがない。見ると口から白い泡を吹き、半目の開いた瞳は白く濁っていた。それ以上に、縄を当てられたように焦げついた不気味な火傷が、頸筋にはっきりとついていた。

「何をしているの!?」

絹を裂くような母親の叱咤が降ったのは、次の瞬間だった。

「逃げるの。あなただけは、これを持って。さあッ!」

乞われるままに、初震姫の幼い手はそれを受けた。何の変哲もない小さな守り袋だ。逃げろと言われるだけで初震姫は、どうすればいいのか察した。いつも、ここで何かがあったら自分だけは星震の長の屋敷へ駈け込むよう、母にはきつく躾けられていたのだ。


「母の身体と、すれ違う瞬間、赤い蛇が走り抜けるのを見ました」


振り返るなと言われたのに、初震姫はつい、夜道の中腹で残してきた母を省みてしまった。

そこに僧衣をまとった、清げな尼が立っていた。穏やかに微笑する尼の元に(たお)れている母を見て、幼い初震姫は絶叫しそうになった。母の顔中に赤い蛇が這っている。思わず目を(みは)るほどに赤い、不吉な色の蛇がその目から口から、溢れるように飛び出して頸に絡みついていたのだ。


「今、思い出しました。その恐ろしい女の顔をはっきりと」


それは常軌を逸したとしか言いようのない恐ろしい体験だった。

ほどなく、初震姫は失明した。両親の遺骸を見た衝撃が病を引き起こした、と思われたが、そうではなかった。赤震尼の呪詛を受けたのだ。現場に駆けつけた武装した郷士たちは、鍛冶場の柱に五寸釘で打ちつけられた呪符と大蛇の死骸を発見している。そこに血文字で、警告が書かれていたのだ。

「報ズレバ(なんじ)赤蛇(せきだ)ノ報イヲ享ケン」

復讐心を持てば必ず祟ると、赤震尼は脅迫を残して去ったのだった。その晩から初震姫は十日、高熱を出して意識を喪った。すでにそれほどに強固に、初震姫は両親(ふたおや)の敵に、執着(しゅうじゃく)を持っていたのである。


見る見るうちに秋が更けていく。あの九月の邂逅(かいこう)から、すでに二月余りが経ってしまった。山地の寒さの訪れは早い。寒暖の深かった朝晩はおしなべて冷え込むようになり、初霜が出てもおかしくない気候になってきた。角隈陣にいれば心配はないのだが山人の癖で五鶯太はつい、毎晩、暖を取る薪の心配をしてしまう。

と言うのも、あれから初震姫の容態が思わしくないからだ。在陣中にも関わらず一時期、初震姫は高熱を発し、歩くのもままならない重病人になってしまったのだ。

つらつら考えるに九月、鷹狩りの山中で目指す赤震尼を目撃したのが良くなかったのだろう。泥顔の挑発に激昂した挙句、初震姫は我を喪い、昏倒した。あのときにその声を聞き、匂いを感じ、肌でその空気に触れた瞬間、初震姫の脳裏に、はっきりと蘇ってしまったのだ。

両親を殺した晩に現れた、赤震尼そのままの姿を。

それは初震姫にとって、永い間封印されていた、(なま)の痛みを伴う記憶であった。

思えばその今わの際、母親が手渡した守り袋。そこにはすでに秘密の(やしろ)に奉納された星震の太刀の在り処が記されていたのだ。初震姫の中で、この復讐はこそは(あらかじ)め約されていたのだ。

「赤震尼を(たお)す」

累代(るいだい)受け継がれてきた、星震の巫女の宿業と何より、亡き母の悲願のもとに。


だが、と、五鶯太は思う。

その業は、一人の女が背負うに余りに過酷すぎるのではないか。

星震の巫女の秘儀を会得し、尋常ならざる剣の使い手であると言うことを差し引いても、初震姫はまだ、五鶯太とそれほど年齢の変わらない二十歳過ぎの娘なのだ。赤震尼と相対したとき蘇ってしまった衝撃の記憶が初震姫の精神に翳を落とさないはずがない。

(赤蛇の呪いか)

思えば赤震尼が幼い初震姫を殺さなかったのは、むしろそのためのように思える。

初震姫が復讐のため、自分に近づけば近づくほど、その身体に痛みとして刻まれた両親の死の記憶と失明を伴うほどの高熱の後遺症が彼女を襲うよう、すでに仕組まれているのだ。このままでは初震姫は自らの復讐心に苛まれながら、自壊の(みち)を辿るより他ない。

(自分が強く復讐を果たそうと思えば思うほど、心身を損なっていくなんて)

ある意味、死より苛烈な運命だ。赤震尼とは、どれほどに残酷な女なのだろう。

(このままじゃ、この人は剣を振るえない)

ようやく床に就いた初震姫を背に、五鶯太は暗い秋雨の雲を見上げてため息をつくしかなかった。


「いよいよ、いくさが始まるぞ」

小野桐峰(おののきりみね)が、五鶯太と夷空を召して告げたのは、十月も終わる頃だ。

(あがた)で呆けている宗麟を前にして、軍議の席ではついに(しび)れを切らせた主戦論が火を噴いているらしい。

論陣を張るのは、宗麟が指名した新当主、子・義統(よしむね)の外戚、田原親賢(たわらちかたか)である。義統の母、奈多の方を妹に持つ田原は、宗麟亡きあとの次期大友政権で主導権を利かせようと、今回の日向遠征にも鼻息が荒い。

当然旧臣たちは反発を強めているが、その田原を上手く煽っていくさを煽り立てているのが、例の九品(くほん)であると言う。

女の身で軍議には出れない。赤震尼はなりを潜めているかのように思えるが、九品の暗躍により、いくさはすでに赤震尼の描く絵図そのままに不可避のものとなりつつあったのだ。

「九品め、石宗殿が嘆いておられた」

この怜悧な僧は議論をまとめるふりをしながらしきりに主戦論を立てる親賢を盛り立て、歴戦の旧臣たちを宗麟から遠ざけた。当の宗麟は件の赤水(せきすい)によって、すでに赤震尼の(とりこ)である。この二人が、冷静な戦況判断を行える賢臣たちを壟断(ろうだん)し、裏から表から、島津勢との正面衝突へ遠征軍を導こうとしていた。

桐峰によれば懸命に時期尚早論を説いた石宗は軍議敗れ、意気消沈して戻ってきたと言う。夜半、石宗は自らの秘伝を記した軍学書や諸記録を、ことごとく焼き棄てた。

「それでも軍師として、あたら大友を滅亡に導くいくさ、黙って見過ごすわけにはいかぬでな」

この呆れるほどに気のいい、いくさ人の老人を、桐峰も見捨てるわけにはいかない、と言う。そのためにあの明那には陣を引き払わせたらしい。この男もまた、いざとなればこの地に果てる覚悟している。さらには耳川の水を汲み、桐峰は老人と出陣の水盃を交わしている。

「いざとなれば、俺は石宗殿のために力を尽くす所存だ。そしてことの元凶たる、九品を斬る」

斬るべき敵は、赤震尼の他にもまだまだいる。

桐峰の言は暗に初震姫を任せていいのか、五鶯太に覚悟を問うた形になった。五鶯太は黙って頷いた。

(あの人を、初震姫をいくさ場に連れて行くのはおれの役目なんだ)


十一月を過ぎ、戦局が動いた。

先に出たのは、大友勢である。主戦論者・田原親賢は大軍にものを言わせて、島津の拠点を包囲した。島津四兄弟の一人、島津家久が城主、山田有信と籠もる新納院高城(にいろいんたかじょう)だ。大軍の威容を見せつけた大友勢はこれを干した。兵糧攻めの体をとったのは無論、救援の本体を叩こうと言う策である。

本家当主である島津義久率いる後詰が、こちらに迫っている。本隊はまだ来ない。様子見の先遣隊であった。彼らは地の利を活かし、背後から城攻めをする大友勢を脅かす。

()を飼う腹積もりよ」

角隈石宗は、赤く潤んだ目を剥いて爪を噛んだ。

本隊の参着待たずに先遣隊がゲリラ戦術を展開していると聞き、石宗はひと目でそれを囮であると見破ったのだ。

ちなみに石宗が学んだ足利学校(あしかががっこう)のある関東あたりでは、餌を飼う、と謂う。小勢を率いて大軍をかく乱し、伏兵の待つ隘路(あいろ)へ誘い込む。これは島津勢、必勝の戦闘方法の一つであった。

「釣り野伏(のぶせ)

と、この島津では言う。いかにも土豪の朴強さを感じさせる戦場用語だ。早くから九州では鉄砲戦術が普及したが、島津勢のほとんどは鉄砲を持っていない。敵を誘うにも、捨て身の白兵戦術であった。

挑発に射掛けるのは、弓である。それも持ち運びに便利な半弓であり、薩兵のほとんどはそれを装備している。山間に隠れた彼らは大友勢の隊列が過ぎたとみるや、一斉にその矢を放ちかけた。

弓は鉄砲より速射が効き、音もない飛び道具である。神出鬼没の奇襲戦術にはむしろ、こちらの方が有効だった。そして大友勢が怯んだ瞬間を狙い、甲高い怒号を上げて突撃兵が斬りこむ。彼らのほとんどは徒歩(かち)であり、武器は寸より長いことくらいが取り得の野刀であった。

当時の薩摩人たちは大抵、体捨流(たいしゃりゅう)を学んでいる。幕末、二の太刀不要(いらず)と言われた薩南示現流(さつなんじげんりゅう)の起源の一つともなったこの剣法は、まさに甲冑ごと相手を斬り捨てようとするかのような、戦場にうってつけの剣だった。

「けェッ死めえいっ!」

兵に死ねとおらびあげるのは、先遣隊の指揮官、島津義弘だ。地を揺るがすような怒号とともに、この巨漢も馬を乗りいれて軍勢を掻き分け、波平行安の刃を叩き込む。

色々縅の大鎧に血汐を浴びつつ、大友兵を自ら殺戮(さつりく)する様は鬼神としか思えない。

大将の証である大鎧を着た武者など普通は手柄首で狙い撃ちにされるのだが、あたら義弘を討ち取ろうと槍を駆る武者はそういない。血浴びた羅刹(らせつ)の剣幕にどれほどの槍仕も(おのの)かぬものはいなかった。それでも無惨に挑むものは、即座に頭蓋を叩き割られて、戦場の泥に埋もれるばかりだ。

その義弘が薩兵を叱咤し、寡兵(かへい)をますます奮い立たせるのである。

ことに薩摩の軍法は、苛烈を極める。

軍中の私語は当然として、武備や兵粮の管理不足、不備を起こしたものは即座に斬刑、そして最も苛烈なのは『()の制』と言われる部隊編成であった。

薩摩人たちの最小数部隊編成は、五人からなる。その五人は戦場では一体となって働き、一人でも欠けたなら仇首を討つまで戻ることはかなわなかった。言うまでもなく、自分たちだけ逃げ延びて戻れば、その場で斬刑である。

そのため薩摩兵は、平素から命知らずの連中が多かった。極端に血の気が多い彼らは人の命は紙切れ一枚の(あたい)とうそぶき、酒宴の議論においても恥を掻かされたなら即座に相手を斬るか、自らの咽喉を掻っ切る。

人か獣か、どす黒い血の匂いにまみれた彼らに正面から相対する度胸のあるものはいない。大勢に嵩にかかった大友勢は一気に混乱へと陥った。


「まずいな」

島津勢が現れると同時、石宗は即座に戦況を把握した。傍らの桐峰とともに自らも打ち刀を払い、手兵を率いてまず本営を立て直そうと馬を乗り入れようとする。

「お待ち下されっ」

それを留めたのは、入れ違いに駆けつけた使い番である。軍師として、反撃の策を提言しようと言う石宗にその男は、本隊の救援は無用、との残酷な言葉を告げたのだ。

「田原殿には九品様がおりまする」

「馬鹿なっ」

石宗が昂奮するのも、無理はない。あれは殿中遊泳が巧いばかりの口先坊主ではないか。

それが田原が浮足立つとみるや、自ら使い番を務め、混乱しだした各部署に呼びかけ反撃の態勢を整えている、と言うのだ。

「方々、落ち着かれい」

まるで平家の敦盛(あつもり)のような典雅な拵えの刀身が朱い太刀を抜き放ち、九品は瞬く間に兵卒を立て直したらしい。

「田原様の下知に従えば、十二分に勝てますぞ。兵をまとめて押し返すのです」


彼方で鉄砲の音が鳴り響いたのは、そのときだ。続いて、国崩し砲が山間を揺るがす轟音を立てる。大友勢の反撃が始まったのだ。

「九品めの差し金か」

石宗は顔面を紅潮させて吐き棄てたが、そのときには陣太鼓の音がそこかしこで鳴り響き、大友勢が反転攻勢に出たところだった。悲劇は眼前にある。しかし九品の差し金で気運に乗ったと思い込んでいる彼らの誰もが、石宗の言うことをもはや信じはしないだろう。

「これにてお味方必敗(ひっぱい)決したり」

桐峰はその顔色を見て察した。この男の顔にあった致死の憤怒(ふんぬ)がみるみる退いていくのを。

「くっ」

()せるように、石宗は笑った。咳と紛う、無理な笑いでもあった。だが一面、悲痛を突き抜けた痛快さすらあった。

「はははっ、桐峰殿、今さらなにを、であったか」

こうなることは、いくさの前から覚悟の上だったではないか。

「血塊の凶雲、目にもの見せてくれる」

石宗は張り裂けるほどに叫ぶと、激しく印を切った。呪法の効用を期待したのではない。太刀をとって無謀の死地に向かうおのれを叱咤したのだ。

「いざ往かん朋輩(ともがら)よッ」

哄笑(こうしょう)して石宗は陣太刀をとり上げた。いくさにふりた桐峰の目が危惧に曇る。

(いかん)

石宗の潤んだ目には、彼方にわだかまる雲が映っている。桐峰も見た。不吉にわだかまる雲は赤黒くにじんで、まるで血腸(ちわた)をぶちまけたように、青空(せいくう)(けが)していたのだ。


同じ頃、その不吉な雲を、初震姫と五鶯太も見ていた。

五鶯太の住む富士の裾野にもときにこんな、不吉な朝焼けがある。山ではそうした朝の顔は嵐が来る凶兆でもあるのだ。だが五鶯太の知る限り、その雲はそれまで見たこともないほどに、ぎょっとするほどに赤くくすんでいた。

反射的に五鶯太は魔除けの印を切った。無駄だと言うことは分かっているのだが、やらずにはいられなかった。そうでもしなければこの、名状しがたい恐怖と本能的な嫌悪感を拭い去る術はなかったからだ。

(あれこそが赤震尼の申し子)

初震姫は謂う。赤震尼はこの血みどろの戦場で宇宙(そら)から同胞(はらから)を産むのだと。そのためには、より多くの地上の死が不可欠なのだと。

「血の雲が(おお)きくなっていますか?」

視えずとも不吉な気配が増大するのを感じたのか、初震姫が言う。五鶯太はその雲の禍々しい有り様を語って聞かせた。

先手(さきて)に何かあったかも知れません」

二人は朝から、石宗の陣を離れていた。宗麟と赤震尼がまだ、主戦場の高城河原ではなく牟志賀に留まっていると聞き、付け狙いに出たのだ。

結果は不首尾であった。当然、泥顔からの報が入っている赤震尼は常に衆目に姿を晒し、暗殺の隙を見せなかった。そもそもここは宗麟のいる本営なのだ。乱戦のさなかならともかく、精強な大友兵が守る本陣では手の打ちようがなく、二人はやむなく戻ることにしたのだ。

高城の後詰が現れたことくらいは、途中、通り抜けた他家の陣の足軽どもの噂話で聞いてはいた。薩摩兵が反転攻勢に出たのだ。展開する軍勢の中でこのとき、後衛はそれほどには大騒ぎになってはいなかった。

そもそも大友勢の兵威はまだ盛んである。装備で劣る薩摩兵はまだ、総力決戦を避けて小競り合いを続けるのではないかと言うのが、大方の見方だったのだ。まして前線はその戦意そのままに、むしろ苛烈な攻城戦を城方に仕掛けているはずだった。

「薩摩兵の後詰が出たとて、やられておるのは相手の方じゃろ」

薩摩兵の過半は、銃を持たないと言う。つまりそちこちに銃声が轟いていると言うことはこちらが攻撃していると言うことで、薩摩の後詰など恐るるに足りない。何よりの証拠に宗麟が臼杵から引き出してきた国崩し砲の大地を揺るがす轟音が、ずっと聞こえているではないか。

「戻りましょう。桐峰殿たちが心配です」

しかし初震姫は一人、嵐を察知したかのように悲痛な顔でいた。

「必ず悪しきことが、起きましょう」


初震姫の予感は(あた)っていた。

そのときには薩摩のお家芸、必殺の釣り野伏が発動していたのだ。伸びきった隊列の横腹を突かれ、大友勢は滅茶苦茶に斬り立てられていた。聞こえてくる銃声は不意を突かれた大友兵の驚愕の声であり、混乱そのものだったのだ。

五人一手で斬りこんでくる薩摩兵は、威嚇射撃などものともしない。

「チェェェェイストォッ!」

怪鳥(けちょう)の断末魔のような叫喚(きょうかん)とともに撃ち込まれる必殺の一撃を受け損ない、即死するものが後を絶たない。戦場には甲冑ごと破壊された大友兵の遺骸が転がっていると言う。

「何をしてるんだ、さっさと逃げろ」

戻るさなかで、五鶯太は夷空に逢った。銃撃が得意な海賊衆を率いて夷空は、石宗の軍勢の中にいたのだが、島津勢の反撃を受け、いち早く引き上げてきたようだ。混乱した大人数が浮足立って、前線は足の踏み場もない。

「石宗殿が散られた」

夷空の言葉は、二人を驚愕させずにはいられなかった。

「九品の差し金らしい。あの男が前線指揮官の田原親賢をそそのかし、大友兵に無謀な攻撃を仕掛けさせたのが、原因のようだ」

追撃のため隊列が伸びきることが、すでに大軍の一番の泣き所であると軍師の石宗は痛いほど分かっていたに違いない。だが危機を察知した角隈石宗は九品の差し金で諫止を容れられず、自ら玉砕の(みち)(えら)んだらしい。

「桐峰殿は?」

「上手く逃げられたみたいだが、はぐれてしまった」

「九品を求めて、戦場へ留まったのでしょう」

あれほどの剣士だ。薩摩兵をものともしないだろうが、豪胆にも程がある。

「五鶯太、わたしたちも機会をうかがいましょう」

前線の潰走(かいそう)は耳川を伝って宗麟のいる本営にも、伝わるだろう。宗麟はそもそも、ここまで戦闘が及ぶことを想定していない。初震姫にとってはそのときこそ、赤震尼を斬り伏せる好機が巡ると、言いたいようだ。

「確かに、このざまでは宗麟のいる本陣まで危うかろう」

夷空はいち早く、海賊衆たちを引き揚げさせたと言う。元々、合戦の功名やら、勝利やらが目的ではないのである。

「やると言うなら付き合うが、無理はしない方がいいぞ。ことに、乗じた薩摩兵どもほど情け容赦ないものはいない」

赤震尼はどうあっても、宗麟の元を離れない。

その意味ではこの乱戦は、千載一遇の好機と言えばそうだろう。

(だが、斬れるのか)

五鶯太の最大の懸念はそこだ。今の初震姫に果たして、赤震尼を(たお)すことが出来るのか、である。

なるほど、初震姫が星震の郷で仕込まれた剣は、凄まじいものだ。甲冑もつけていない素肌の身で、介者(かいしゃ)(鎧武者のこと)を討つのはほぼ不可能なことだが、それらをことごとく葬る業は神懸ったものと言うしかない。

しかしだ。その剣は初震姫が心の平衡を保ちえたときのみに、正しく発動するのだ。然るに泥顔の幻術で赤震尼を見せられただけで、初震姫は我を喪ってしまった。その精妙を極める剣は、見るも無残なものに堕してしまったのだ。

あの有様では本物の赤震尼と対峙した時に、彼女が一体どうなってしまうのか、分かったものではない。

「大丈夫です、五鶯太。わたしはここ数日で赤震尼の気配を何度も、目の当たりにしています」

つまり慣れたのだ、と初震姫自身が言うように、いざ斬り結ぶ段になって元の木阿弥にならなければいいのだが。

「そう浮かない顔をするな、五鶯太」

見かねて、夷空が取り成す。

「迷っている時間がないのは、確かだ。それに私たちの敗走路に目指す赤震尼がいるんだ。これ以上の機会は待っていても巡るものじゃない」

「火薬と銃の準備を。この期に及んでも、赤震尼は衛兵を連れているかも知れません」

「…分かりました」

渋々と、五鶯太は頷いた。


山間の狭い川沿いを、大友兵は逃げる。

高城川原から、耳川へ、そこで島津勢に追いつかれさんざん叩きのめされた。この合戦を耳川の戦い、と称する由縁である。この追撃戦の際の戦果がことに島津勢の勝利を決定づけたのだった。

(これはひどい)

我先にと逃げてくる敗走兵を五鶯太も見たのだが、川べりの岩場で転倒してけがをしたり、淵に落ち込んで命からがら逃げてきたびしょ濡れのものなどもおり、目も当てられないと言う様だった。病み犬のようになった彼らの首を、島津兵は野良犬でもさばくように(ほふ)っていったのだ。

川面や岩場にところどころ、色濃い赤がにじんでいる。ぱらぱらと腕や足が落ちている凄惨な場所もあった。鉄砲の音はひどくまばらになったが、恐ろしい悲鳴も断続的に轟き渡った。

敗走兵はどこまでも退却していく。三人は物陰に身を潜めて様子をうかがっていたが、宗麟のいる本営も抵抗らしい抵抗もせず、退却を始めたらしい。

(もしやもう、赤震尼も逃げたのでは)

五鶯太がその危惧を口にしようと思ったときだった。


「おい、あそこ」

唐突に、夷空が言った。眼前の光景を見て、五鶯太は硬直した。

なんと、赤震尼だ。

しかもたった一人だった。紫色のおおいで(つむり)を隠した尼僧が、槍足軽も連れず、ぽつんと立っているのだ。糞尿混じりの臓物臭が立ち込める中である。

(馬鹿な)

と五鶯太は思ったが、初震姫はこれを狙っていたらしい。

「見ていて下さい」

赤震尼は、日本刀で解体された死肉の山の中心に立っていた。ふとその右手を天に向かって翳した、その刹那。

ごぽっ、ごぽっ、と不気味な音とともに、死んだはずの遺体が蠕動(ぜんどう)したのだ。あまりの光景に五鶯太は自らの正気を喪った。これほどに醜悪な光景がこの世にあっただろうか。

死肉はもはや、死肉のはずなのだ。しかしだ。

赤震尼が手を翳すと首のない胴が、手足のない身体が、ぼとぼとと血肉を滴らせて(うごめき)き、その傷口を天に向かって口開けた。さらに驚くべきことがあったのはそれからだ。

その傷口の中から音を立てて。赤黒い血流がほとばしり出たのだ。それらは中空でまとまって大きな血の珠になった。猖獗(しょうけつ)極まるおぞましい景色である。

「何をするつもりなのです…?」

と言う五鶯太の口を初震姫はあわてて(つぐ)ませた。

「あれを天に送るのです」


今の一言で五鶯太にも、理解が出来た。頭上に拡がるあの血塊の雲。赤震尼はあれに、この血の珠を送り出しているのである。見ていると、赤震尼は遺骸の傷口から取り出した血の珠を愛おしそうに撫でた。そしてそれは赤震尼の合図で、空に高く高く持ち上がるとやがてその不吉な雲の中へ吸い込まれていったのだ。

今、初めて五鶯太にも分かった。

なんとおぞましいことに。

赤震尼はこの血みどろの戦場を糧に、あの不吉な雲を育てていたのだ。

「頭上の雲はやがて、現世に人の姿をして現れましょう。もう一人、あの九品と言う赤震尼の化身が今頃、鬼室を持って瘴気を集めているはずです」

そちらは桐峰が探していた僧だ。

そしてまさかあの鬼室にそんな役割が。

「鬼室は赤震尼の身体の一部と言ったでしょう。九品はあれで赤震尼が育てた血塊の雲の滴を採り、異形の同胞(はらから)を育てようとしているのです」

もはや一刻の猶予もない、と初震姫は剣を取った。

「桐峰殿は九品を斬り、鬼室を(こわ)してくれるでしょう。赤震尼は今、わたしが」

「おっ、おいっ」

五鶯太も夷空も止める間もなかった。いくら赤震尼が一人だとしても、無謀すぎる。


音もなく、精確に。

初震姫は頭上、赤震尼を襲った。普通の人間であれば、唐竹割りに斬り下げられていただろう。

剣は虚しく、空を切った。赤震尼はあのおぞましい作業をしながら足元の岩場に立った一瞬の影を瞬時に見切ったのだ。

「来ると思いましたよ」

赤震尼は妖艶な笑みを見せると、腕から赤い蛇の群れを放った。それこそ、初震姫の両親を殺したのと同じ蛇だった。

風切り音もかすかに、初震姫は剣を振った。間もなく蛇はいずれも宙で頭を断たれ、ただの紐のようになって足元に落ちていた。

(すごい)

初震姫の剣は、復活している。その剣の冴えに赤震尼も思わず、顔をしかめた。

「小癪な鉄の匂い。よもや、その無粋な黒い剣でわたしを斬る気ではないでしょうね?」

黙って初震姫は殺到した。その裂帛(れっぱく)の刃を、赤震尼は身をかわし避けようとした。刹那だ。独楽のように、回転した初震姫の蹴足(けそく)が赤震尼の身体を捉えたのだ。胴回しの連撃だ。効かないまでも赤震尼は一瞬、たじろいだようだ。

そこに初震姫の三撃目が叩き込まれる。剣は、後退した赤震尼の手を傷つけた。五鶯太は声を上げそうになった。その傷口からぶすぶすと焦げ臭い黒煙が上がったのだ。

「おのれっ」

赤震尼は目を剥いた。

「小娘が。わたしに何をしたっ」

あの赤震尼が血相を変えて、苦痛に呻いている。

いける。初震姫の剣が初めて赤震尼に届いたのだ。

「見ての通りですよ。この剣がつけたその傷は、あなたが殺したわたしの両親と、大友家を憂う戸次道雪(べつきどうせつ)殿がわたしに託してくれた想いの賜物。やっと、あなたに届きました」

星震の太刀を振るうと、初震姫は赤震尼の咽喉元にぴたりと突きつけた。

「この剣であなたを斬ります」

「ううっ、誰ぞあるっ!?」

「させるかあっ」

五鶯太が夷空と加勢に馳せ参じた直後だ。


盛大な炸裂音とともに煙が吹き出し、辺りを取り囲んだのだ。

「目を塞げッ!」

反射的に五鶯太は叫んでいた。これは、忍者の目つぶしだ。何が含まれているか、分かったものではない。

「どこだっ初震姫ッ!」

目を庇いつつも、五鶯太は走った。すぐ手の届く目の前に初震姫がいたはずなのだ。

「赤震尼」

叫び声が木魂す。

「どこです」

無茶苦茶に剣を振る風切り音も。

「逃がしません」

混乱した初震姫の声が聞こえる。しかし不思議なことにその声は、極端に遠ざかったり、近づいたり、頭の中で反響して気持ち悪いくらいに乱れた。

(これは幻術だ)

気づいたときにはすでに遅かった。堪えがたい眠気と身体のだるさを感じ、五鶯太はついに膝を突く。持っていた小柄で腿を傷つけたが、痛みで昏倒するのを防ぐのが精一杯だった。

「赤震尼、そこにいましたか」

初震姫が、剣を振るう音が聞こえる。

(追うな)

声なき声を、五鶯太はあげた。血で(にじ)んだ膝が砕けた。

それはまやかしだ。

(頼む、目を覚ましてくれ)

五鶯太は息を吸った。それから喪いかけた意識を立て直して、あらん限りの声でその名を叫んだ。


「初震姫ェッ!」


(どこだ、ここ…?)

幻戯の雲が晴れている。気づくとそこは、まるで見覚えのない風景だった。沢の音が聞こえる。森の匂いがする。しかし暗い、森だった。

「ふふふ、二人ともようやく気づいたか」

だみった声が頭の中に木魂する。これは、泥顔の声だ。

「だから言っただろう。この戦場には死が待っている、と」

五鶯太はかすかに身じろぎをした。自分が膝をついているのが分かる。腕も動かなかった。いつの間にか後ろ手に縄で戒められていたのだ。

「抵抗しても無駄だ。まあそれだけ麻痺が残っていれば、思ったより痛くはないさ。安心しな」

見ると隣で初震姫も同じように縛られていた。彼女もまた、泥顔の幻戯にはめられたのだ。

「良かったねえ二人とも。わたしのお蔭で赤震尼はうまあく逃げたよ」

目の前に佇む小さな影は、抜き身の刀をもてあそんでいる。みるとそれは、初震姫から奪った星震の太刀なのだ。影はゆっくりとそれで、初震姫の頸にさまよわせ弄んだ。

「そしてお前たちは、この戦場で野垂れ死にだ。残念だったねえ。悲しいだろ。赤震尼を斬るはずのこいつで、お前らは首を討たれるんだ。ろくに口も利けないだろうけど、めいっぱい叫んでもいいんだぞ。ま、ここにはわたししかいないけどね」

(やめろッ!)

五鶯太は叫ぼうと思ったが声が出ない。誰にも邪魔されることなく、泥顔は初震姫に向かって剣を振り上げた。

次の一瞬、轟いたのは森全体を揺るがすような盛大な轟音だった。

ボン、と言う重く大きな音がして、肉が弾けた。剣を振り上げたまま泥顔の心臓が、血しぶきを上げて、爆ぜた。

「大丈夫か、二人とも!」

夷空の声だ。助かった。


出遅れた夷空は幻術に取り込まれるのが一瞬遅く、それで助かったらしい。まさに九死に一生を得た。

「お前たちが泥顔にさらわれたのを見て、あわてて追いかけて来たんだ。間に合ってよかったよ」

エキドナに心臓を噛み破られた泥顔は紛れもなく、即死していた。女の仮面が剥げている。泥顔は驚いたことに、猿のように皺くちゃの小柄な老婆だった。かすかにまだわななくその手から、夷空はにべもなくその星震の太刀を取り返してくれた。

「立てるか」

夷空は二人の戒めを解いた。毒はそれほど強力なものではなさそうだ。

「大分前線の方へ来てしまったぞ」

初震姫が自由になったときだ。夷空はその頬を思いっきり張った。

「馬鹿か」

夷空は肩を怒らせていた。

「お前が大丈夫と言うから、わたしも五鶯太も手を貸したんだ。それがなんだこのざまは。五鶯太の命まで巻き込んで、申し訳ないと思わないのか」

「すみません」

「もう少ししっかりしてくれなくては、困る。まだ目的は果たしてないんだ。お前のせいでこいつは死にかけたんだ。五鶯太にもちゃんと謝っておけ」

「五鶯太」

初震姫は五鶯太の方へ向き直った。

「…本当にごめんなさい」

「い、いいよ。そんなことは」

今さらだ。五鶯太だって、それなりの覚悟をしてきている。

「おれだって、あんたに恩を返そうと思ってこの旅に付き合ったんだ。あ、ああいう危ない真似はもうするなよな」

「分かりました。…ではそろそろ」

と言った瞬間、ぐうううう…とお腹が鳴る音がした。五鶯太はため息をついた。

「…お腹が減ったとか、言わないですよね?」

「そっ、そんなことはありません。…赤震尼を追いましょう」

内心、五鶯太はほっとした。無駄な緊張感が取れたのだろう。さすがにこの戦場真っ只中でお腹が空いたは驚いたが。

「いいんじゃないか。干した雉肉ならある。少し息をつこう」

夷空が言った。まあ、それも悪くはない。ここから赤震尼を追うとなれば、長丁場だ。適度に体力を補給しておかないととても保たない。

「さあ、食べたらとっとと逃げよう。ここじゃいつ、島津勢に出くわすか判らん」

素早く、五鶯太が雉肉を食んだ時だ。

鉄砲の音とともに、魂切れる獣の悲鳴が轟き渡ったのは。

「落ち着け」

夷空は叱咤するとともにエキドナの装填を行った。

「隙を見て逃げるぞ」

ぎょっとするほどに近くだった。島津兵かも知れない。声を出せば、殺される。五鶯太は固唾を飲んで声のした茂みを見守った。

「殿さア、こっちでごわす!」

薩摩弁だ。あけっぴろげに甲高い声を聞き、五鶯太の背筋が粟立った。突然がさりと現れた男の顔を見て悲鳴を上げそうになった。すかさず夷空がエキドナの巣口を突きつける。

「動くな」

男は真っ赤に日焼けした薩摩武士だった。兜を被るべき月代の生え際がいくさ傷か、ぼっこりと腫れ上がっている。右手に下げているのは、血錆びた野刀だ。ぎろりと白目を剥いてみた顔が、夷空の銃を見てびくりと強張った。

「そのまま下がれ」

男は凍りついたようになったままだ。

「何も話すな。騒ぐな。逃げれば、撃たない」

ひとつひとつ噛んで含めるように、夷空が脅しを入れたその刹那だ。

「やめンか」

恐ろしく立派な体格の大鎧の武士が、姿を現したのは。


(何者だ)

ひと目見て五鶯太は凍りついた。

その男の鎧姿は金屏風に描かれるかと思われるほどに、目を惹いたのだ。言うまでもなく、総大将級の堂々たる武者ぶりだ。とりどりの色彩の紐で編まれた色々縅の鎧は、男の発達しきった胸板の膨らみを包み込み戦塵にまみれてもなお、気品すら感じさせる威容を放っている。

男は大きな南蛮筒を肩に下げ、大鍬型(おおくわがた)の兜を首の後ろにぶら下げている。戦闘時以外は行軍中、兜は首に背負うのが普通なのだが、日焼けしたその顔といい、汗で濡れた髪のふてぶてしいほど黒々とした逞しさといい、尋常一様の気配ではない。大和絵の源平武者でもこうはいくまい。

「なんじゃ、おはんら」

男はエキドナを構えた夷空と、五鶯太たちを見渡してゆっくりと視線を巡らせた。眠たげな視線である。まるで無防備であった。しかし、恐ろしい。あまりの放胆さに夷空も五鶯太も思わず気圧された。

この男の気品のある面差しに比してぎらりと切れた眼裂は、まさしく野の獣だ。深山で出喰わした大熊に睨まれたに等しい。五鶯太はへたりこみそうになった。

「もしや、おいらが(あくとう)か」

放胆にもエキドナの前に立ち、男は堂々と大柄な体躯を晒し首をめぐらす。

「その顔。もしや、島津の御大か」

顔を知っているらしい。夷空は震えを抑えつつ低い声で尋ねた。

「いかにも、おいが島津又四郎義弘じゃ」

(島津義弘)

五鶯太は背筋が凍った。まさにこの男が最強島津軍団の実戦指揮官、あの鬼島津義弘その人なのだ。

「おはん、明人が女か。こン和郎(わろ)どもン仲間にもみえんが」

「仲間?」

義弘は無造作に茂みから何かを蹴り出した。

それらは血まみれの遺骸だ。どれも、一撃で致命傷を被っている。装束は泥顔が来ている目立たないものと、よく似ている。

「そン能面が、こやつらの頭に違いなか。折角の(ゆっさ)が台無しじゃ」

やはりか。泥顔を使って赤震尼は島津勢にも、策謀を張り巡らせていたのだ。義弘は夷空が射殺した泥顔とエキドナを、お前が仕留めたのだと言う風に、交互に眺めていた。

「どいもこいも、あん赤か目の尼僧(にそ)ン差し金じゃ。げんくさか」

「赤震尼」

初震姫がつぶやいた言葉に、義弘はぴくりと反応した。あの屈強な男がなぜか愕然として初震姫を見返したのだ。この男も赤震尼の黒い陰謀に巻き込まれている自覚があるのだろうか。

「おはん、母御の名は妙殿(たえど)ンち言わんか」

「えっ」

しかし、口をついて出た言葉は五鶯太が思ったのと違っていた。

妙震(たえふり)は、わたしの母上の名です」

初震姫はうかがうように言った。

然様(さよ)か」

しかし、義弘はそれに唇を綻ばせて頷くのみである。次の言葉にこそ、仰天した。

「されば立花の爺殿(じじどん)ンが文ば、嘘ではなかな」

義弘が何を言わんとしているのか、五鶯太にも一瞬分からなかった。

「そ、それはどう言うことだ?」

堪らず詰め寄ろうとする夷空に、義弘は袂から何か手紙のようなものを取り出して押しつける。目の見えぬ初震姫に読んで聴かせよ、と言うことらしい。しかし五鶯太は内容を聞く前に、そこに堂々と大書された宛名を見て息が詰まりそうになった。

なんとそれはあの戸次道雪から、島津義弘へ宛てられた手紙だ、と言うのだ。

「義弘殿、まさかあなたも母に…?」

「ああ、こン行安にかけられた呪い、見事解いちくれもした」

すらりと剣を抜き、義弘は初震姫に向かって掲げる。それは熊をも両断する波平行安の剛剣だった。

「母が、これを…?」

目を丸くした初震姫に、義弘は破顔してあごを引いた。

「ああ、妙殿ンがな。よか(おごじょ)であった。それにあン尼僧には、おいも不倶戴天の仇があっでな」

まさかだ。あの島津義弘が、初震姫の母親と縁があったとは。しかも戦場から離れた戸次道雪が案じて、義弘に初震姫たちが従軍していたことを伝えていた、と言うのだ。ここへ来て、なんということだ。

「爺殿ンが文で言う通りあン尼僧ば、斬れっか?」

義弘は覚悟を問うように、初震姫を試す。彼女は、はっきりと頷いた。初震姫は泥顔に奪われた星震の太刀を取り戻すと、鞘を払って刀身を見せた。

「そいが、妙殿ンが託した剣か。承知しもした」

と言うなり、義弘は行安の剣をがちりと合わせる。武士の絶対の約束を神前に誓う金打(きんちょう)である。本気だ。義弘は初震姫に加勢を約したのだ。

「あン赤震尼のとこば、連れていきもそ」


挿絵(By みてみん)


あの屈強な島津勢が、赤震尼を追う。初震姫とともに。彼らなら、赤震尼を守る宗麟の軍勢をものともすまい。

ついに真の決着が、迫っていた。


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