其ノ一
火盗蛾の五鶯太は、今でも森に雨が降る夜が怖い。特に平地よりも遅い桜の徒花が乱れ咲く、死のように静かな甲斐信濃のうすら寒い闇夜が。
「大抵、こんな晩は血迷いものが出るずら」
事に旧い物頭は、訳知り顔に言ったものだ。老人の事歴は古く、かつては剛勇で鳴った飯富兵部少輔虎昌に見い出され、村上義清の領内を自在に荒らしまわったと言う。その物頭によると、人が狂いやすい状況と時間帯と言うものは日に何度かあって、優れた忍びであればあるほど、この時間ばかりは特に息を潜めてじっとしているらしい。
「仕物(裏切り者の暗殺)や家籠り(錯乱したものが立て籠もる事件)は、ことにこんな夜にあるでな」
予想外のことが起きて下手に巻き添えを食っては、命取りになると言う。なるほど、この富士山麓の山間は時知らずと言うように、天候も度々狂う。人がふいに、それに釣られて狂わないとも限らない。
「息を潜めて、よう用心しておくずら。かような晩は殊に何が起こるか分からぬ」
その物頭は、この夜、斬殺された。
甲斐府中の山麓を吹き荒れた、途方もない魔物の手にかかって。
「お腹が、空きました」
五鶯太は、目を覚まして早々、重たいため息をついた。何しろ目を開けると、垂髪の若い女が幽霊みたいな青い顔で自分の顔をじいっと覗き込んでいるのだ。ぎょっとしない人間は、普通いない。
しかも第一声が、お腹が空きましたである。
(勘弁してくれ)
仮にも自分のような眠りの短い忍者より、早く起きることの出来る人間が第一声に言う言葉では決してない。て言うかこの人、そればっかなのだ。五鶯太は頭を抱えた。
(なんで連れ立って来ちゃったんだろ)
彼にとって人生最大の不幸は、木曽谷を通り抜けて、織田領岐阜城下に入ろうとしたその山中で、ある歩き巫女と道連れになってしまったことに端を発している。
正直、最初は素通りしようとしたのだ。しかし、放っておくことが出来なかった。なにせ、とんでもなく生業が下手過ぎるのだ。
歩き巫女の生業の命とも言えるのが、口寄せである。いわばその霊力で死者を呼び寄せる鎮魂の儀式なのだが、初震姫のそれはぐだっぐだだった。
歩き巫女とは下級の神人だ。全国に末寺のある寺社を本拠地に持つが、その生業は遊芸にある。旅から旅への腕一本が頼りの商売なのだ。
芸の世界はこの時代も、純然たる実力主義だ。どの芸の分野でも、いざ売に入れば露骨な角突き甚だしく、火花がばちばち散っているのだ。待ったは存在しない。売れる芸人はどこまでも持て囃され、その逆だとリアルに餓死する。これこそ変わらぬ不文律だ。
しかるに、彼女の場合は、リアルに餓死する方の芸風だった。何しろ口寄せした人の名前を、はなから憶えちゃいないのだ。しかも挙句の果てに、いいところで、ぐうううう…と無遠慮にお腹を鳴らしやがった。
「あ。お腹が、空きました」
五鶯太が無理やり入って取り成してやらなかったら、撲殺されていただろう。よくこの年齢まで、のほほんと生きて来られたものだ。
「本当に助かりました」
ぺこりと頭を下げた女は、初震姫と名乗った。まあ、これが見たこともない風貌の巫女だった。そもそも、この時代の巫女の衣装は大抵、決まったようなものなのだ。しかるに、初震姫はどこを本地(寺社の根拠地)としているのか、まるで異質な格好をしていたのだ。
(こんな巫女がどこにいる)
初震姫はなんと巫女袴を用いず、着流しのような小袖に素足の先は脚絆姿。腰には雪つぶてを並べたような見事な鹿ノ子の毛皮を巻き、自然木を模したやけに大振りの戒状杖を携えている。神楽舞をするのなら、多少の目立つ格好は分かるが、これでは異質すぎる。
「わたくし、星震と言う大社の神楽巫女なのです」
五鶯太はぽかんとしてしまった。甲斐信濃を抜けてきた五鶯太もまた、富士御師と言われる下級ながら、由緒正しい神人の家柄である。この富士の他となれば伊勢、熊野、出雲、この辺りが大元締めであり、それとはほぼ無関係であってもその系列を名乗るのが普通なのに、この初震姫は堂々、誰も知らないような寺社の名前を口にするのだ。
まあ、食えなくて当然だ。
しかも清楚そうな容貌に似ず、口を開けばお腹が減ったの大食漢である。
(なんて生きにくい人なんだろう)
そんな初震姫が放っておけなくて旅の道連れにした五鶯太は、忍者としては致命的なお人好しと言えた。
「わざわざ作らなくても、干した米があったでしょう」
五鶯太は旅装を解くと、中から干飯を入れた包みを取り出そうとした。
「温かいものが食べたいのです。きのこが良いのではないでしょうか」
しかし初震姫はきっぱりと固辞し、薄く首を傾げた。
「きのこなんてどこにあるんですか?」
いらっとして聞き返すと、初震姫は微かに小鼻をひくつかせて辺りをうかがっている。
「湿った香り。山のきのこの気配がありましょう」
倣って、五鶯太も嗅覚を利かせてみた。確かに、ここは苔むした土の気配のする湿地だがきのこがあるとは限らない。五鶯太が顔をしかめて反論を試みようとするときには、初震姫は音もなく立ち上がっていた。
「あちらのようです。五鶯太は、火の準備と味噌をお願いします」
無論、五鶯太にも打算がなかったわけではない。全国を隈なく訪れることが出来る御師の身分があるとは言え、いざ木曽谷を降りれば、そこからは織田城下なのだ。
織田では楽市楽座の制があるために関所の詮議があまり喧しくなく、間者であろうが構わず中へ受け入れる代わりに、街中での取り締まりが厳しい。少しでも怪しい素振りをみせれば、問答無用で斬殺されることだってあり得る。
その点、弱視の若い娘づれなら、見る人間も多少警戒心を解くだろうと考えての同道だ。事実彼女のような人間は間者にも見えないし、五鶯太にとってこのことは今回の活動にはむしろ都合がいい。
(織田家を、刺激するつもりはない)
ことは武田麾下、御師隠密の仲間内での話である。五鶯太の他にも、この畿内一帯に続々と御師侍たちが捜索の目を光らせているはずだが、あくまで隠密裏にこの案件は処理しなくてはならないのだ。
「兄が殺されざまこそ、凄まじき仕物(暗殺)の手際であったわ」
五鶯太は今でも、赤目源平太の不気味なおだを思い出すことがある。鬼神に取り憑かれたような男が、仲間内で酔うと必ずしていたのが、自分の兄が戦場で斬殺された話だった。
「ありゃあなあ、冷たい雨の晩だったずら」
酔うほどに眦が裂けた凄まじい風貌は、いくさ場で死肉を漁る猛禽類の凄惨な風姿を帯びてくる。
そんな源平太が話すのは、天正元年の初春のことだ。
前年の暮れ、武田軍は三方ヶ原において徳川家康を単騎敗走させるほどの大戦果を挙げ、河口湖畔の刑部と言う場所で越年していた。事件はその冬の野陣で起きたのだ。
源平太の兄、兵部尉は山県三郎昌景の足下にあって、草働きよりも槍仕の評判の高い猛士だった。山のような大鎧を着込み、鉄芯入りの大身槍を軽々と操った。残忍な性格で戦場ばかりでなく、その後の略奪に際しても容赦がなかった。まさに鬼、とまで言われた非情漢だった。
その兵部尉が、浜名湖北東の名もない寒村で殺害されたのだ。いくさも敵もいない、乱捕り(当時の戦場では、戦後の拉致略奪が黙認されていた)の最中である。
「遺骸を提出せよ」
まだ、かの法性院武田信玄は、存命している。この男は何事によらず綿密なたちで、気になることがあると自ら考察を挟まなくては気が済まなかった。
何しろ兵部尉は、武装したまま斬殺されていたのだ。しかも、殺害したのはなんと、渡りの巫女だと言う。
「兄貴はよう、立会いで斬られてたんだ」
ぐふふふふ、と、源平太は笑って口の端に酒の滴を溜める。肉親を斬られたのに、その話に差し掛かると、この男の赤黒くしわばんだ面には喜色が溢れるのだ。
「斬ったのは、流しの売女ずら」
戦場での巫女は、遊女と同じである。売春婦には間者が潜む可能性が多いために、閨でのことは気を遣わねばならないが、兵部尉は寝床では死んでいない。驚くことに、武器をとって立ち向かい真っ向から、斬り殺されたのだ。
信玄が興味を持ったのも、無理はない。鎧をまとった武士と立ち合ってこれを斬殺するのは、まさに熊を素手で斃すに等しかった。
「辺りを探せ」
と、すかさず信玄は命じたが、三万の将兵を以てしても冬の野山にその巫女を発見することが出来なかった。
源平太は、その兄の死で狂った。事件をきっかけに家族を捨て、武器を駆って山野を彷徨するようになってしまったのだ。怪しげな山岳修験道に身を染め、兵法の秘術を極めたと吹聴しては、盛り場で乱闘を起こすようになった。そしてその兄が殺害されて五年目の天正六年の初春、突然、無数の同僚たちを斬殺して甲斐を出奔したのだ。
「惰弱なる武田武者の皺ッ首をば、織田うつけ殿に馳走せん」
修羅場と化した板の間の壁には、掠れた血文字でこのように書かれていた。
それから、源平太がどのような伝手で織田家に渡ったのかは、分からない。だがあの男もすっぱ侍と言われた男だ。何らかの目算をつけて武田領を脱したのは確かだ。ただ独自に築かれた情報網を追うのは、同じ富士御師たちにとっても至難の業である。そもそも、古参の先輩たちからして織田領に入り込んだ源平太の消息を追うのに苦慮していると言うのに、新米の五鶯太がこんな織田領の入口で、もたもたしているわけにはいかない。
(こんなことやってる場合じゃないんだけど)
初震姫は五鶯太が作った味噌仕立てのきのこ鍋を、美味しそうに食している。何でもよく食べる人だ。黙っていれば確かに、美しい人ではあるので、そうやって食を乞うては旅を続けてきたのだろう。ったく、えらいのに捕まってしまった。
「五鶯太も食べないのですか?」
つやっつやの顔を満面の笑みで綻ばせて初震姫は誘ってくる。が、鍋にはもう、ほとんど食べられるような具は残っていない。この天然、では済まされないとぼけっぷり。もはやわざとやってるのかと、疑うレベルだった。
「そろそろ撒こうかな…」
ご飯も食べさせたし、もう義理は果たしたろう。五鶯太がつぶやいたときだ。
「そうです、ところで」
と初震姫はふと顔を上げると、唐突に問うてきた。
「五鶯太は、織田家に用事があるのでしょうか?」
「え…なんで」
思わず口ごもってしまった。どこかで自分がうっかり諜報従事者であることを、漏らしてしまったかと思ったのだ。
「岐阜城下で宿を取らなかったので、もしかしてわざとかと思いまして」
初震姫はきのこ汁を飲み干して、幸せそうに微笑んだ。
「五鶯太は出来れば早くそこを通り抜けてしまいたい様子でした。そこからしばらくは山中で人との会話も避け、そのうち水の香りが変わってきましたので、そろそろ美濃は抜けるかと思うのです」
五鶯太は目を見張った。何もかもが的を射た情報分析だった。まさか。五鶯太は一気にその身体を強張らせた。無害な大食漢かと思いきや、さりげなく目端が利く油断ならない類の人物だったのか。
「隠し事は不要です。安心してください。わたしも、どこかの間者と言うわけではないですから」
初震姫は言わでもの意図を含んで微笑んだ。
「それは、どういう意味ですか?」
五鶯太などは、声がすっかり強張っていた。
「助けていただいたお礼をしたい、と言っているのです」
知っているのだ。この女は五鶯太が、ただの流浪の神人ではなく任務を含んで活動している富士御師だと言うことを。初震姫は笑みだけ邪気のない様子で言った。
「織田家になら、つてはあります」
土砂降りである。
織田につてがあると言うから安土に行くかと思いきや、五鶯太は京都まで足を運ばされた。
後悔した時にはすでに遅かった。この頃、京都全市は大豪雨に冠水しており、舟がないと迂闊に街区も歩けないような被災都市になっていたのだ。
(…来るんじゃなかった)
何とも言えない徒労感に、五鶯太は苛まれていた。別に、逐電した源平太の情報を集めるなら岐阜でも安土でも良かったんじゃないか。さらに地縁のない京都に足を運んでも、五鶯太は自分の能力すら発揮しようがないのだ。
「で…これからどうするんですか?」
濡れ鼠になりながら舟の櫓を操るのも、当たり前のように五鶯太の役目だ。忸怩たる思いをしながら、尋ねてみたが初震姫は、はっきりしない。
「人と会う約束があるのです」
それ一辺倒だ。しかも誰と会う、とは道中、初震姫はどんなに水を向けても言わなかった。恐らくはその人が織田家の関係者なのだろうが、もはやそれと確かめる気力も失せてきた。
「舟をつけてください」
と、初震姫はひと際大きな屋敷の門前で言う。
「ここですかっ?」
五鶯太は信じられない思いで、初震姫に聞き返した。適当としか思えない選び方だったからだ。しかし当の初震姫は舟の舳がそこへ近づくと、そんな五鶯太に構わず下船して屋敷内に入っていく。
初震姫は遠慮も何もない。もはや我が物顔と言っていい横柄さだ。五鶯太は息を呑んで、屋敷の天井の梁の立派さや欄間の高価そうな木彫の具合を眺めるしかなかった。
(そもそもここは、誰の屋敷なのだろう?)
通されたのは、奥の間でなく濡れ縁である。見ると戸障子が開け放たれた板の間で、赤と黒の小袖を着た異様な着流しの中年男が、土砂降りが紫陽花を打つ雨の庭を眺めながら、頬杖を突いていた。
「おのれも、あわただしい日に来やる」
初震姫を見たのか、男は目線だけを動かしてこっちを睨みつける。色白で髭の薄い、細面の男だが、人が一歩たじろぐほどの鋭い眼光を持っている。いかにも酷薄そうな男だ。
「出直しを致した方が、ようございましたか?」
男は露骨な態度で鼻を鳴らした。それから座れと言うようにあごをしゃくったが、次に初震姫が呼びかけたその言葉に五鶯太は心臓が停まるかと思った。
「お久しく先右大臣織田信長様」
(織田家につてがあるって?)
冗談じゃない。五鶯太は怖気をふるった。つてがある、と言うどころじゃない。この初震姫はなんと、畿内最大の政権、盟主・織田信長その人と顔見知りなのだ。
初震姫は黙って懐から何かを出してすすめる。見ると一本の脇差だった。信長は慣れた手つきでそれを取り上げると、鞘を払って刀身を検めた。
「確かに義元左文字。返してもらった」
五鶯太はまた、あっ、と声を上げそうになった。左文字とは、織田家きっての秘蔵の宝刀ではないか。永禄三年、かの田楽狭間のいくさにおいて若き織田信長が討ち取った今川義元の腰から分捕った名刀である。
「ふふん、いかな仕掛けかは知らねど上首尾だでや。刀身に映りし人影はもう、おらぬようだわ」
信長はうそぶくように言うと、それを何の躊躇もなく自分の腰の刀と替える。
「おのれ、何を珍しそうに見ておるでや」
信長に強く窘められ、五鶯太は死の危険を思い出した。
「ふん、まさかずぶの素人を連れておるのであるみゃあな。こやつ、名物の悪縁を祓うおのれの生業を知らずして同道しておるかや」
(おれが、素人だって?)
怒りを通り越して、驚愕でしかなかった。世間的には富士御師である五鶯太の方が明らかに玄人だが、今ここで初震姫の仕事を知ってしまうと、何も知らず連れてこられた五鶯太の方が、ど素人と映ってしまうのは、不本意だが頷けないこともないのだ。
(名物の悪縁を祓う、などと)
話だけなら胡散臭いもいいところだと、真っ向否定するところだ。詐欺まがいの横領ならばいざ知らず、神人のそんな生業など聞いたこともない。しかし目の前の織田信長と言う大権力者が事もなげに唯一無二の脇差を預けてしまっているところを目撃してしまうと、ぐうの音も出ない。
「まあよい。苦も無く今川治部大輔の悪縁祓うなど、叡山坊主にてもかなわぬ異能ゆえな。どうじゃ、星震の一郷、こぞって我が元に仕えぬかや」
「どうぞお召し抱え下さい。累代日ノ本の諸悪縁背負いし、星震の業、織田家にて引き受けらるるとあらば、ぜひ」
物怖じもせず即答した初震姫を、信長は殺気を帯びた視線でしばし眺めた。
「ふん、肚太き女子だでや。俗界での保身を望まぬ聖がごとき生き様ゆえと、思うておこう。さればこそこの信長に、使い走りがごとき要件を頼むのであろうからな」
信長は苦々しく顔をしかめ、傍らの文箱からばさりと紙の束を投げて寄越した。
「『鬼室』」
と、信長は五鶯太にとってまたわけのわからないことを言った。
「件の茶碗、その消息ぞ」
初震姫はその紙束を、五鶯太にそのまま手渡した。無論、代わりに読んでくれと言うことだ。
(なんの話だ?)
信長の口ぶりでは、何か茶道具の行方のようだが。
それほど理解もせぬまま五鶯太は、何気なく見てしまった。瞬間、息が停まるかと思った。これは織田家が、いや、信長が総力を奮って調べ上げた、完全なる機密文書であったのだから。
内容はなんと、将軍足利家から喪われた茶碗の話である。油滴天目の傑作、銘を『鬼室』と言う。古くは『花の御所』、室町幕府全盛を築き上げた足利義満の所蔵であったそうだ。別名を『血ノ池』。南北朝の動乱の折、烏山に堕ちた凶星の欠片を使って焼かれたとある。
「よう見ておけ、その茶碗、今は型紙と口伝のみが残るまでよ」
型紙とは名物が万一消失した際に、その姿形を、原寸大にして筆で写し取ったものだ。
五鶯太はその形を初震姫にも説明した。それは禍々しい由来に比して、すっきりと手に納まりそうな口広がりの形をしていた。なりは小ぢんまりと、意外や手に馴染みそうな風合いをしている。異形は形状よりもそのものの紋様地肌であろう。無論これは実物を見ないことには分からないが、溶岩を焼きいれたかのような地肌は漆を刷いたよりもなお黒く、それに人の血かと見紛うような油滴が吹いている、とある。
「なるほど、星震に伝わる口伝にある通りの姿です」
初震姫は言うと、まるで茶碗がそこにあるかのように両の掌でその形を作ってみせた。それにしても、と五鶯太は身震いする思いだった。凶星から作ったと言う、そんな不吉な由来の茶碗で茶事を行うなどと、聞くだけで障りがあるに決まっている。
「中々に剛毅な男であったようだでや、義満公方めは」
信長は、鼻の頭に皮肉そうなしわを浮かべる。確かに南北朝を合一し、自ら『日本国王』を名乗るほどの男だ。さらには一説によると、この『鬼室』によって、義満は自分の意に従わない南朝を呪詛したとも言われる。
しかし将軍家にとっては、好ましからざる秘宝であったようだ。義満の死後、茶碗の行方は杳として知れず、跡を継いだ義持もこれを決して用いなかったとされる。
だがある男の登場でにわかにこの不吉な茶器が、現世に再び厄災を齎したのだ。
それが、六代将軍足利義教。
「人呼んで悪御所。邪魔をするものはことごとく討ち払った。雷名名高い公方様」
初震姫の含みを持ったつぶやきに、信長は不敵な笑みを浮かべる。
「ふん、誰ぞに似ておると申すみゃあな」
義教は義満の三男であり、幕府全盛を誇った父の風に倣い、父を超えようとした。
その義教は武士ではなく、青蓮院門跡の学僧であったと言う。若くして天台きっての傑物と評判が高かったが、義満亡きあと、権力を握った兄の義持が跡継ぎを指名せずに亡くなったために、にわかに将軍候補に担ぎ出された。
選考方法は、なんと籤引きである。他の三人の候補とともに、義教は運命を籤に委ねられた。その際、
「神意を授けに参りました」
義教の元に、とある尼僧が訪れたと言う。それは三十過ぎの匂い零れるような色気のある、年増の女だったとされる。どこから手に入れたのか、女は『鬼室』を携えて現れたのだ。戸惑う義教に、
「これは御所様が秘蔵のお品」
と、女は茶碗の来歴を説明し、こう断言した。
「日本国王たる公方様が、お持ちになるにこれほど相応しきはありませぬ」
「以後の強権ぶりは、京の者なれば存じていよう」
初震姫は半眼のまま、小さく頷いた。
「『鬼室』を手にした後は、意に染まぬものは下女の端から、辻坊主まで害する万民恐怖の殿。その威勢で関東公方、足利持氏一族はじめ数多の武家を滅亡に追いやり、果ては叡山を焼き払った。古今無二、とは申されねど稀有のお方と心得まする」
「ふん、おのれまるで今、見て来たかのような言い草ではにゃあか」
このやり取りのさなかで五鶯太は密かに声を呑んでいた。初震姫の皮肉は、苛烈過ぎたのだ。気運に従って雲霞の中から登場し、京都を席巻し、従わぬものは武力と恐怖でねじ伏せ、挙句に、叡山を焼き払う。これぞまさに織田信長の半生そのものではないか。
「茶碗は応仁の頃までは、東山にあったとある。だが、先年、あの貧乏将軍めがこの京を退去する折、御所よりいつの間にか消えたと言うのだでや」
信長が顔をしかめて貧乏将軍と言うのは、足利義昭のことだ。傀儡に等しい立場だった室町最後の将軍義昭は信長に反逆を企てたが露見し、西国の毛利家を頼って落ち延びたのである。
「では『鬼室』は、公方様が?」
「いや、持ち出したはあの坊主上がりではにゃあわ」
信長は忌々しそうに唇を噛むと、言った。
「持っていきおったは、正真正銘の坊主よ」
将軍家の同朋衆で一人、奇僧がいた、と言う。
「名を九品と申したとか」
それはまだ二十四、五の青年であり、頭を剃りこぼっていながらも匂いこぼれるような美形だったらしい。評判の学僧だった。王朝の故実に通じ、語学にも堪能で漢詩も読む上、顔相を診る。そのため足利家の侍従から公家の子女まで、浮名を流した数は知れず、と言う。
「調べたが、どこの馬の骨とも分からぬ」
しかしこの九品、義教が出た青蓮院門跡の学僧であったそうな。その僧が足利将軍退転に伴い、宝物の売却を持ちかけてきたらしい。時に義昭、危急の折である。
「委細任せる」
九品は直ちに宝物を横領し、売り払った金で逃走したと言う。
「我も所司代に命じ、急ぎ兵を差し向けたのだが間に合わなんだ」
事前に計画をしていたのか、運搬の人数は言うまでもなく売却ルートから、堺からの密航の手配も済ませてあったらしい。
「九品は、西国から九州に渡ったと謂う」
「九州に伝手が?」
信長は白皙の頬を引き攣らせた。
「皆目分からぬ。されど九品は一人ではなかったのだでや」
「同道は、清げなる三十ばかりの尼僧でありましょう?」
初震姫が突然切り出すと、信長は大きく目を剥いた。
「いかにも。まるで義教公に『鬼室』を授けた、かの尼僧がごとき年増よ」
まさかこの二人、正気なのか。
五鶯太は一瞬そう、訝らざるを得なかった。九品、と言う僧の話は別として、その尼僧が義教に鬼室を授けた尼僧であるとするならば、悠に百年越しの出来事なのである。
「無論、九品が賢しらなるはったりと利かせたと言えなくもにゃあが」
確かに、信長の言うようにその件の尼僧が鬼室を取り返しに来た、と言えば、ただ簒奪していくより説得力はあろう。
「いえ、本人でしょう」
しかし初震姫は、信長の前で、しらっとした声で言うのだ。
「名も知れております。その者は、赤震尼。星震の郷ではその女を、多年探しております」
「上手くいきましたね」
初震姫はにこやかに言った。五鶯太は自分が今、ここにいることすら信じられない思いだ。しかもあれから何と、信長は自ら筆を寄せ、領国内での振る舞い自由を許可する証書を書いてくれたのだ。
「首尾よう行けば、その『鬼室』、我が屋敷に持ち寄るがよいわ」
なにしろ、織田信長自筆の花押の入った『廻国勝手差許』である。これでどんなことがあっても、織田の領国内では自由に行動が出来る。確かにそれは五鶯太にとっても悪いことではない。だが、
(つくづく、何者なのだ)
思えば思うほど、尋常な芸人とは程遠い。五鶯太が把握できる常識の範疇からは、推し量ることも出来ない。
(それにだ。あの星震の太刀)
「折角だ、舞わぬか。その星震の太刀で一差、雨の座興に所望したい」
去り際、信長が所望した。初震姫は、剣舞が舞えると言うのだ。五鶯太はそれで初震姫が持ち歩いている戒状杖に刀身が仕込んであることを知ったのだが、またその中身を抜きはらった姿を見て、愕然とした。
刀身が、墨のように黒いのだ。
だけではない。薄く入った刃紋と峰の流れに従って点々と、ぼんやり蒼い彗星のような斑点がにじんでいたのだ。五鶯太も神人として数多の奉納刀を見てきた。しかし、これほど見事な奇名物は、見たことも聞いたこともない。
人呼んで、星震の太刀と謂う。
初震姫はそのしなやかな身体で太刀をとり、土砂降りの雨の中を舞った。五鶯太はやむなく鼓をとったが、星震舞と称するそれは、思わず伴奏をも忘れるほどだった。
黒雲立ち込める泥沼と化した雨の庭の景を背に、篝火の灯りに凄みもいや増して初震姫はまるで、人とは別の生き物のように細長い手足を縦横に泳がせて、星震の祈りを舞い踊ったのだ。
雷鳴が轟いて、間近で濡れた木が打ち倒れる音がした。
五鶯太は、はっと静寂を破られた。
「五鶯太、誰か来ますか」
初震姫の声に顔を上げてみて思わず、腰が抜けそうになった。初震姫と自分の行く手に、赤備えの甲冑武者がずらりと並んでいたからだ。松明がおぼめく中、ひと際大きな甲冑をまとった面頬武者が、槍を掲げておらびあげた。
「大人しくせえ。織田の殿が、その星震の太刀を所望ずら」
「甲州弁ですね。織田家には、珍しきこと」
冷静な初震姫の切り返しに、相手は鼻白んだ。
「赤目源平太!おのれやはり、織田家の禄を食んでおったか」
五鶯太の驚愕の声が降ると、源平太は憎々しげに舌打ちした。
「ふん、おのれ、富士のすっぱ侍か。目の見えぬ女と連れに小僧が一人ゆえ、刀を脅しとったれば、生きて返してやろうと思うたが」
五鶯太は思わず辺りを見回した。ここは、京都に多い小路だ。右に土塀、左は篠藪で見晴らしは極端に悪い。加えて折からの土砂降りだ。足元はぬかるみ、とても斬り合いの出来る状況ではない。
(逃げられる)
五鶯太は懐に手を入れると、目頭で合図をした。仇敵に遭っておきながら不甲斐ないが、ここは逃げて他日を期すに限る。
しかし初震姫は、逃げる様子もなかった。
「ふうん。つまりあれが、五鶯太の仇ですかえ」
呑気に言うと、ふらふらと歩み出て腰を落とす。まさか女の身で、ろくな防具もなく、甲冑武者と斬り合いでもしようと言うのか。
「手を出すな」
源平太はそれと分かったのか、槍を捨て打ち刀を抜くと、左手をがら空きにして大きく腰を落とした。
「久方ぶりに首が掻ける。それもやわこい女子の首ずら」
源平太もまたいくさ場で、女を殺すのを趣味にしていた。餌食になれば無惨だ。その場で皮を剥がれ、腸まで掻きだされるだろう。
「やめろっ、逃げるんだっ!」
五鶯太が叫んだ時だった。
威嚇する獣のような気合いを発して、源平太が突貫した。姿勢を低くして構えた甲冑武者は、唯一の弱点である重心の悪さを完全に補っている。このぬかるんだ足場での最大の懸念は不意に足を取られることだが、源平太は熊のように獲物に組み付いて直接息の根を止める方法をとるのが常だった。
この源平太とは、斬り合いにすらならない。剣など振る暇もなく、押し倒されて、潰し殺されるだけだ。
初震姫は、星震の太刀を低く垂れたまま、構えている。あの細い柳腰につま先立ちの姿勢では源平太を受け止める術はない。まさに紙の盾で砲丸を受け止めようとするようなものだ。
ふわりと足を使う初震姫は源平太と交錯する間合いに到って、星震舞の続きを踊るかのようにしている。途端、姿勢を低くした。このままではただ、相手の術策にはまるようなものだ。源平太がその惨死を覚悟した瞬間だ。
どん、と言う重い音とともに、刃が源平太の頸の脇から背に向かって通り過ぎるのを五鶯太は見た。
(う、うそだ)
星震の太刀が、黒く血で濡れている。源平太は、自分が斬られたことを認められない、とでも言うように声をわななかせてから、こと切れた。
斬った。
誰もが驚愕の声を呑み込んだ。
初震姫は逆手に持って抜刀していたのだ。だが、誰もが何が起こったのか分からなかった。見逃していた盲点があったのだ。そこは露が落ちるより一瞬、針の隙より小さい。誰もが狙わない瞬間、それは。密着での間合い、一瞬、相手を捕捉するために兜が動いて隙間が出来る。言うまでもなく、頸のあわいには致命の動脈が走っている。
初震姫の居合は寸分たがわずそこを、通したのだった。