隣の魔王さま
4月1日。
真っ青な空と陽光に透ける満開の桜の花びらのコントラストが美しい季節。
まだまだ朝方は上着がないと肌寒いが、ひんやりとした空気は寝起きの頭を覚醒させるのにちょうどいい。
私は引っ越したばかりの部屋の片づけもそこそこに、短パンとTシャツといった簡素な姿で挨拶用のタオルセットを持って玄関を出た。
私は角部屋なのでお隣さんは一人。表札を確認すると「田中一郎」さんというらしい。
今時珍しいくらい平々凡々たる名前だ。
こんな名前で見た目や中身がかなり突飛なタイプの人間だったらどうしよう。
ちょっと緊張しながら、インターフォンを鳴らす。
ぴーんぽーん。
扉はあっけないほどあっさりと開いた。
ふわりとダシのきいた味噌汁の良い香りがする。
「はいはーい。……だれ?」
中から出てきたのは中肉中背、黒髪黒目のごく一般的な20代前後の青年だった。
「今日から隣に引っ越してきた者です。よろしくお願いします。これ、タオルです。良かったら使ってください」
タオルを差し出すと田中さんは少し戸惑いつつも、タオルの箱が入った紙袋を受け取って頭を下げる。
「あ。ああ、どうも。田中です。よろしくお願いします」
挨拶もそこそこに私は部屋に戻ってほっと息をついた。
お隣さんが人畜無害そうな人で良かったー!
ふかふかのベッドにごろりと横になる。
部屋は荷物だらけだが、一番最初に整えたベッドは安全地帯、憩いの場所である。
明日から新しい勤務地での仕事だが、幸先いいスタートに満足しつつのんびりとお昼寝をした。
****
深夜1時。
くぐもったうめき声のような声に起こされ、私はぼんやりと天井を見上げた。
のろのろとベッドから起きてシャワーを浴びる。
寝汗を書いて火照った体に、少し冷たい水の感触が心地いい。
「あー。眠い……」
バスタオルで体を拭きながらベッドルームに向かい、髪の毛から水気をとる。
ここ、壁薄いのかな?
そんなことを考えながら、ぼんやりしているとその声がうめき声ではなく女性の喘ぎ声のように聞こえて私は眉根を寄せた。
しかもどうやらそれは、一か所から聞こえてくるようだ。
ベッドルームに積まれていた段ボールを次々にどかしていく。
段ボールをどかしたその先に現れたものに私は絶句した。
―――穴だ。白い壁にありえないくらいにぽっかりと手の平サイズの真っ黒い穴が開いている。
そして、その穴から女性の艶っぽい声が引っ切り無しに、聞こえてくる。
「ああ~ん、魔王様ぁ」
聞こえてきた悩ましい声に私は思わずぶほっ!と吹き出してしまった。
え? え? 今、なんつった?! 魔王様とか聞こえた気がするんだけど!
えー、田中さんって、何というか……特殊な性癖をしていらっしゃる。
平凡を絵にかいたようないでたちで、彼女に魔王様と呼ばせるプレイとか意外過ぎてヤバい。
笑いをこらえることができずに喉が、くくくと引き攣ったように鳴る。
「……誰だ」
穴の中から低く、人に命令することになれた声が咎めるように向けられる。
誰だとはこっちの台詞である。
えーと、田中さんって家だと人格が変わるんだろうか?
心なしか声まで変わってる気がする。
「我は誰だ、と聞いているのだ」
田中さんは特殊な性癖だけではなく、中二病まで患っているらしい。
ぼすん、と何かを投げる音がして女の人の悲鳴が聞こえた。
しかも、女性に暴力も振るっているようだ。
「最低」
胸にこみ上げてきた感情を吐き捨てるとこんな言葉が出てきた。
「……は? 」
穴の向こう側にいるであろう田中さんがなんだか間抜けな声を上げているが、私はその穴を段ボールで塞ぐとさっさと横になる。
いつの間にか時計は3時になっていた。
明日は挨拶だけだから、まぁいいけど。
翌朝、エレベーターの前で田中さんと遭遇した。
取りあえず笑顔で挨拶すると田中さんも何事もなかったかのように、少しはにかんだ様な笑顔で挨拶をしてくれる。
いったいどういうことだろう?
田中さんはもしかしたら心の病気なのかもしれない。
疑問に思いつつも、本人に直接訪ねるには時間が足りず、とりあえず様子を見ることにした。
それからというもの、毎晩夜になると穴を通して壁の向こうの田中さんとの言い争いが続く。
「安眠したいので、夜は静かにしてください」
「お前は一体誰なんだ。なぜ我の寝室を覗いている」
「覗きとか言うな! 」
安眠したい私となんだかとっても偉そうな田中さんのやり取りは、かみ合っているようで全くかみ合っていないせいか終わりが見えない。
それでも根気よくやり取りを続けていくと、どうやら田中さん人の温もりがないと眠れないらしい。
「なるほどなるほど。要は田中さん、さびしがり屋さんなんですね」
「この我にそのような口を利くとは全く恐れを知らぬヤツよの。して、なぜそう思うのだ」
「いやー、要は他人の温もりが恋しいってことなんじゃないかなって。だったら、不特定多数の女性と関係持つより、愛し愛される恋人を持って心身ともに満たされるといいんじゃない? あ。でも夜に安眠妨害はやめてね。魔王さま」
私のざっくばらんなアドバイスに田中さんは黙り込んだ。
眠くなってきたからそろそろ寝ようかな。
と考え始めるほど長い沈黙の後、田中さんはぽつりと言葉を漏らした。
「だが、伴侶となると難しい」
「どうして? 」
「伴侶ともなれば、我と同等権力と財を有することになる。ゆえに、我の一存では決められぬ」
要約すると、田中さんはお坊ちゃんで、結婚相手や恋人選びに親族が口を出してくるってこと?
「えー。自分で選べない結婚相手とかさ、どうなの? 私は絶対嫌だけど。一生一緒に居たい!って思える相手と以外絶対に結婚したくない! 」
若干興奮気味にまくしたてると、田中さんは穴の向こうで大笑いしていた。
「お前は分かりやすくていいな。まるで幼子のようだ」
「うるさいなー! じゃあなに。政略結婚に唯々諾々としたがうのが大人なの? 」
殆ど言いがかりのような絡み方をすると、再び田中さんは黙り込んだ。
今のは流石に怒っちゃったかな?
「そうだな。愛など下らぬと、伴侶など必要ないと思っていたが……」
一言一言かみしめるように田中さんが、呟く。
そうそう、やっぱり好きな人と結婚するのが一番だって。
言葉の先を想像して頬を緩めていた私は気づかなかった。
穴の中から唐突に出てきたはっとするほど白い手に。
気づいた時には目の前が真っ暗になっていた。
私にわかるのは、花のようなほんのり甘い香りと、腕が誰かに掴まれていることだ。
失明したのかと思うほど、何も見えなかった私の視界がぼんやりと戻ってくる。
と、同時によろめく体が誰かに抱き留められるような感覚があった。
滲んだ私の視界に移るのは闇の中でも燐光を放つ艶やかな銀髪と煙るような紫の瞳、燭台の明かりにしっとりと照らされた白磁の肌―――現実感がないほど美しい造作の人だった。
中性的ではあるが、清雅な目元と硬質な線を描く唇が浮かべる笑みから判断するに恐らく男性であろう。
ざわりと肌が泡立ち、身震いするほどの妖しい色気をまとったその人は日本人離れしているというか、人間離れしている。
神秘的な色合いの紫瞳をじっと向けられ、背筋がふるりと震えた。
「なんだ。どんな猛女かと楽しみにしていたのだが、意外と可愛らしい」
ふ、と頬を緩めて脳髄に染み入るようなティノールで男性が笑う。
骨ばった白くて長い指が耳をくすぐり、頬を伝って首筋を這う感覚に身をよじって逃れようとするが、この男、見かけによらず力強くて身動きが取れなかった。
「えっとー。あの、だれ? 」
真っ白になった頭で何かを言わなきゃと、開いた私の口から出てきたのはそんな言葉だった。
が、男性は私の言葉に悦に入ったようにくつくつと笑い、直視するのがためらわれるほど美しい顔を寄せてひそりと囁く。
「我はお前の伴侶だ。よろしく、我が花嫁どの」
ふわりと漂う花の香りに私の頭はくらりと揺れた。
「はあっ?! ええ? 一体どういうことー! 」
そこからの展開を要約するとこうである。
穴を抜けたらそこは異世界でした。
穴は一方通行らしく、元の世界に戻れないことが確定した私はそのままなし崩しに田中さん(仮)と結婚することに。
田中さん(仮)の寝室から一切出してもらえず、他の人と話しする機会もなかったので直前まで気づかなかったのだが、なんと!田中さん(仮)は本物の魔王さまだったらしく、自動的に私は魔王さまの奥さんになってしまった。
どおりで魔王プレイが堂に入っていたはずである。
「うう、どうしてこんなことに……あの穴さえなければ……」
結婚式当日。
私は純白の豪華なドレスを着せられ、これ以上もないほど豪奢な宝石で飾り立てられて項垂れていた。
体が重たすぎて動くのもしんどいんです。
「どうした。気分がすぐれぬのなら延期するか」
式まであと一時間もないというのにそんな勝手を言う魔王さま。
王族とか貴族とかなんやかんや凄い人たちいっぱい集めて、宮殿が一つどころか3つくらい立つほどのお金と時間をかけて準備した結婚式なのにそんな簡単にドタキャンしていいわけがない。
でも、ここで頷けばたぶん結婚式は中止になる。
メイドさんとか執事さんの態度から察するに、とても恐ろしい人のようだけど私をこうして気遣ってくれたりと妙に優しいもんだから、全力で振り切ることもできなかった。
「私、結婚は好きな人としかしたくないです」
「なら我を好きになれ」
真顔で言い切る魔王さまは威厳に満ち、冷たく輝く月光を受けて大変美しいが、言っていることはむちゃくちゃである。
「いや、そんな簡単な話じゃないんですけど」
「我はお前を好いている。魔王を魔王とも思わぬ不遜で、知能が足りているのか疑わしいほど素直な言動は苛立つこともあるが、本心を隠して媚びられるよりは好ましく、美しい。それに、くるくるとよく動く表情は愛嬌があって、眺めていて飽きぬ」
「……それって、奥さんというか、ペットじゃないのでしょうか」
「どちらでもよい。お前がいれば我は心安らぐ」
どどーん、と言い切られ、私は絶句する。
これ、本当に愛する人が現れたら私、あっけなく捨てられるんじゃね?
見上げると首が痛くなるほどの身長差があるため、私の体はすっぽりと包まれる。
こうされると魔王さま以外何も見えない。
豪奢なマントと装飾品で芸術品のように飾り立てられた新郎にやんわりと抱きしめられ、私の背中に冷たい汗が流れた。
やばい、やばい、絶対やばい!!
私は結婚式当日、頭に妃のあかしである冠を頂きながらこの世界で手に職をつけ、自立するという決意を打ち立てたのだった。