失われた記憶
『天使の竪琴』。
一年程前、わたしはその楽器に手を触れたことがある。楽器なんてまるで出来ないはずのわたしが不思議にその楽器を使うことが出来た。しかも緋の髪の踊り子、あの世界最高とまで称せられる彼女はその音を非常に気に入って何回でもこの音なら踊りたいと言った。緋の髪の踊り子は…リズは一人の演奏じゃ一回しか踊らないのに。でも次の日になるとわたしはもう天使の竪琴を奏でることは出来なくなっていた。
リズは凄く悔しがった。他の天使の名を冠する楽器ならもう一回あの音が出せるんじゃないかって言い募った。探そうと言った。
わたしには記憶がない。二年前リズに拾われた。記憶を失う前のわたしは一体どんなやつだったんだろう。天使の名を冠する楽器を記憶を失う前のわたしは知っていたようだったけど。今は思い出せない。けれどそれはきっと失われた記憶の手がかりになるはずだ。
天使の名を冠する楽器と失われた記憶を求めて…わたしとリズは旅をしている。
っていうと格好いいけど現実は天使の竪琴と出会う前と全く一緒。あの頃も旅をしていたんだから全然変わらないんだった。
「リーズー。あのさぁ、もう路銀ないんだけど。どうしよう」
「知らん」
ってきっぱりと…。何だかな。
「一回踊りゃいいんでしょ」
「その一回が大変なんじゃん。この町でリズの満足する音が見つかるの?」
「知らん」
思わずわたしは砕け散りそうになっている。もうリズはっ。
でもしょうがない。リズは芸術家。芸術家という人種はどうしようもないものなんだ。そんなことはリズと二年も一緒に暮らしているわたしが一番承知している。
リズは本当に凄い踊り子でどこに行ってももてはやされる。普段のリズは炎のような赤い髪が目立つだけで平凡な少女に過ぎないけど、踊っているときの彼女は人ではないように思える。『緋の髪の踊り子』というのが彼女の通り名だ。ただ困ったことに満足する音でしか踊らないし、踊っても一人の演奏じゃ一回きりだから。次々と新しい演奏家を探している。でも近頃では専ら天使の名を冠する楽器を探してわたしに演奏させようとしている。それがリズが本当に求めている音だと言って。
わたしは自分が天使の竪琴を演奏できたのが既に奇跡だと思ってるから無理なんじゃないの、とか見つからないよ、なんて思って諦めていたりもするんだけど。
「ねえ…」
声をかけようとしてわたしは止まった。このリズの夢見る表情には非常に!非常に!覚えがあるのだ。緋の髪の踊り子が望む音がそこにある。
「ユール、聞こえない?いい音だよ。澄んだ音。細いけど、凄く凄く遠く高い音。透明でまっさらで汚されない音。こんなの、知らない」
鳥肌の立った肌をわたしに見せた。リズは震えのはしる身体を自分自身で抱きしめて、その音の出所を探していた。
「三度目、だよ」
囁く言葉。その言葉の意味するところをわたしは知っている。初めて聞いた少年の横笛、それがリズの踊った初め。わたしが弾いた天使の竪琴の音、リズがはじめて二回踊ったあの音。そうして今この、耳にしている音が、三度目だった。リズの満足する音。
わたしもリズに倣って耳をすませた。道を行く馬車の音、立ち話するおかみさんの声、いろんな音が聞こえる町の中でも。探せばその音はすぐつかむことが出来た。
ああ、横笛の音だ。
「町の、北のほうだね」
リズは呟いて歩き出した。わたしを一顧だにせずにだ。全く音には貪欲なんだから!
音の出所はすぐにわかった。どうも重厚そうな塀があったりして町の有力者っぽい…えーとよく見れば町長さんのお屋敷って感じのするお家だった。
「横笛の音だよね、リズ。今演奏してる曲って『ファデルタの夕べ』かなあ」
『ファデルタの夕べ』っていうのは横笛でいえば超基本的な、多分平易な曲だった。その子供が吹くような簡単な曲が芸術的なまでの段階に高められていて、相当珍しい現象と言えたかもしれない。
「…凄くいい音だけど、でもどこか、綺麗過ぎるし、温度のない…」
リズは何かに気付いたらしい。つかつかと門を開けて勝手に玄関へと歩いていく。
「ちょっと先行かないでよ」
わたしの声が聞こえていないな、これは。全く集中力があると言うのか、…ねえ。
リズが呼び鈴を押すとしばらくして家の人が出てきた。どうやらメイドっぽい感じのワンピース姿の若い女性だ。
「はい、何か御用でしょうか?」
「あのさ」
おいっ、敬語を使え、リズ。国王にだって敬語を使わないあんたのことだからしょうがないけどっ。わかってるけどっ。常識ってもんが世の中には存在するのに。
「この横笛、誰が吹いてんの?会わせてもらえない?」
「え…」
メイドさんはびっくりしたような顔をして、当惑に首を傾げてからふと思いついたように
「ちょ、ちょっとお待ちくださいませ」
そう言うと引っ込んでしまった。
「あたし、何か変なこと言った?」
振り返ったリズの方が当惑の表情は濃かった。わたしはリズの非常識さ加減をよく知っているけどだからといってリズが今言った言葉のなかで不思議なものを発見できずにいた。
「別に、変なことは言ってないと思うけど。なんかまずかったのかな」
「うーん」
二人で悩んでるとさっきのメイドさんがまた出てきて今度は応接間に通された。
趣味のいい、上品そうな部屋だった。飾られている絵もわたしが知っているような有名な絵描きさんのものではなかったけど、かなり上質でいいものだった。全体的に暖かい雰囲気の漂う。どこかくつろげる部屋だった。
でも一体なんだろう。わざわざ応接間に通してくれたということは笛を吹いている人に会わせてもらえるのかなあ。
そんな風にしてちょっと待ってると町長さんらしき人が部屋に入ってきた。部屋の雰囲気に似たり寄ったり、人の良さそうな上品そうな壮年の男の人だった。
「私はこの町の町長をしているものですが」
わーい、本当に町長さんだった。…なんて喜んでいる場合じゃないけど。
「笛の音が聞こえたのはどちらの方でしょうか」
わたしとリズは顔を見合わせた。どちらの方と言われても…。
「二人ともですけど?」
わたしの返事に町長さんは驚いた表情をする。何でだろう。
「お二人ともですか…。実は私達には笛の音は聞こえないのです。この笛を吹くことの出来る者だけが笛の音を聞く資格を持つというのです。今は誰も吹いてはおりません」
「え、でもさっきからずっと音は聞こえてますよ」
「いえ、それでも誰も吹かずともその持ち主たるものが現れぬ間、笛はひとりでに鳴っているのだということです。…もともと、笛は預かり物でして笛の音を聞くことが出来るものに渡してくれと頼まれておりました。どうぞこちらへ。笛をお見せしましょう」
ひとりでに鳴る笛なんてあるのかな。しかも聞こえる人間が限られてるなんて。そんなの奇跡みたい、現実じゃないみたい。
町長さんに導かれて部屋を出たところで、それまで黙っていたリズが唐突に尋ねる。
「その、笛ってさ『天使』の名を冠した楽器なんじゃないの?そういう音がしているんだけど」
それがリズがさっき気付いたことなんだろうか。わたしにはそんなのわからなかったけど。でも、そうなのかな。確かに普通の笛よりも透明で広がるような音だったけれど。
でも町長さんは驚いて振り向いて。
「どうしてそれを?」
「だから音で。あたし、前に『天使の竪琴』の音を聞いたことがあるから。それと同質の感覚がある。でも誰も吹いてないのは当然かもね、音に温度がない、個性がないもの」
本当にリズの耳は凄い性能なんだな、とわたしは改めて感心してしまった。
「…………」
でもちょっとなんか町長さんが疑いの眼差しで見てる。そりゃあそうかもね。詐欺師かもって疑うのが当然かもしれない。知りすぎている。元々知っていたみたいに。
「あの、リズは踊り子なんです。『緋の髪の踊り子』って聞いたことありませんか?」
この台詞で大抵の人は納得する。
「あの、高名な?」
「後で踊ろうか。この音でなら踊れるよ」
町長さんは『緋の髪の踊り子』が気に入った音でしか踊らないというのを知っていたようで納得してくれた。多分、この笛に自信があるんだろう。
やがて廊下の東の端に行き当たった。つまり壁である。どうするつもりなんだろうと思ってみていると彼は備え付けのランプを捩り、壁を押した。
「隠し扉…」
凄い念の入れよう。大事なものなんだ。大事にしてきたものなんだ。そりゃあ『天使の横笛』なら大事にしておかないわけがないけれど。
中に入るとまず等身大の彫像が目に入った。
そしてそれから台の上に置かれている箱。質素な木の箱だった。
町長さんは箱の鍵を開けて、箱を開いた。
中にあったのは銀色の横笛。確かに音はこれから出ていた。
「これが天使の横笛です。二十数年前、楽天使が私にお預けになったものです」
「楽天使?」
「はい、その彫像がかの方のお姿を映したものです」
そう言われてわたしは彫像を見た。美しい天使の像。中性的な印象をした天使。その瞳は閉じられている。その額には涙形をした額飾りがつけられている。ゆったりとした長衣を身に纏い、その肌の露出は可能なまでに控えられている。その彫像を作った者の技能もさることながら、あまりにも美しい天使の像だった。
「楽天使はいつかこの笛の音を聞くことの出来る者が現れる。その者はこの笛を吹くことが出来る。そのものに渡す為にしばしこれを預かっていて欲しい、と」
「これが楽天使?…じゃあおっさん、楽天使に会ったことがあるってこと?」
「ええ。かの方は軌跡のような美、いえ音楽そのもののようなお姿…」
町長さんが感嘆の溜息をつくのがわかった。リズは首を傾げてしげしげと像に見入っている。わたし、わたしも像から目が離せなかった。
「天の楽士ならどんな音楽を奏でるんだろう」
リズは呟いて、それから町長を振り返った。
「楽天使に名前ってあんの?」
「はい、私はその名をお聞きしましたが。かの方の御名は」
「レフィル」
自然とその名を口にした。どうしてだかはわからない。でも当然のようにその名なのだと知っていた。
彫像を見つめているわたしの視界の隅で町長さんが驚きの表情を浮かべるのがわかった。
「そう、確かにレフィルと。しかし私はそれを誰にも言っていないはずなのに」
レフィル。でもわたしは知っている。知らないはずがない。
そしてわたしはそのまま言い続ける。頭の隅で疑問を感じながら。
「黒と白の二枚の翼を持ち、時として虹色に輝く銀の髪と決して開かれることのない双眸。額には楽天使の証を掲げる。その身は両性具有なる完全存在。他の天使とは一線を画す無位の天使」
リズも驚いてわたしを見ているのがわかる。けれど止まらなかった。
「善ではなく悪でもない。正ではなく邪でもない。嫉妬や羨望や負の感情を知ることのない…、最後の正当な楽天使」
「ユール…?」
どうしたの、とでも言いたげなリズの顔。
「楽天使レフィルが最も好んだ楽器は横笛だった」
ふっと目の前が暗くなった。ぐらりとよろめいたわたしを支えてくれたのは多分リズ。
わたしはそのまま気を失ってしまったようだ。
夢を見た。脈絡のない映像と言葉が次々に浮かんでは消えていく。それはわたしの失った記憶なのか、それとも他の…?
紛うことなき天の情景。忘れえぬ、あの御国。白い羽の天使。楽天使を目指す白黒翼の天使と、光り輝く神々の。あの美しき方に捧げる全て。
舞を司る女神サーフィル。吟遊詩人の守り神にして真実の女神たるエナ。楽器職人の神ガンゼル。それから誰よりも…。
『私が何をしたと…?』『…楽天使の額飾りは…』『あの、座が欲しかったのだよ』『わたしがしたことは、わたしがしてしまったことは…』『争いに巻き込まれるぐらいならば、ここから消え失せたいと』『あの方に罪などあるはずが!』『もうどこにもいられない』『音楽を取り上げるぐらいならば殺せ』『あなたが全て悪いんだ』『お前が、やったのだね…?』
堕ちていく。黒と白の翼の天使。半狂乱になっている少女。薄笑いを浮かべる天使。
目が覚めた。二日酔いのように頭が痛んだ。ぐらぐらと回る世界で気分が悪い。釈然としない記憶がわたしを責め立てる。
起き上がり、枕元に置かれた水を手に取るとちょうどリズが部屋に入ってきた。
「起きたの?…大丈夫?」
「…うん、まあ。ここは?」
わたしは見慣れぬ、勿論普段から旅慣れている以上見慣れぬ部屋で目を覚ますことはたびたびなのだが、全く見たことのない天井と部屋を見回し、そう尋ねた。
「町長さんの家。ユール、突然倒れるから部屋貸してくれた。びっくりしたよ」
リズの表情で本当に心配してくれていたことがわかる。これまで心配なんてしたことはあってもされたことなんてない。異例尽くしだ。あの、天使の竪琴に出会ってから。
でも何なんだろう。あの夢は。わたしの記憶…?それともあの横笛の記憶なのだろうか。もしかしたらわたしは本当に楽天使に関わる人間だったのかもしれない。
「ねえ、リズ。夢を見たよ。多分楽天使の夢。わたしがさっき知らずに言ったことが真実なら、黒と白の翼を持つ楽天使は堕天したの。…よく、わからないけど。そうなんだと思う」
「…そう」
リズは訊かなかった。詳しくは訊こうとしなかった。それがリズの優しさだと知っている。それがリズの方法だと知っている。そしてわたしは考え込む。
なんだろう。何か忘れている気がする。忘れてはならないのに。覚えておらねば、再会も、贖罪すらも夢になる。
贖罪…。贖わねばならぬ罪。この身は罪人だったの。知らない、知らない!そんなこと!
だけど思い出さなくちゃ。このままではいられない。
「ねえ、リズ。わたしあの笛に触れてみたい」
笛は手に馴染んだ。覚えのある感触。あの天使の竪琴に触れたときのように、覚えがある。記憶は失ってもこの手だけは真実を物語る。胸の奥で暖かいものが広がっていった。懐かしい、忘れえぬ…。
リズと町長さんが見守る中、わたしは笛に口をつけた。
曲をあまり知らないはずの、横笛なんて吹けないはずの、わたしの手が勝手に動き出す。
『忘却の唄』。
笛からのメッセージ?それとも失った記憶からのものだろうか。自然と奏でたその曲は、忘却をわたしに勧める。
どうして、どうして?だってわたしは何者なの?わからないままならそれでもよかったはずだ。知らないままならリズと二人旅を楽しく続けることが出来たはずだ。だけど思い出してしまった。欠片でさえ断片でさえ思い出してしまったら最後。
背中が疼く。この背には翼があったのだろうか。
わたしは誰?
半狂乱になって泣き叫ぶ少女がいた。薄笑いを浮かべる天使がいた。天を堕ちていく天使がいた。そのなかの誰であっても不思議はない。そのなかの誰でなくても不思議はない。
でも絶対にわたしはレフィルではないだろう。だってレフィルは両性具有だもの。
絶対に?ううん、違う。もしかしたらそうかもしれない。レフィルが二つに分かれたとしたらそうかもしれない。だって知ってる。いたことを知っている。わたしと同じ…似た音を出す人。リズ。そうだ、リズが踊った初め。一人の少年の笛の音。それがレフィルかも。
わからない。何も。わたしが誰なのか。失われた記憶の中でわたしが何をしてきたのか。
いつの間にか曲は終わっていた。
わたしは泣いていた。涙は止まらなかった。
「ユール…?どうした?」
リズの声。リズの…。
「リズ。探したいの。思い出したいの。わたしは誰なの…?」
「ユールはユールだろ。でも記憶を探したいなら付き合うよ。それで何があってもあたしは味方でいてやるから」
優しい腕がわたしを抱きしめてくれた。
いつまでも泣きつづけるわたしをリズは抱きしめつづけてくれていた。
今、ここがわたしの居場所。ここ以外にわたしのいる場所はない。
「わたしは…」
本当にリズがいてくれてよかった。もう、怖くない。
「んで、どうしようかね。これからさ」
「どうしようと言われてもこれまでと変わらない生活だよね。探している人は同じなんだし」
人探しの旅。リズが十一年前に出会った横笛吹きの少年。当時十代半ばだったっていうから今は二十代半ばのはずなんだけど。
彼は楽天使かもしれない。楽天使じゃないにしても彼はわたしに関わる人だ。だってどうして彼は普通の笛で天使の名を冠する楽器をわたしが演奏したときのような…リズが満足する音が出せるんだ。特別、なのは間違いない。何か手がかりにはなる、きっと。
「そもそも楽天使が地上にいるっていうのから信じにくいけど」
「でも、いるよ。レフィルはいる。レフィルがどんな姿を今しているのかは全くわからないけど絶対地上にいる。わたしはまだ記憶が戻ったわけでもないけど記憶があったとしても知らないことかもしれないけどとにかくそれだけは断言できる」
「そういうもんかね」
なおリズはこだわっているようだけどそれでもわたしを信じてくれてるんだなと思う。時々わたしがリズの側にいていいのかと思うことがあるけど。
町長さんに天使の横笛をもらって。(路銀はそれを使ってたんまり稼いだ)わたしとリズはまた当てのない旅に出る。どうせ決まった家を持たないから全然構わないのだ。そういえばリズの家族の話って聞いたことがないな。
「ユールはさ、自分が何者だと思ってるんだ?」
「何よ、突然」
「だからどういう性格だったとか今の状態から想像してみない?」
想像してみろと言われてもね。わたしは腕組みをして考え込んだ。
「今と、あんまり変わらないと思う。きっとその頃のわたしもリズみたいな知り合いがいて振り回されていたんだろうなって」
「振り回されると言うより振り回してるよ、ユールは。あたし、ユールがいてよかったって思ってるもん」
何だか一年前にもこんなことを言ってたな、この人は。どうしてだろう。
リズが伸びをしながら独り言みたいに呟く。
「あたし一時期踊りやめようかと思ってたんだ」
「ええっ、リズが?」
そ、そんなの無理だよ。だってリズは踊りそのものじゃない。
もう慌ててわたしはそんなことをまくしたてた。
「だから。自信はあったよ、それまでの自分にね。だけど…それ以上に進めなくなっちゃってさ。探している音は見つからないしね、もう踊ることもやめて死んじゃえばもしかしたら天国で舞の神様サーフィルに会えるかな、なんて思ったりしてたんだけど…」
意味ありげに言葉を切る。
「その頃に川に流れているあんたを見つけたんだ」
か、川に流れている…凄い表現だな。それはやめてといつも言ってるけど実際わたしは川に流れていたらしい。
その時にはもう記憶がなくて。ユールという名もリズがつけてくれたんだ。
「あたしはびっくりした。ユールを見たときに思った、音楽そのものだって。音楽を形にするとこんな姿になるんだろうって。まだ、大丈夫。知らない音がある。まだここで踊らなくちゃと思った。…だからあたしはあんたがたとえ楽天使でも驚かないよ」
うーん。うーん。そんな過去が。しかしわたしのどこが音楽なんだ?リズのように目立つところのない、ただの地味な女の子だ。リズの感覚がおかしいのかな。
「ねえ、ユール」
たかたか前に走っていったリズが振り向いた。気付けば私たちはちょうど広場に来ていた。ああ、なんとなくリズの顔で見当がつく。次に出てくる言葉。
「一曲やろう?」
尋ねるというよりは宣言に近かった。
そんなに踊りたいのかな。
天使の横笛は竪琴のときのように演奏できなくなるということはなかった。本当に初めからわたしのものだったかのように自由に扱える。
「やりますか。でも一曲だけね。これから旅に出るんだからさ」
「わかってるさ」
とても嬉しそうな顔でリズは笑った。
それがあんまりにも嬉しそうなのでわたしもつられて笑ってしまう。
「行こうよ」
「どこへ?」
真面目にわたしは訊き返す。
「もっともっと高いところに。辿り着けるよ?二人ならさ」
「辿り着けるかな」
「きっとね」
…その時のリズの舞はいつも以上に素晴らしかった。