其ノ三
「最期の…言葉だって…?」
弱法師の面をまとっていた女は、血を吐いてせせら笑った。火傷のような紅い痣は血の気を喪ってくすみ始めていた。女は木立の間から振り募る雨を見つめたままだった。
「笑わせないでくれ」
しかし笑いきることは、出来なかった。初震姫がつけた決定的な致命傷が胴を割って、雨で湿った石におびただしい量の血と肉を沁ませだしていたからだ。
「馬鹿…言うなよ。お前たちに、何も…遺す言葉なんかない」
初震姫は、表情を動かさなかった。死にゆく弱法師の命を、初震姫は日向に射した影のようにただ、そこにあって見守っているだけに思えた。彼女の瞳が開いていたのなら、どんな色をしていたのだろう、と、五鶯太は思わず考えた。
「では、このまま犬死しますか?赤震尼はあなたのことなど、虫けらほどにも顧みはしないでしょうが」
「ふん。…死にゆく人間を脅そうってのかい?」
弱法師は唇を尖らせたが、その言葉が出るのに一瞬、考える間があったのを五鶯太も見逃さなかった。
「わたしは赤震尼のことなら、あなたよりよほど知っています。あの女は、そう言う人物なのです」
「…だったら何も…聞くことはないじゃないか。これ以上、あたしから何を知ろうと言うんだ」
初震姫はその言葉を聞き届けると、かすかに唇を綻ばせた。
「赤震尼はなんと言って、あなたをそそのかしたのですか?あたしが聞きたいのは、それだけなのです」
「別に。ただ、面白いことがある、って言うだけだったんだ。この表向きにもならない裏稼業にも嫌気がさしてたしね」
弱法師は少しあごを動かすと、木立の隙間から雨が降り注ぐ曇天を仰いだ。
赤震尼。
「…なんて、不思議な女だったんだ…」
その言葉を、その陰謀に加担した弱法師自身が、しみじみと言うのだ。
「今考えても、あたしと違ってあれほどに、美しい女は他にはいないと思った」
その女は血色のいい乳白色の肌を持ち、声は不思議と艶めいて、絡みつくようだったと、言う。女が口を開いて話すときは、空気の小さなざわめきさえもひっそりと静まり返って、誰もが耳を傾けざるを得なかったそうだ。女の語る話はどこまでも旧く、まるでいきなり海底の果てに置きざられたように深淵だった。
「それでいて、あの女はいつも影法師みたいだった」
くく、とそこで弱法師は血の溢れた肺を揺るがして嗤った。
「あんたと同じさ」
間違いなく、今、弱法師は初震姫のことをそう評した。五鶯太はそこで密かに、愕然としていた。同じなのだ。奇妙な符合だった。この弱法師もまた、初震姫と言う巫女に対して、自分が今持ったのと、全く同じような印象を。
「初めて会ったのは博多でしたか?」
弱法師は頷く素振りをした。身体からすでに力が抜けきっているせいか、もう顔はほとんど動かない。
「あの女こそ、世の光、と言うのだろう。九州の地に降り立っただけであの女の周りには全てが集まってきた。あたしは、無謀にも術をかけてその秘密を解き明かそうとした。しかし術はかからない。あの女はそんなあたしを見て嗤うばかりだった」
「その術で、人は傀儡のように思い通りになりましょう」
赤震尼は澄んだ声音で言った。
「しかし人は、傀儡ではありません。あなたは人の心まで意のままに出来ない。それでも、あなたは人に幻術を見せ続ける。醜い自分そのままでは、誰も自分に振り向いてくれないから。結果、あなたの欲しいものがいつまでも手に入らない」
赤震尼の白魚のような指が伸びてきて、弱法師の素顔の醜い痣を撫ぜた。これだけ近くに寄られたのは、弱法師にとっても初めての経験だったと言う。しかしなぜか不思議と、抵抗する気力が湧かないのだ。誰にも触れられたくないと思っていたその痣も、赤震尼の今、海から揚がったとでも言うような冷たい指がそっと、触れるとそこから身体に入った力がほとびて、不思議な安らぎが生まれるのだった。
「不憫なはずがない。他のものにないあなたの痣は本当は、美しい」
陶然としかけた弱法師に、赤震尼はそっ、と耳打った。
「あなたが欲しいものをわたしは知っています」
弱法師の独白を、初震姫はなんの言葉も差し挟まず聞いていた。五鶯太は不覚にも、戦慄を禁じ得なかった。だってだ。今の弱法師の話が事実だとしたら、赤震尼と言う人物は心底恐ろしい女だ。この弱法師の心の空隙を一瞬で読み取り、その運命すらも、悪戯なただの一言で狂わせてしまうのだから。
「そう言えば何から何まで…まるであんたは、赤震尼みたいだな」
血反吐を吐きながら、弱法師は初震姫に言った。顔色が蒼褪め、すでに頬が細かく震えはじめていた。
「こうなっちまったら、赤震尼にはもう聞けない。どうしてだろう。教えてくれ。なぜあんたは、あたしの幻術がきかないんだ?」
初震姫はいぜん、応えなかった。すると、
「簡単なことさ」
背後に突然、声が立った。五鶯太は、自分の心臓をいきなり掴み上げられたような気分になった。
そこにもう一人、振袖を着た能面が佇んでいたのだ。一見して、小さな女だった。身体つきから少女にも見えた。肩が落ちて今にも崩れ落ちそうな姿勢だった。型崩れした小袖の帯はほとびて、色とりどりの布がだらりと身体中に巻きついている。
「簡単なことだと言ったんだよ、弱法師」
しどけない容貌に反してその声は、はっきりと響いた。彼女の被った面は、いわゆる『泥顔』と称される女の面だった。ぼうぼう眉に凄まじい面差しを宿した若い女の面は、主に怨霊を演じることの多い、不吉な面だった。
「くくくくくっ、その女にあんたの術が効くはずがない、と言っただろう。悪いが、あんたがこの女と斬り合ってるのを見て確かめさせてもらったよ。この女に幻術は効かない。なぜなら、こいつは自分で自分に幻術をかけているのだからねえ」
(そうか)
五鶯太はその言葉ではっとした。先行して幻術がかかっているのであれば、後から違う術を施すことは出来ない。だが問題がある。それは、どうして初震姫が自分で自分に幻術をかけるなどと言う真似をあらかじめしていたのか、だ。
「この女の凄まじい剣は、秘伝の瞳術の賜物なのさ」
瞳術とは幻術の一種だが、いわゆる瞬間催眠の類である。主に視線を使い、捉えた相手を催眠状態に陥らせる技だが、場合によっては自分にもかけることが出来る。強烈な自己暗示なのだ。
「いわば闘神の口寄せだね」
初震姫があれだけ鋭い感覚と、絶対的な判断力で行動できる秘密はそこにあったのだ。
確かに言い得て妙だ。多くの巫女は、口寄せをする。その体質はもっとも暗示にかかりやすいと言っていい。だが尋常の巫女が死者を自らに下ろすのに対して、初震姫は自らを戦闘状態に追い込むために極限の集中力を下ろすのだ、と言う。
「さっき、お前は弱法師を見て俊徳丸だと言ったが、本当は口寄せをすれば目は視えるんだ。普段のそれが、本当に弱視だとしてもね」
どこで見ていたのか泥顔の指摘に、初震姫は応えなかった。だが、その指摘は間違ってはいないだろう。五鶯太にも思い当る節は多々ある。甲冑を着込んだ武者たちを相手にあれほどの立ち回りを演じるのだし、あれほど精妙を極めた居合は、目が視えなければ出来るようなものではない。
「まあ実際、なにを身体に下ろしているかは知らんが、所詮はお前は一人の人間だ。あれほどの働きだ。戦った後は人並み以上に疲れるし、腹も減る。付け入る隙はいくらでもあるんだ。ゆめゆめ油断しないことだな」
くっくっくっ、と泥顔は面の内で嗤った。初震姫のことは、すべてお見通しだとでも言うようだった。ぞっとするような相手だ。だが今ので、五鶯太の初震姫の剣技に関する秘密が大部分、氷解した。あののべつまくなしの空腹ですら、理由があったのだ。
「だがおのれに瞳術をかけて気を研ぎ澄ますのは、山伏の類もやるがあんな人斬り阿修羅にはなれん。確かに、感心したよ。赤震尼の言う通りだ。確かに星震郷の連中を、侮ってはいけないようだね」
と、言うと、泥顔は懐から何かを取り出した。それを見た途端、五鶯太は絶句した。炸裂弾だ。火薬をたっぷり詰めた炸裂弾を、泥顔は木からもいだ林檎でも持つかのように無造作に持ち出したのだ。
「くくくっ、これだけの量だ。火薬は、すごいものだぞ。これだけで三人粉々さ」
手早く火が渡ると、みるみるうちに導火線が減っていく。この女、自爆するのが恐ろしくないのか。
「そこの女も言ったと思うが、赤震尼は九州でお前を待っている」
泥顔は火のついた爆弾を持ったまま、躊躇なくこっちに近づいてくる。
「豊後大友家だ。お前たちが来るのを、赤震尼は楽しみにしてたよ。まあ、ここで生き残れたら、の話だが」
くくくっ、と忍び笑いを漏らすと、泥顔は爆発寸前のそれを胸に抱えた。
「そうだ。ついでにそこのごみも、一緒に片付けちまおうかねえ」
泥顔は地を蹴って、走ってきた。
爆弾を抱えたままだ。五鶯太は思わず足がすくんだ。
この女、死ぬのが恐ろしくないのか。
さっ、と初震姫が飛び違いに立ち向かったのはそのときだった。
逃げ遅れた五鶯太は、死を覚悟した。だが爆発は、一向に起きなかったのだ。
初震姫の星震の太刀が、導火線を斬り飛ばしていた。泥顔の胴を払ったに見えた初震姫の剣は正確無比に起爆のみを防いだのだ。
泥顔はそのままうつ伏せに倒れ込んだ。今ので意識を喪ったらしい。初震姫の剣で傷を負ったわけではないのに。五鶯太はわけがわからなかった。
「見て下さい」
「あっ」
初震姫が面を外した。
今度こそ五鶯太は、声を漏らした。
愕くことに『泥顔』の面を被っていたのは、五鶯太の幼馴染の野棗だったのだ。
「傀儡の術です。恐らく『泥顔』本体は近くで声だけ、被せていたのでしょう」
初震姫は彼方の、松の木立をうかがった。すでにそこには誰もいない。これほどの距離で、腹話術を使い野棗を操ってそれを容易に悟らせないのは、恐るべき忍びの手練れである。
幸い、野棗は無傷だった。どうやら薬でずっと眠らされていたらしく、何も憶えてはいないようなのだ。五鶯太は事情を話し、野棗を甲斐に戻らせることにした。『翁』によっても、『弱法師』によっても。すでに赤震尼に、名だたる富士御師の忍頭たちが、殺害されていたからである。
「おれはその仇を取りに行った、と言ってくれ」
と言う五鶯太に、初震姫は驚いたようだった。
「ついてきてくれるのですか?」
「当たり前だろ。このままになんてしておけるはずなんかない」
五鶯太はしっかりと頷いた。
「それに、あんたはおれたちの命の恩人だ。このまま、見捨ててなんかおけないだろ?」
こうして二人は、改めて連れ立つことになったのだ。
二人はその日のうちに、大山崎を抜けて堺に入った。
九州に至るにはやはり、陸路より海路だ。瀬戸内海を抜けて博多に到る船に乗るのが、最短で手っ取り早い。しかし、この堺からの渡海は課題が山積みではある。無事に渡海するにはまず、信頼できる船主を探さなければならないのだ。さらに瀬戸内海を抜けるとなれば、土地の海賊に顔の利く水先案内人をきちんと雇っている船を択ばなくてはならない。これらの伝手はすべて顔だが、その手筈をつけてくれるはずの野棗の御頭はすでに、殺害されてしまったのだ。
「伝手ならあります」
だが初震姫は意外にも、そんなことを言うのだ。見たところ山人にしか見えないが、信長の例もある。まさかまた、とんでもない人物と知り合いなのではないか。
初震姫が訪れたのは、唐物商の立ち並ぶ、いかにも堺らしい商店街の一角だ。一軒、見世棚に何の売り物もなければ、屋号も掲げていない店があり、初震姫はそこへずんずんと入って行くのだ。
「イラッシャイ」
出てきた番頭を見て、五鶯太はまた驚かされた。巨大な崑崙奴(黒人のこと)なのだ。
「ランパ殿、久しいですね」
「オウ、姫サマ、お元気、してましたか?」
崑崙奴はやけに白い目をぎょろつかせて、初震姫と抱き合った。五鶯太はその光景だけで、お腹一杯である。また初震姫の得体の知れない実態が一つ、はっきりした。
それから初震姫はその男と何やら話した。どうやら日本語ではないようだ。どう考えても天井の低い日本家屋に適応していないと思われる男は、即座に頷くと、すぐ奥へ来るように促した。
「ここは、抛銀屋です」
唐突に、初震姫が説明したのは、五鶯太がぽかんとしてしまっているのを見かねたせいだろう。
「講(信用組合)のようなもの、と言えば分かりやすいでしょうか。土着の会合衆たちの手を借りず、この地に寄港する倭寇たちや南蛮人たちに資金を融通しています。見ての通り彼らは皆、外海から来た人たちです」
それでも五鶯太があっけにとられていると、廊下の向こうから明人と思われる装束の女が歩いてくるところだった。彼女は初震姫の姿を見届けると、
「ふん、遅いじゃないか」
と言いざま、拳で初震姫の胸を突いた。
女は、夷空と言う名の倭寇だった。
年齢は二十代中盤と言ったところだろう。海焼けした褐色の肌に、しなやかな筋肉によろわれた肉体に無駄な肉はなく、いかにも海いくさに長けたはしこそうな女だった。潮風に晒され尽くした髪をひっつめて後ろにまとめ、窮屈そうに床の間に座っているが、背後に立て掛けられた砲と見紛う大口径の小銃は、夷空の私物と見える。
「見てくれ」
と、夷空はその銃を引っ掴んで、初震姫に手渡した。そのとき五鶯太は、その銃身に下半身が蛇の女の彫刻が、銀で象嵌してあるのを見た。夷空はそれを愛おしそうに撫でまわすのだ。
「これはエキドナ、と言うらしいんだ。太秦(ヨーロッパ)では龍の女神の名だ。あれほどの外れものが、すこぶる調子がいい。あんたが謂う通り、愛着すら湧いてきたよ」
今の会話で五鶯太にも、二人の関係が分かった。刀ばかりではないのだ。茶器に武器、初震姫は人が領して使用に供する万物に対して、悪縁を祓うことを生業にしているのだ。
「九州へ行くんだろ。渡海の準備は、とっくに整ってるさ」
「まさかとは思いましたが、今、堺にいてくれるとは思いませんでした」
五鶯太は思い出した。そう言えば、初震姫は陸路を往こうとしていたのだ。この夷空とは当初、山口から渡海を手伝う打ち合わせでいた、と言うのだ。
「出雲へ寄る予定だったから、だろう。だが無駄足だ。もう一人はこの春にとっくに、わたしの船で九州に渡っている」
「もう一人?」
と、五鶯太が尋ねると、初震姫は薄い笑みを含んで頷いた。
「わたし一人の手では余るので、もう一人、使命を果たしてくれる方をお呼びしたのです」
「その男、出雲尼子の係累のようだ。今、尼子の当主は上月城のいくさで風前の灯だ。そちらへ足を運んだら無駄足どころか、面倒なことになっていたかもな」
かの地は織田方・毛利方の兵でひしめき合っている。初震姫はそこへ乗り込むつもりでいたのだ。織田信長から領内での振る舞い自由の許を得ようとしていたのには、そんな理由があったのだ。
「その方の名前は?」
「小野桐峰と言う。御師の剣士らしい。こちらの腕もお前ほどに立ちそうだが、御師としても悪くない腕を持っていそうだ」
九州に渡った桐峰は、すでに豊後大友氏へと探りを入れているらしい。後は、初震姫たちの参着を待つばかり、と言う。助っ人がいるのは確かに心強くはある。初震姫は確かに尋常でない剣腕の持ち主だが、所詮は一人だ。やはりそれにだって限界はないとは言えない。
「まず、この抛銀屋の門を叩いたのは正解だぞ。今、この堺で九州行の船に乗ろうとすれば、必ず紅屋の目が光っているだろうからな」
「紅屋?」
赤震尼と九品の後ろ盾だと言う。九州では有力商人の一家だが、夷空の調べによれば、九品が偸み出した鬼室が豊後大友家に渡ったのは、この紅屋の手代が暗躍したお蔭らしい。
「紅屋の次郎五郎、と言う偽名を名乗っているが、元はわたしたちと同じ倭寇だ。元の名は八楼と言う」
八楼から名を替えた次郎五郎は持前の海賊の顔と博多紅屋の顔を使い分け、瀬戸内海沿岸で禁輸品の密売や人身略取と売買の仲介まで手広く手掛けているらしい。
「この堺にも、次郎五郎の息のかかった唐物屋がある。堺奉行ばかりでなく、安土の織田家とも懇意らしいと聞く。もしかしてここまで来る間にもう、襲われていたりしないだろうな」
初震姫は苦笑しただけだったが、夷空には伝わったようだ。
「あまり一人で、危ない橋を渡らないことだな」
「一人ではありません。この五鶯太が、助けてくれましたから」
「五鶯太って?」
夷空は目を丸くした。
「あっ、あのっ、おれは別にっ!」
と思わず声を上げて五鶯太は、初震姫がくすくす笑っているのに気付いた。今のは、完璧にからかわれたのだ。
雨天を縫って船はすぐに出航した。畿内は土砂降りだが、外海は案外と天候がいいらしい。
「一応割符は持ってはいるが、船はもぐりだからな。乗り心地の方は、覚悟しておくことだ」
夷空は豪快に言い切った。やはり、海賊である。しかしこの瀬戸内の近海には顔が広いらしい。夷空は村上海賊の水先案内人を一人、あっさりと捕まえてきた。
「まあ下関さえ脱ければ、わたしの庭さ。それまでは、勘弁してくれ」
そんなことをうそぶく夷空を見て、五鶯太はむしろ初震姫のことを思った。あの年齢で織田信長と顔見知りだわ、倭寇の知り合いがいるわ、顔が広すぎる。
「星震大社の連中は、昔から見るよ。生涯ああして全国を巡っては、諸物の悪縁を祓う旅をしているんだそうだ。独りで途方もない生業だろうよ」
夷空が初震姫に会ったのは、やはり九州だと言う。禁輸品の中に隠れて密航を手配したのだが、ふいに妙なことを言われた。
「突然、目が痛むことはありませんか」
原因は、最近売れ残った小銃を使っていることだと言うのだ。さっき見たエキドナ、と言う銃のことだ。調べてみると西洋の神話の蛇の女神を模した彫刻の入った銃は、すでに何人もの持ち主を死に追いやっていることが分かったのだと言う。エキドナを棄てようとした夷空を初震姫は止めた。初震姫はこう言ったらしい。
「この銃はきっと、あなたに良い縁をもたらしますよ」
以来、エキドナは夷空の無二の相棒になったらしい。
「悔しいがあの女の物を見る目は、確かさ。わたしが言うのだから間違いはない」
その初震姫はもしゃもしゃ、粥を食べている。口元にご飯粒がついていた。相変わらずと言った感じだ。粥は夷空が作ってくれた、唐料理だ。元々船では、海賊除けに常時、甲板に大釜を据えて粥を炊いている。賊の出没とともに、煮えたぎった粥を浴びせかけ、武器にする工夫なのだ。夷空はその日の余った粥を、そのまま夕餉にしつらえた。
干した鶏の肉の出汁で炊いた飯にその日釣り上げたホウボウやウマヅラハギなど、こりこりの歯ごたえのある白身の刺身を加え、夷空が撃った海鳥の叩いた肉団子を入れる。仕上げに香菜や搾菜で彩りを添えたものだ。明人はそれを朝粥として供すると言う。
他にも胡麻油で炒めた鳥肉を絡めた油飯など、海賊料理も中々、馬鹿に出来ない。
これに、五鶯太が携行した味噌を用いて魚のアラ汁である。食い残した魚の身や骨を焼き、煮込んでまんべんなく出汁を引き出す。この味付けは五鶯太がした。これで箸が進まぬはずはない。
山育ちで海の魚に面喰うばかりだった五鶯太だが、この倭寇飯には心を奪われた。だがそれ以上に爆食の初震姫が気になる。泥顔の指摘通り、初震姫も一人の人間だ。いつまでも無敵の闘神と言うわけにはいくまい。
「そう言えばあの女が相棒を連れて来たのは、これが初めてだぞ」
夷空は、五鶯太に何か揶揄しようとするよううに言う。その間に初震姫は粥を三杯平らげ、アラ汁を五杯がぶ飲みしていた。
その星震大社の縁起を、初震姫はこう語った。
「星震の大社の興りはそもそも、この葦原の瑞穂の御国に、空より吉星が降り注いだ時、といいます」
それは、記紀(『古事記』及び『日本書紀』)よりも旧い頃。後に星震の大社と言われる山深い里に、大きな隕石が落ちた、と言う。それと同時に現れた星震の民は、その大隕石を祀り、自らを星震の民と称し、代々鎮守を行った。大和朝廷はこれを認可し、それがそのまま星震郷の縁起となったと言う。
「本地はどこにあるんですか?」
五鶯太はついに聞いたが、答えは要領を得なかった。
「そもそもの地は、九王沢の山にあります」
と、初震姫は言うばかりだ。場所を聞くと甲斐信濃のいずれかと思われるが、九王沢と言う地名など、五鶯太の知る山野のうちにその縁も存在しない。
「それから敏達天皇の御代です。再び郷に星が降り注ぎました」
次は、凶星であったと言う。
信じられない話だが、初震姫が追う赤震尼は、その凶星の末裔なのだと言う。
「なんとしても、凶星が蔓延るのを止めなくてはなりません」
星震社の年代記を記した、縁起に謂う。
日本に仏教が渡ったとされる五世紀、星震社には再び、不吉な色の星が降り注いだと言う。吉星とされた隕石は蒼く、澄んでいた。対してその凶星は、人をしてたじろがせるほどに赤黒く、くすんでいたと言う。
「まさに地獄の血の池を写したる心地にて」
凶星落ちてほどなく、星震郷では妊婦の不慮の死が相次いだ。いずれも子を身ごもったまま、尋常でない高熱を発して死ぬのである。驚いたことに、その中にはいまだ男女の交わりを経ない生娘もいた。しかも遺骸を調べると、女陰から子宮のうちが、焼け火箸でも突っ込んだかのように灼けて爛れていたのである。
しかしその謎の死病を発したもののうち、奇跡的に子を産んだものがいた。女児であった。結局、母体は死んだが、産まれた子は苛烈な誕生の秘話などものともしないとでも言うように、健やかに育った。
眉目麗しく育った女はその後、択ばれて女官として平安京の内裏に仕えたと言う。
これがのちの、赤震尼の正体であった。
「以降、赤震尼の名は影に日向に中央政界の騒乱に関わってまいりました」
源平の争乱、承久の乱、元寇、そして南北朝の争い、先の応仁の乱。この日本を揺るがした騒乱のうちのどこかに、赤震尼の名は必ず姿を現し、多くの悲劇を生んできた、と言う。
その凶星の化身とも言える赤震尼は決して老いず、常に艶冶な美女の姿を保ち続けたと言う。
「そうして生き続ける赤震尼の真の目的は、知れません。しかし凶星からその赤震尼を産み出した責は星震郷にあります」
自分がやらなくてはならない。
初震姫は何の躊躇もなく断言するのだ。
累代、日本史に悪をもたらし続けた赤震尼を始末する。
星震郷の民として、目的を果たすのはそれほどの悲願だったのだ。
音に聞こえた鳴門の渦に差し掛かる頃、水先案内人が消えた。岩礁に船を座礁させるよう段取りを組み、そのまま迎えの小舟で逃げたのだ。
「船を立て直せ」
即座に夷空は船員に命じた。夜陰に乗じて、裏切りの村上海賊を乗せた舟が遠ざかっていく。手の小指ほどになった遠影を夷空はエキドナで撃った。銃口が火を噴き、まず漕ぎ手を射ぬくと、あわてて櫂に取りすがる裏切り者の脳髄を吹き飛ばした。相棒を駆った夷空の腕は、恐るべきものと言わざるを得ない。
周囲の小島に伏せた兵が集まってくる。襲う船の身動きを取れなくして、多方面から小舟で迫るのは当時の海賊の常套手段であった。
「騒がずとも、大丈夫です」
初震姫は、夜の海に湧いて出た篝火の群れを背に、平然と言った。
「これから本当の水先案内人が来ますから」
「うっ、うわあああああっ!なんや!」
ほどなく悲鳴が上がったのは、海賊たちの小舟だった。夷空の船を罠にはめたはずの彼らが自ら小舟を転覆させ、次々海に放り出されて行ったのだ。五鶯太は見た。海賊たちの船縁になんと、誰のものとも知れぬ無数の手が飛び出ていたのだ。
それは手に手に柄杓を持ち、海の水を浴びせかけたのだ。さらにはその手は舟板を突き破って拳を突き上げてきた。いくら瀬戸の海に狎れた海賊衆とは言え、こうなってはひとたまりもない。
「見て下さい」
と、初震姫が言う。すると船の舳に青白い炎がわだかまっていた。
五鶯太が目を凝らしてみると、それは古臭い大鎧を重たく着こんだ、都ぶりな若い武者なのだった。恐らく、いや間違いなく、琵琶法師の語りで聴く、この鳴門の渦に消えた壇ノ浦合戦の平家の敗兵の亡霊である。なんとその武者がこちらを向いて歯を見せたかと思うと、初震姫の声に応じるように、かすかに頷いてきたのだ。五鶯太は腰を抜かすのを通り越して、茫然と会釈を返してしまった。
「彼らも赤震尼に煮え湯を飲まされた人々です。わたしたちを、案内してくれるでしょう」
初震姫はこともなげに微笑した。
目の前の闇に染まった海には、青白い人魂の群れがまだ無数にわだかまっていた。




