すいーつ(2)
私は中学一年の頃、すこし不登校になったことがあります。
4月の後半で、私はどこのグループにも入りそこねていて、焦っていました。遠坂さんという女の子が前の席にいました。プリントを配るときに顔を合わす程度でしたが、時々休み時間に私に話しかけてくれるようになりました。遠坂さんは制服を着崩していて、髪に軽く茶を入れていたいわゆるギャルの人でした。どうして私に話しかけるんだろうと疑問に思いながら、私は遠坂さんが気まぐれなお喋りに付き合っていました。
後で思うと、遠坂さんも私と同じくクラスで浮いていたのかもしれません。クラスの女子の中で派手で明るい子はいても遠坂さんのような不良が入ったギャル系の子はいませんでした。
お喋りはとてもほっとする行為でした。みんなが親しみ合っている空間で一人黙りつづけているのは苦行です。丸1日声を出さずにいると、言葉が出口を塞がれたまま死に絶えていきました。溜まった「言いたいこと」の死骸でいつも胸がつっかえました。遠坂さんと、先生のことやテレビドラマについて話すとそういう類の息苦しさがなくなりました。
ある日、私は休み時間に一人で女子トイレの個室にいました。予鈴が鳴ったので教室に戻ろうとすると、何人かの女子が一斉に女子トイレに入ってきました。おしゃべりをしている彼女たちのけたたましい笑い声が個室まで響きます。遠坂さんの声が聞こえました、他の女子は違うクラスの人のようでした。
「遠坂、お前のクラスどーよ。」
「最悪、あんたんとこ編入したいし。」
「あー小山とか中田とかだっさいのしかいないもんね。」
「でさ、後ろの席って佐藤ってデブがいんだけど前テレビに出てた豚にめっさ似ててあさ。」
「遠坂ひっでー。実際似てんの?」
「なんか豚が豚小屋から脱走してるし!レベル。」
「写メって見せろよ!」
「こっちに遊びにこいよ!」
「やだよなんか実物臭そうじゃん。」
「あ、確かに臭いけど我慢してよー。」
胸が苦しくて、どこにもいけなくて、誰も助けてくれなくて、涙がだらだらと流れました。確かに私は遠坂さんの言うとおり太っていました。けれどお風呂は毎日はいっているし、わきがでも無いので決して豚程臭くはありません。遠坂さんたちはトイレにいつまでもいて、笑っていました。笑い声を聞きたくなくて指で耳を塞ぎました。声を出さないように歯を食いしばって泣きました。泣いたって誰もあんたなんて助けねーよ。耳を塞いでも遠坂さんのせせら笑いが聞こえるような気がしました。今までみんなは太った私を馬鹿にしていたんだ、そう思うと私は私の存在が恥ずかしくなって、煙みたいに消えたくなりました。泣きながらずっと目をつむり、涙に濡れたぬるい暗闇の中で遠坂さんたちが消えるのを待ち続けていました。
チャイムがなりはじめました、笑い声は徐々に遠ざかって行きカラカラとドアが閉まる音を聞きました。トイレの中はしんとして誰もいなくなったようでした。私はやっとトイレの個室から出ることが出来ました。
洗面台で顔を洗って教室に向かいました。教室に入り机に座っても涙の跡は誰にも気付かれませんでした。私は誰からも見られていなかったからです。学校から帰ると、頭痛と吐き気がとまらなくなって、その日言われた言葉がずっと頭に響いてきました。お風呂に入る時もその声は延々とループして、まるで家の中で遠坂さんたちに監視されているようでした。体重計に乗るとまた涙が出ました。自分の部屋のベッドに横たわると思わず胃の中の物を出しそうになりました。吐く代わりに声を出して泣きました。家族に聞こえないように枕に顔をうずめて私は豚じゃないと叫びました。
翌朝、本当にお腹が痛くなり学校を休みました。トイレの中で何回も下しました。とても苦しくて痛かったですが、健康になって学校へ強制連行されるより何百倍も幸福でした。学校で遠坂さんと顔をあわせることをイメージした途端、吐き気がし胃が痛んだので、なるべく遠坂さんのことを考えつづけました。そうすれば、お腹は痛くなりつづけて、私はずっと学校を休める。と考えていました。
私はそのまま学校に行かず、ゴールデンウイークを迎えました。家では、私の病気のせいで、箱根への家族旅行は中止になりました。普段は保険会社に勤めていて忙しいお母さんが、おかゆやゼリーを作って懸命に看病してくれました。心底家族に申し訳なくなって、休みがあけたら学校に行こうと決意しました。
登校日を迎え、私はいってきますと言って家を出ました。外に出るのは随分久しぶりで朝の光が目に痛く、皮膚がピリピリと痺れました。びっくりするくらい青々とした5月の空の下、うつむきながら通学路を歩いていきました。学校の校門をくぐると、私と同じ制服を来た人々がたくさん歩いています。少し休んでいただけなのに、そんな光景に違和感を覚えます。ホームルームにぎりぎり間に合うように教室に続く廊下を、スローモーションで歩くようにしました。遠坂さん休んでたらいいなと思いつつ、教室のドアを開けました。ドアを開けた途端けたたましい遠坂さんの笑い声が私の耳に響きます。胃がまたズンと痛くなりました。けれど、遠坂さんは私の前の席ではなく一番後ろの席に座って男子と楽しそうに喋っています。私はどこに座っていいか分からずに教室の隅っこに立っていると、学級委員の男子が話しかけました。
「あ、佐藤さんが休んでいるあいだに席替わったんで、佐藤さんの席は前から一番目の先生の後ろの席です。」
いつの間にか、席替えが行われていたのでした。私はクラスのみんなが嫌がる先生に一番近い席になっていました。私はそこに座った途端とてもホッとしました。深い深いため息をついてから机の上で腕を伸ばしました。
「ね、なんでずっと休んでたの。」
後ろの席にいた女の子が座っていました。急に話しかけられ、心臓が縮み、内股が力みます。
「うーん、ずっとおなか痛かったから。」
苦し紛れに私はいいました。
「おなか痛かったんだ。」
女の子は素直にその言葉を受け入れて、笑ってくれました。
一時限目の授業が始まりました。英語でした。先生に言われた教科書のページを開くと、暗号が並んでいました。私は完全に授業に遅れていました。先生が早口でビードウシノギモンケイハシュゴノマエダカラナと叫びました。周りの人は、その言葉を一斉にノートにとっています。
チンプンカンプンな先生の言葉を解読しようと辞書でビードウシの意味を調べます。そうしていると次に先生はアイマイミーワーリピートアフタミと言いました。みんなが一斉に先生が言った言葉を繰り返します。私はビードウシがBe動詞であることがやっと分かったところです。
休み時間、呆然としている私に、後ろの席の女の子が話しかけてきて、
「ノート貸そうか?」と聞いてきました。彼女は私の後ろ姿がずっと見えてたのでしょう。
授業中ノートも取らず辞書を引いていたのを観察されてたんだ。そう思うと、カッと顔が熱くなりました。「別に大丈夫だよ。」
そう言い捨てて、そっぽを向きました。あ、これで嫌われちゃった。また悪口言われるな。彼女がトイレで「あのデブがさ~」としゃべっている場面が映像として浮かび怖くなり、さっき言った自分の発言を今すぐ取り消したくなりました。違うの、本当はちょっとびっくりして思わず断っただけなの。そう弁解したくて後ろを向こうとしましたが、首の筋肉が緊張して動きません。今更、そんな言い訳をしてもその子は一層私を変に思うだけでしょう。自然と目の奥が熱くなって涙が出そうになりました。トントンと背中を小突かれました。振り返るとノートが突き出されていました。
「ずっと休んでたのに、ほんとに大丈夫なの?」
女の子は、さっきの私の態度を特に気にしていないようでした。
ごめんねありがとうと、私は頭を下げて彼女にそう言って、ふらふらと一人でトイレに向かいました。トイレの個室の中で私はもう一度泣きました。前、泣いた時とは全く違う質の涙でした。暗く狭い個室の中、悪口に負けないくらい強い人間になりたいな。と私は思いました。ほんの些細なことで怯えたり、みじめになったりはもう嫌でした。自分に自信を持って生きていきたい。自信を持つということは、ただむやみに威張ることではなく、何らかの過程を経て自分自身をきちんと好きになるということです。私は今の自分が大嫌いなので、少しずつ好きな自分を作っていこうと決意しました。
今の自分のままを好きになるのは難しいけれど、そんな自分を変えることは決して不可能ではないと考えました。私の中学生活はまだ始まったばかりだからです。強くなれば、遠坂さんのことも怖くなくなるはず。そう思うと、また涙が出てきました。
教室に戻ると、先ほどの女の子が心配そうにこっちを見ていました。
「目、赤いけどどうしたの?」
「トイレでお腹痛くて泣いてた。」と私は笑って答えました。
「大丈夫ー保健室今から行く?」
「だいじょうぶ、もう治ったから。」
よくよくみると、彼女も遠坂さんと同じく、髪を茶髪にしていることに、気づきました。私たちはその後おたがいに自己紹介をしました。名前は高山さんというそうです。
私はもう二度と、お腹が痛くなったりはしませんでした。
遠坂さんとは、その後何回か話をしました。その時彼女とはもうごく自然に話すことができるようになりました。背の低い彼女は少し威勢の強い臆病な女の子なだけでした。