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其ノ二

赤目源平太は、即死した。

通常、(くび)の脈を斬られても、血を喪いきるまでは武者なら動くものだ。げんに、いくさ場での組打ちには、相討ちが珍しくない。瀕死のはずの敗者はまさに死力を尽くして、勝者を道連れにしようとするからだ。

然るに斬られた時点で、源平太の命は尽きた。

初震姫の太刀が、咽喉元(のどもと)を過ぎて深く鋭く食い入ったために違いなかった。源平太の命は一瞬にして現世から断ち切られたのだ。

仕留めた熊を除けるように、初震姫はこと切れた甲冑武者をすり抜けて立った。あれほどの血が飛んだのに、驚くことに身にほとんど血肉を浴びていない。

無傷だ。

(信じられない)

五鶯太は茫然と、濡れそぼったままそこに佇む、初震姫を見ていた。

「ばっ、化け物っ」

殺戮の興奮で不気味に静まり返っていたはずの、甲冑武者たちの悲鳴が立った。逃げるかと思ったが、武士の意地がある。浮足立ったままなお、それでも初震姫を仕留めようと、雨に濡れた剣を振り上げてくる。

そこを、間髪入れずに払った初震姫の剣が閃いた。また逆手だ。

パシッ、と濡れ雑巾を床に叩きつけたような鋭い音が響く。

これが斬撃音だ。

漆黒の剣は(かに)の脚でも()ぐように、腕を斬り飛ばした。

(まただ)

初震姫の太刀筋は、寸分違わず甲冑の隙間を狙って肉を斬るのだ。鎧の弱点は継ぎ目、籠手と胴丸の間、又は頸、さらには佩楯(はいだて)(おお)えぬ下股、とは言うが。武者たちの攻撃する動きに僅かな隙を見つけて、星震の太刀はそのどれかの急所を確実に捉え斬っていく。弱視とは思えないほどに的確で精妙を極めている。

そもそも太刀はいくら鋭くとも刃筋が立たないと斬れない、とされる。よほどの巧者でも動いている人体を断つのは至難の業であり、浴衣の合わせ一枚相手が着込んでいても、太刀筋が狂うとされているのに初震姫の剣は、どの態勢からでも相手を斬れるのだ。

まさに難剣(なんけん)だ。

足場に踏ん張りが利かないこの泥濘(ぬかるみ)と土砂降りの中でなお、その剣には狂いがない。太刀の行く角度一つ間違えただけで斬れない場所で初震姫は斬撃を繰り出し、鎧武者もものともしないのだ。

「おのれえいっ」

鎧武者たちが無茶苦茶に振り回す必死の乱刃の下を、難なく初震姫は掻い潜る。転びながら股の下を斬り、足を使って槍武者を引き倒し、咽喉元の隙間に剣を突き通す。

恐怖のあまり卑怯にも犬槍(いぬやり)(槍を投げつけること)を狙う武者の顔に向かって初震姫は遺骸から抜き放った馬手差(めてざ)しを投げた。刃は寸分違わず、眉庇(まびさし)の下の僅かな両眼の穴に向かって飛び込み、頭蓋を貫いた。

五人の武者がすでに遺体だ。人間業とも思えない凄まじい剣に、残りの武者たちはわけのわからない声を上げながら後ずさりし始めた。

「弓ずら」

誰かが悲鳴のような声を上げて言った。

「弓で射るずら!あの目ぇじゃんっ、遠間(とおま)で射すくめれば手も足も出やあしねえら!」

(まずい)

犬槍は何とか防いだが、飛び道具で集中攻撃されれば、いくら初震姫の身のこなしが常人離れしていると言っても、なすすべもない。

そう思ったときだ。

大地を揺るがすほどの轟音で、雷鳴が轟いた。同時に視界を丸ごと、紫色の電光に塞がれて五鶯太はあわてて身を庇って地面に伏せた。

雷撃はすぐそばの杉木立に当たったようだ。

(今しかない)

五鶯太は意を決して、初震姫に駆け寄った。激しい雷光の中で、初震姫は眠っているかのように薄く目を閉じていた。

「逃げるぞっ!」

その声が聞こえたのだろう。初震姫は、逆らわなかった。五鶯太はその手を取ると、追いすがる声に見向きもせず、藪の中へと身を躍らせた。


まったく、なんと言うことだ。

闇の中を奔りながら五鶯太は、そこに折れ崩れたい思いだった。

(どうする)

これで織田家からは、完全にお尋ね者だ。あの信長本人によって今頃、初震姫はもちろん、五鶯太の顔もこの領内に知れ渡っていることだろう。潜伏中の同志たちにも多大な迷惑が掛かってしまう。

(しかし、何者なのだこの人は本当に?)

出身地不明、得体の知れない職業、そして恐るべき剣腕。巫女、と言う以前にこんな剣士のことは、見たことも聞いたこともない。

(はつふりの姫君か)

あれだけの惨劇を作り出しておきながら平然とついてくる初震姫を、五鶯太は見返った。ほとんど闇夜に降り注ぐ針のような雨しか見えない森を二人は夜通し走った。五鶯太はかなり全力で走ったのだが、初震姫はつまずいたり、どこにもぶつかることもなく、ついてくるのだ。

と、雷光が立ってまた地面が揺らいだ。雷撃を受けて灼けた木のかしぐ音がする。五鶯太は祈るような思いで雷避けの真言を心で唱え続けた。雷はまだ、遠ざかってはいなかった。


どうにか京都を脱した二人は、大山崎(おおやまざき)の街へ紛れ込んだ。淀川の口にあるこの街は、国際港堺と王都を結ぶ物流の要衝に位置する。古今、油座で名を成した大社があり、神人や商人たちの力が強い街である。織田家の侍たちも、うかつな狼藉は出来ないだろう。

行商人や馬借が根城にする木賃宿があった。寝床以外は煮炊き場くらいしか借してくれないような場所だが、この雨で宿る(ひさし)があるだけはましだ。五鶯太は水盥(みずだらい)を借りると早速お湯を沸かせ、雨で冷えた身体を手ぬぐいで拭う。着物はびしょ濡れで湯にでもつかりたい気分だが、これが精一杯だ。

初震姫が湯を浴びるのには、衝立を借りてきた。自分の湯を沸かしてもらうと、初震姫は五鶯太などいないものだと言うように、さらさらと着物を脱いで裸になったのだ。

いきなり目の前で服を脱がれたので五鶯太は顔を背けて悲鳴を呑み込んだ。あわてて文化圏の違いだ、と思い直した。聞いたことがある。京でもよほど身分ある家の育ちの娘には、むしろ羞恥心がないと言う。

初震姫の謂う、星震大社(ほしふりたいしゃ)がどれほどの格のある大社かは知らないが、ことによるとこの初震姫は存外、身分の高い家の出なのかも知れない。

「さっきは助かりました、五鶯太」

初震姫の声だ。五鶯太の背中越しに響いてくるその声音はいつもと同じ、少し眠たげなほどにぼんやりとしている。

「あなたがいなければ、討ち取られていましたでしょう。お礼を言っておきます」

「礼だなんて」

五鶯太は狼狽した。

「あっ、あんただってっ、なぜ加勢してくれた?確かに赤目源平太を、おれたちは探してた。実はおれたちは、あいつを殺さなきゃいけなかった。それを」

「わたしが討ち取ってしまった。それは、いけないことでしたか?」

「いけないことなんかじゃない。助かったよ。だからその」

衝立ががたり、と動く音がして、五鶯太の混乱は極に達した。湯上りの初震姫が、肌から甘い匂いを漂わせて、ふわりとその背に寄り添ってきたからだ。

「きのこ汁のお礼です。それに、困ります。わたしの大切な五鶯太が、死んでしまっては」

五鶯太は息を呑んだ。今、非常に意味ありげなことを言って言葉を切ったが、この人は行きずりに過ぎない自分に対してどんな感情を抱いていると思ったからだ。

「もう、美味しいご飯が食べられなくなります。五鶯太、わたし、そろそろお腹が空きました」

(なんだよ)

やっぱりな。五鶯太はため息をついた。別にがっかりする謂れもないのだが、実際、惚れられるような理由などないのだ。ふてくされて五鶯太は言った。

「たまには自分でやったらどうですか?」

初震姫は洗い髪をまとめながら、小さく首を振った。意味ありげに顔を近づけてくると、甘酸っぱい匂いが強くなり、その香りが五鶯太をますます血迷わせた。

「やってもいいですが」

初震姫は、小さく唇を綻ばせると、告白するように言った。

「実はわたし、とてもお料理が下手なのです」


ただの謙遜かと思ったが、偽らざる真実だった。ひどいなんてもんじゃない。どうやったら菜粥(ながゆ)芋茎(ずいき)の味噌汁と言った単純な食事を、こんなに不味く作れるのか。

犠牲になった食材たちに、五鶯太は謝りたいくらいだった。それでも棄てるわけにはいかない。甘いのだか辛いのだか、味がないのだか、何だか形容しがたい極端な味付けの食事を五鶯太は咳き込みながら、掻きこんだ。

「つっ、次からおれが作るよっ」

「そうしてもらえると、助かります」

自分の料理を酷評されているのに平然と、初震姫は言う。

それを見て五鶯太はふと、ある嫌な予感に五鶯太は囚われた。わざとやってるのではないか。わざとだろ?しかし初震姫はどこ吹く風で、五鶯太が作り直した菜粥と味噌汁を美味しそうに(すす)っている。

外はまだ、軒から滴が滴るほどに雨が降りしきっていた。

挿絵(By みてみん)

「で、これからどうするつもりなのですか、五鶯太は」

「仲間と連絡を取りますよ」

織田家に目をつけられるなど、確かにえらいことになってしまったが、当初の目的は果たしたのだ。御頭にまず、ことの経緯を報告しなければならない。

「まあ、赤目源平太は織田家へ寝返りしてたんだ。どの道、織田家には目をつけられる羽目にはなったんだろうけど」

「甲斐へ戻るのですか」

「うん。そうなる」

当たり前だろ、と言いかけて、五鶯太は(はばか)ってしまった。初震姫が目に見えて分かるほどしゅんとしたからだ。

「あ、あんたは九州へ行くんだよな。その、鬼室とか言う茶碗を追いかけて」

「ええ、それがわたしの使命ですから」

と、言うと初震姫は、よくもまあと言うあからさまなため息をついた。

「しかし出だしから、苦難の旅になりました。恐らくは昨日の一件で、織田家に完全に付け狙われることになるでしょう。せっかくもらった廻国状ですが無駄になりました。あんなものを持っていたらむしろ、生きてこの織田領内を出られないかも知れません。あ、これってそもそも、わたしが五鶯太の仇を斬ったばかりに、こんなことになったのですよねえ」

「うっ」

悪びれず、なんていやあな当て擦りをしてくるのだ。この人、一見邪気がないように見えるが実はわりとたちが悪いんじゃないかと、五鶯太は思い始めた。

「大変な旅だって言うのは分かるよ。それに、おれたちも仇を討ってもらったんだ。御頭に話して、せめてこの京都からは無事に出られるようにするからさ」

「源平太が連れて来た刺客たちは、確かみな甲州訛りでしたね。あの生き残った人たちは、五鶯太や五鶯太のお仲間たちと顔見知りなのでは?」

うっ。つくづく、人が触れたくないことを悪気のなさそうな顔で言う人だ。

「とにかく、京都を出るまでの安全は保障しますって。今大山崎なんですから、ここから堺で西国行きの船に乗る手配ぐらいはしてあげますって。それで十分でしょう」

泣きそうになりながら、五鶯太は言った。

ったく、えらいのに、捕まってしまった。


源平太を追って、富士御師の隠密たちは畿内を駆け回っているはずだった。京都周辺にいるのであれば、昨夜の事件の情報をすでに掴んでいる仲間がいるかも知れない。五鶯太が伝文を残したところ、すぐに反応があった。大山崎でも人の噂は集めたが、洛中で物々しい鎧武者たちが斬られた、と言う事件は意外に目立つものであったようだ。

五鶯太は門前市の雑踏の中で、連絡をつけてきた御師仲間と会った。往来物(おうらいもの)(当時屋台で売られる食べ物をこのように言った)の見世棚が立ち並ぶ目貫通りの裏にある、小さな社である。

(火吹き神か)

これがあると言うことは、裏手に鍛冶屋の並びがあるはずだ。何度か訪れた甲斐府中の街並びを、五鶯太はふと思った。するとその小さな社の陰から音もなく現れた細身の影を見て五鶯太は目を見張った。

野棗(のなつめ)

「えっ、まさか本当に五鶯太だったんだ」

野棗もまた、大きく目を見開く。野棗は五鶯太の幼馴染だ。紅い巫女袴に、二つのお下げ髪を垂らした野棗は、ご神仏を入れた小さな木箱を背に担いでいる。初震姫を見ていると常識が揺らいでくるが、これこそ正しい旅の神人たちの姿だ。

「五鶯太は岐阜にいるんだと、ずっと思ってた」

五鶯太たちの物頭は、土地勘がない。その点、野棗たちを率いる物頭は、信玄存命の時代から京都探索に従事していた手練れだった。

「でも良かった。五鶯太の組は、誰も生きてない、そう聞いていたから」

五鶯太は、愕然として息を呑んだ。野棗の話では、五鶯太の物頭は岐阜城下で、赤目源平太の手によって待ち伏せされ、とっくに皆殺しにされていたそうだ。

それを聞いてますます、五鶯太の血の気が引いた。岐阜に入る前にもし、初震姫に出逢っていなかったら。岐阜城下に身を置かず、慣れない京都に足を運ばなかったら。思いもかけない襲撃にあって五鶯太自身も、生きてはいなかったろう。

「だから京都で源平太の死骸が発見されたときは、驚いたよ。それでまさか、五鶯太から付文が来るなんて。一体どう言うこと?」

「う、うん。実はある人に世話になってさ」

五鶯太は言葉を選びながら、初震姫のことを説明した。この得体の知れない巫女をどう仲間に説明したらいいか迷ったが、ここはありのままを話すしかない。

ただもちろん、初震姫が織田信長と顔見知りで命を狙われているとか、その恐ろしい剣腕で赤目源平太を斬り伏せたことは、話さなかった。ことがあまりに突飛なせいで、そこまで話してしまうと、理解してもらいにくくなると思ったからだ。

「ふうん、大変だったんだね」

しかしどうにか話し終えると、野棗は無造作に入口に目を止めた。

「もしかして初震姫、って、あそこの人?」

団子を両手に持った女が立っていた。開いた口が塞がらなかった。縁日をいいことに、食べ物のある屋台の通りに置いてきたのに、いつの間にか五鶯太を追ってこんなところまで来ていたのだ。

「あ、あの向こうへ行ってもらえますか?」

今、大事な用をしているので、と言うと、初震姫は、素直にふらふらと往来へ戻って行った。後ろにある唐菓子(当時の外国菓子)を売る屋台の売り声を訊きつけたのだろう。

「変な人」

詰まらなそうに唇を尖らせると、野棗は肩をすくめた。それから、じろりと五鶯太を見て言った。

「五鶯太も気を付けた方がいいよ、色々と」

「う、うん…」

五鶯太はため息をついた。もう遅いかも知れない。

と言うか幼馴染みにまで、呆れられてしまった。


また雨が降り出した。野棗と別れて、門前市の雑踏に踏み出したが、今度は初震姫が見つからない。五鶯太は辺りを見回して、舌打ちをした。

「今、通りすがった女だがお前の連れか?」

神社を出るとき、野棗の御頭に声を掛けられた。野棗に連絡係をやらせて、飴売りに扮していたのだ。御師仲間の間でも野棗の御頭は、用心深いことで名が知れていた。

「あの女とは、関わらん方がええな」

「は、はい」

好きで関わっているわけではないのだが。

「差し詰めあれが、源平太を斬ったのだろう?」

醒めた御頭の目にどきりとした。

「お前の腕で、源平太は到底斬れぬことは分かっている。どう謂う経緯で加勢を頼んだかは分からんが、あれはどうも、妙な連中に追われている。早う縁を切ることや」

と、御頭がくれた情報に五鶯太は思わず息を呑んだ。

今、京では源平太の遺骸と生き残りの甲斐侍たちが撫で斬りにされ、六条の河原に(さら)し者にされていると言うのだ。

「あの女と、お前は一緒だったのだろう。時間的に考えてあの女と言うよりは、誰か別の人間がやったと見てええ」

まさか、星震の太刀を奪えなかった腹いせに織田信長がやらせたのか。五鶯太は思ったが、京都所司代は信長の厳命で犯人探しに地道を挙げているらしい。

「死んだは、元・甲斐侍や。今の京では甲斐者は、武田の間者同然に目の敵にされとる。しばし我らも、堺でほとぼりを冷まさないかん。えらいことや」

と、言うと御頭は、懐から何かを出した。六条河原の遺骸から、こっそりと回収してきたらしい。それは血の滴で汚れた能面だった。頬骨が高い造形にうつろな目。白い薄髭が棚引いている。いわゆる『(おきな)』の面である。

「それをあの女に見せるか、見せぬかはお前の裁量でええ。ただ、あれにはこれ以上は関わらんことや。船の手配が済んだら、お前は真っ先に甲州へ帰るがいい」

五鶯太が頷くと、御頭は事の重大さが分かっていない、と言うように、顔をしかめて言った。最後の一言こそ、衝撃の一言だった。

「源平太の兄を斬った巫女は、あの女や」


(まさか)

とは思ったが、符合することが多すぎる。特に弱視にしてあの剣腕は、他の誰とも比し難い。何よりだ。御頭は戦場であの星震の太刀を見た、と言うのだ。

(間違いない)

宿に帰ると、初震姫はすでに戻っていた。雨ですっかり冷え込んだ板の間に雲気(うんき)が籠もっている。焼き干しの出汁(だし)が湯気とともに香った。初震姫は索餅(さくべい)を分けてもらった、と言うのだ。

索餅(さくべい)、とは素麺(そうめん)のことだ。縁日に欠かせないこの食べ物は主に寺社が作り、見世棚の屋台では、これに飛び魚や目刺(めざし)などでとった豆油(たまり)(未精製の当時の醤油(しょうゆ))の効いた熱い焼き干しの出汁をかけ回して温かくして食べるのが一般的だ。中世もっともポピュラーなファーストフードである。

薬味に刻んだ薫り高い茗荷(みょうが)の芽を刻んで散らしてあるが、白眉は半煮えのまま漂っている鶏卵である。今朝産まれたばかりで朝採りの農家が売りに出していたと言う鶏卵は木椀の中ではち切れんばかりに盛り上がって、朝陽色(あさひいろ)と言っていい濃厚な緋色だった。

「船の手配を済ませて来たよ。明日には、堺に行って日和(ひより)を待つといいよ」

初震姫に(なら)って、五鶯太は椀の中の鶏卵を掻きまわして麺を啜った。

「五鶯太は」

「甲斐に戻るよ。おれもしなくちゃいけないことが出来たから」

初震姫の顔を見ることが出来ず、五鶯太は顔を背けた。

「九州は遠いけど、あんたも達者で出なよ」


知らせるかどうか迷ったが、五鶯太は『翁』の面を渡して、ことを伝える方を択んだ。

「あんた、やっぱり誰かに追われてるんじゃないか?」

初震姫は面をとって指で感触を確かめていたが、したことはそれだけで後は首を傾げるばかり、それから何も言うことはなかった。

(足利将軍の名物なんて、不吉なものを追うからそんなことになるんだ)

あの、『翁』の面。

意味するところは分からないが、何らかの警告に違いないのに。

二日して少し雨が上がったが、昏い日が続いた。

昼下がり、五鶯太は野棗たちからついに連絡を受けた。

(ようやく船が手配できたんだな)

場所は、今度は大山崎の街を外れ、天王山の外れにある古い社である。

「五鶯太、やっぱり嫌な感じがします」

出ようとすると、初震姫の刺すような語調にそう呼び止められた。

「くれぐれも気をつけて」


しとしとと、切り絵のような黒い森の影に弱い雨が降り注いでいる。

約束の廃社に、五鶯太は早めにたどり着いたが、そこに人の気配はない。そうこうしているうちに約束の刻限が過ぎた。

(おかしいな)

野棗の御頭は用心深く、待ち合わせた時間になど遅れたことがない。五鶯太が落ち着かなげに辺りを見回した時だ。

闇の中に能面が浮いていた。

濡れた髪がよわよわと貼りついて、項垂れたその面は『弱法師(よろぼおし)』、盲目の法師の悲劇を歌った謡曲、俊徳丸(しゅんとくまる)の面で知られる。

「やあ、君か。『翁』を斬った、と言うのは」

(『翁』?)

弱法師は大きく手を降った。その姿が闇の中から溶け出すと同時に、辺りに何者かの気配が満ち満ちたのが分かり、五鶯太は一瞬で身体を強張らせた。

「赤目源平太と言う男だよ。あれはよい、仕物(しもの)(暗殺)をする。赤震尼がいたくお気に入りだったから、織田家から九州へ連れて行こうと思っていたのに、殺しちまうんだからね」

ぽん、と、弱法師は何かを投げつけてきた。

足元に落ちたものを見て、五鶯太は血の気がひいた。

野棗の御頭の生首だった。

「あんたじゃないよねえ。どう見ても、源平太は斬れそうにない」

弱法師は背中に挿した白木の刀を取り外すと、鞘を払った。

「初震と言う姫を知っているな?」

ふわさ、と、はためくように弱法師が着ていたきれがはためいた瞬間だった。

弱法師が跳んだ。

そう認識するまでは、思ったより時間が掛かった。五鶯太は弱法師がどんな武器を使っても大丈夫な間合いを見極めて立っていたのだ。

それが弱法師は、鳶のように滑空して一瞬で間合いを詰めてきた。

とっさに身体を退いたが肩を斬られた。刃が閃いたのを見たと思ったら、血がしぶいた。剣の方の腕前もかなりのものだった。

「初震を連れてこい。連れて来ねば、お前の顔見知りのあの娘を殺すぞ」

「野棗」

不覚にも思わず、五鶯太は声を上げていた。

「…生きているのか?」

「たぶんな。今、どうなってるかおれは知ないよ」

くくっ、と弱法師は面の内で、嗤い声を立てた。

「なぜ初震姫を殺そうとする?」

「『鬼室』を追うからさ。殺されて、文句は言えまい?何しろ、呪われているんだからさあ」

(いかれてる)

血錆びの浮いた刀を閃かせて躍る能面の男を見て、五鶯太は慄然(りつぜん)とした。この男こそは、何でもやる。『鬼室』と自分たちに関わろうとする人間を殺害することに、全くためらいを持たない連中なのだ。

「初震姫を連れてくれば、野棗を逃がしてくれるんだな?」

声の震えを悟られぬように押し殺して、五鶯太は問うた。

「ああ。お前たちが『鬼室』について見たこと、聞いたこと、忘れると言うなら、無事に帰してやろう」

嘘だ。

この連中はそんな約束など守るような輩じゃない。だが、従わざるを得ない。何しろ視界のきかない仄暗い闇の中に、この弱法師の他にどんな連中が潜んでいるとも、知れないからだ。

(行くしかない)

五鶯太が一歩、踏み出した瞬間だ。

「おっ」

境内の入口に、人影が立っていた。あの細長い仕込み杖を抱いて、初震姫の影がしずしずとこちらへ近づいてくる。

「やあ、あんたがそうか」

弱法師が手を振ると、初震姫の背後を塞ぐように覆面をした男たちが回り込んだ。足運びの静かさといい、どう見ても忍びの訓練を受けたものたちだ。

「あの甲斐侍が『翁』。そしてあなたは俊徳丸ですか」

「『弱法師』さ。本名を名乗れ、と言っても無駄だぞ?」

「名乗る必要もありません。まあ赤震尼が考えそうなことだと、呆れていただけです」

「ほざけ」

弱法師の声を合図に、背後の両脇から男たちが刃を振るう。その瞬間、初震姫の身体が視界からすっ、と消えたかと思うと、刃は二撃とも空を切った。鋭い水面蹴りが、一人のバランスを崩すとともに、切り上げの抜刀がもう一人の脇下から胴を割った。

星震の太刀が妖星のように、闇の中でぽつんと閃いた。黒い血しぶきの気配がし、蹴り崩された男も一瞬で頸を斬られた。二体の遺骸が(たお)れたとき、そこに初震姫の姿はない。敵と入り乱れて、雨で緩くなった境内の泥濘(ぬかるみ)に、踊るように身を滑り込ませた。

源平太のときと同じだ。初震姫は全く容赦しない。連中も鎖の着込みをつけているはずだが、物ともしていない。まるですっかり相手が見えているとでも言うかのように、その刃は着込みの隙間を縫い、的確に急所を斬り抜けて人を死に至らしめるのだ。

(何度見ても、信じられない)

普段はのほほんとしているが、恐るべき運動量と集中力の賜物だ。初震姫の剣には、何か秘密があるに違いない。

みるみるうちに三人、さらに犠牲者が増えている。

「退け、おれがやる」

様子を見ていた弱法師はついに、人数を退かせた。このままではらちが明かない、と思ったのだろう。賢明な判断と言わざるを得ない。

「困ったねえ。こんなに斬ってくれちゃあ、後始末が大変だよ」

弱法師はすらりと抜刀した。五鶯太はその刀身を見た瞬間、その奇形に眉をひそめた。これも初震姫のそれに劣らぬ奇怪な剣だった。

肌身は岩群青(いわぐんじょう)を塗りつけたように蒼く、さらにはそこになんと穴が開けられているのだ。まるで数珠玉のような風穴は物打ちから鍔元にかけて並び、笛の穴を思わせた。

と、弱法師がぐるりと身体の前で剣を回して見せた。するとだ。ひゅおん、と実際に怪しげな音が立ったのだ。まるで()くような真冬の隙間風を思わせる音だった。

初震姫は警戒して当然、間合いを取る。しかし、それが逆に弱法師の付け目なのだった。

「ちょろおっと静かにしててくれよ」

トーン、と、弱法師がつま先で地面を突いたのはその時だ。履いているのは木靴のようだったが、何か仕込んであるのか、神社の石畳の上でも高くて乾いた独特の音がする。弱法師は剣を哭かせながら、その足で独特のリズムをとった。怪しい不規則な剣の笛の音、単調な足音のリズム。するとそれがいつの間にか、奇妙に絡み合って渾然一体の音楽のようになった。

(まさか)

陶然とそれに引き込まれそうになった五鶯太はあわてて口の中で、解呪の真言を唱えた。いわゆるこれは、山岳修行者や忍びが使う幻術(げんじゅつ)(催眠術のようなもの)の類だ。優れた忍びならばそこにたちどころにありもしない幻を現出させることが出来る、と言う。

「あんたは『視えない』。だが『聴いている』んだろ?じゃあ、ようく聴くんだ」

弱法師の声は、眠気を帯びてくる。五鶯太は連れて眠らぬよう、自分が意識を保つのに精いっぱいだった。

(こいつ、幻術を使うなんて)

あの用心深い御頭が斬られるはずだ。

またこの術は、初震姫にはてき面だった。弱視の初震姫の剣は恐らく、視力以外の卓越した五感に頼るところが大きいはずだ。闇の中ではむしろ、その優れた『聴力』は有利に働いたはずだが、弱法師は見事それを、逆手にとったのだ。

「さあ、ゆっくりと構えを解くんだ」

初震姫の身体から力が抜けた。腰を沈めていたのが棒立ちになって、星震の太刀がだらりとその右手に引っかかった。もはや無抵抗だ。頭上に刃を(かざ)しても、今の初震姫には何も出来ないに違いない。

「他愛もないな」

勝利を確信した弱法師は、仮面のうちでおかしくて堪らないと言うように、嗤った。蒼い剣を回しながらゆっくりと、その初震姫に近づいていく。

「大丈夫さ。何も怖いことは起きない。静かにしていれば、一瞬で終わる」

(まずい)

催眠をかけながら、弱法師は巧妙に初震姫の間合いを侵していく。もはや一足一刀と言う近さどころではない。確実に斬殺される間合いに入った。

「何か最期に言うことはあるかな。ああ、悪い、静かに寝ているのだったね」

弱法師は足を踏ん張って、剣を振り上げた。無抵抗の初震姫をこのまま、唐竹に斬り下げる気だ。

(やめろっ)

五鶯太が利かない身体で叫び声を上げようとしたそのときだった。

ふわり、と初震姫が腰を沈めたのだ。

「えっ…?」

弱法師の大上段に合わせるように、初震姫は剣を逆手に持ち替えると、全身のばねを最大限に活かして剣を振り上げた。

この近場だ。順手の剣より逆手の剣の方が無論、速い。しかも弱法師は無防備だ。

反撃を予期もしていなかった。

トーン、と桶の底を思いきり叩きつけるような斬撃音が、短く響く。

と、同時に星震の太刀が弱法師の腹から肩口へ斬り抜けた。弱法師の振り下ろしの勢いも利用した強烈な斬撃だ。一瞬その両足が宙を舞うほどの衝撃で、弱法師はなすすべもなく血しぶきの音を上げて真後ろに倒れた。

「なぜ…?」

吹っ飛ばされた仮面の下で、血の気を喪った唇が戦慄(わなな)いている。弱法師は男のような声音だったが、顔一面に火傷のような痣のある、まだ年若い女に過ぎなかった。それにしてもなぜだ。

なぜ、幻術が通用しない?

初震姫が大きく柏手を打つと、五鶯太の催眠も解けた。突然、身体の硬直が外れ、五鶯太は突き飛ばされたかのように前のめりになった。

「…あんた、なんで幻術が効かないんだ?」

初震姫は白々しく首を傾げた。

「なんのことですか。それより五鶯太、そろそろお腹が空きませんか?」

五鶯太はこけそうになった。まさかこの人、お腹が減ったから、自分を追いかけてきたわけじゃないだろう。

「嫌な予感がすると、言ったでしょう?」

力を喪った弱法師の身体を見下ろすと、初震姫は小さく首を傾げた。

「さあ、あなたの最期の御言葉、(うけたまわ)りましょうか」


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