生者のいらない夜
この屋敷には、幽霊が五体いる。
俺。
婆さん。
若い女。
坊主頭の男。
それから、幼い子供。
全員、この土地で死んだ。
だから、ここから一歩も動けない。
地縛霊というやつだ。
別に、それで困ってはいない。
人間さえ来なければ、ここは至極静かで快適な住処だった。
問題は、最近になってこの廃屋が「最恐心霊スポット」としてネットで有名になってしまったことだ。
「また来たわよ。」
歪んだ硝子窓の外を見下ろしていた若い女が、うんざりしたように声をあげた。
「何人だ?」
「三人。」
俺も窓辺に寄り、外を覗き込む。
照明つきのカメラを構えた若い男。
その後ろに、ビクビクと怯える若い男女が一人ずつ。
中央の男が、レンズに向かって白い歯を見せた。
「はいどうも! 今日はネットで噂の超有名危険スポット、開かずの屋敷に来ています!」
俺は深く目を閉じた。
「……頼むから帰ってくれ。」
「言っても届かないわよ。」
若い女がくすりと笑う。
「分かってる。」
「じゃあ、言うだけ無駄じゃないの。」
「幽霊なんだ。愚痴くらい言わせろ。」
後ろで、着物姿の婆さんが喉を鳴らして笑った。
「生前から愚痴ばかりの男じゃったからのお。」
「余計なことを言うな。」
「この屋敷には、ある恐ろしい都市伝説があります。」
配信者の男が急に声を落とし、カメラに顔を近づけた。
「夜になると、どこからともなく『死者の怨嗟の低い声』が聞こえるそうです……。」
俺たちは顔を見合わせた。
「来るぞ。」
坊主頭が太い腕を組んで呟いた。
「何がくるの?」
子供が首をかしげる。
「例のやつだ。」
その直後、屋敷の奥から、冷たい秋風が抜け落ちた。
ヒュウウ……。
腐ちかけた梁が軋み、古い窓枠がガタガタと震える。
埃っぽいカーテンが大きく揺れた。
そして――。
――か……え……れ……。
配信者たちの動きがピタリと凍りついた。
「……。」
俺たちは静観する。
若い女が耐えかねたように吹き出した。
「今日も出たわね。」
「ただの風だけどな。」
婆さんが白髪の頭を頷かせる。
「毎晩のことじゃからのう。」
子供がキャッキャと声をあげて跳ねた。
「風さん、今日もいい仕事してるー!」
俺たちも苦笑した。
この屋敷は構造上、山風が吹き込むと特殊な鳴りを潜める。
屋根裏の折れた太梁、煤けた古い煙突、そして隙間だらけの土壁。
風がそれらを複雑に通り抜けるとき、人間の耳には「帰れ」という低い男の声のように響くのだ。
ただ、それだけの自然現象である。
だが、プロの配信者様のご意見は違った。
「いまの、聞こえましたよね!?」
男がカメラに向かって叫んだ。
「間違いありません!」
「いま、男の霊の声で『帰れ』とはっきり聞こえました!」
俺はこめかみを押さえた。
「間違いありありなんだよなあ。」
無遠慮な足音が響き、三人組が屋敷の中へと足を踏み入れてきた。
泥のついた靴のまま。
「……。」
俺は自分のかつての家を見回した。
「靴くらい脱げよ。」
もちろん声は届かない。
配信者は壁の傷を撫で、埃をかぶった机を触り、仏壇に残された古い写真を手に取った。
「うわ……これ、かなり強い念を感じますね。」
若い女が鼻で笑う。
「何も感じてないくせに。」
「顔が演技丸出しだな。」
坊主頭が吐き捨てる。
「そもそも、さっきから『ヤバい』と『感じる』しか言ってないぞあいつ。」
婆さんが感心したように頷いた。
「便利な言葉じゃのう、現代の若者の言葉は。」
配信者が、奥の古い食器棚を見つけた。
「これは……。」
ギィと嫌な音を立てて扉を開ける。
「うわっ!」
中には、俺が昔使っていた古い皿が並んでいた。
「この皿、持って帰ったら確実に呪われそうですね。」
俺は眉をひそめた。
「おい、持って帰るなよ。」
配信者が皿へ手伸ばす。
俺は思わず反射的に手を伸ばして制そうとした。だが、俺の手は虚しく皿をすり抜けた。
「……。」
幽霊になって、一番腹が立つ瞬間だ。
何も触れない。何も守れない。
「これ、リスナープレゼント用に持っていこうかな。」
配信者がヘラヘラと笑う。
若い女の目が吊り上がった。
「最低ねあいつ。」
婆さんも皺だらけの顔を歪める。
「持って帰ったら、わしが本気で呪ってやるぞい。」
「だから婆さん、俺たちは何もできないんだって。」
「気持ちの問題じゃ!」
調子に乗った配信者は、さらに屋敷の奥へと進んでいく。
「それではここで、検証のために幽霊を呼び出してみます!」
俺たちは一斉に顔を上げた。
「来たぞ。」
「また始まったわね。」
「今度は何する気かしら。」
配信者はカメラを見つめ、大声で叫んだ。
「幽霊さーん!」
俺は配信者の目と鼻の先に立った。
「おう、ここにいるぞ。」
「いるなら、姿を見せてくださーい!」
俺は顔の前で手を振った。
「真ん前にいる。」
若い女も横から手を振る。
「こっちこっち。」
坊主頭も顔を覗き込む。
「目の前だぞ、ボウズ。」
子供が足元でぴょんぴょん跳ねる。
「ここだよー!」
婆さんまで手をひらひらさせた。
「ここにおるぞい。」
配信者は眉ひとつ動かさない。
カメラを見つめたままだ。
「……ふう。やっぱり、何もいませんね。」
俺たちは一瞬で真顔になり、沈黙した。
「……。」
若い女が呆れたように呟く。
「定員オーバーなくらい勢揃いしてるのにね。」
俺はため息をついた。
「五体もいるんだがな。」
「ここまで無視されると、霊とはいえ普通に傷つくわね。」
すると突然、配信者が目の前の柱を強く叩いた。
バン!
「幽霊さん!」
バン!
「いるなら、何か現象を起こしてくださいよ!」
バン!
俺たちは一斉に柱を見た。
「……。」
婆さんが静かに、だが恐ろしい声で言った。
「こやつ。幽霊が出る前に、わしの思い出の家を壊す気じゃな。」
「同感だ。」
配信者がさらに勢いよく壁を蹴りつける。
ドン!
その瞬間だった。
山頂から駆け下りてきた強烈な突風が、屋敷の隙間という隙間に雪崩れ込んだ。
ヒュウウウウウウ……!
――か……え……れぇぇ……っ!
鳴り響いた音の太さは、先ほどの比ではなかった。
三人組の顔から、一瞬で血の気が引いた。
「出たあああ!」
配信者が悲鳴をあげる。
「いま、めちゃくちゃはっきり聞こえました!」
俺は思わず笑ってしまった。
「だから風だって。」
声は届かない。配信者はカメラに向かって狂ったように叫んでいる。
「この屋敷の悪霊は、明確に殺意を持って『帰れ』と言っています!」
俺は呆れて頭を振った。
「だからただの風なんだよ。」
若い女が肩をすくめて笑う。
「でも、当人が気づかないんだから世話ないわね。」
「気づくわけないさ。」
坊主頭が鼻で笑う。
「気づいたら売れる動画にならないだろ。」
「なるほどのお。」
婆さんが膝を叩いた。
「世知辛い世の中じゃのう。」
配信者はすっかりテンションが上がってしまったらしい。
「幽霊さん!」
喉がちぎれんばかりの大声で叫ぶ。
「俺たちは、何があっても絶対に帰りませーん!」
俺たちは呆れ果てて顔を見合わせた。
「……。」
子供が泣きそうな声で呟いた。
「ほんとうに、かえってほしいのに……。」
「俺もだ。」
「私もよ。」
「わしもじゃ。」
幽霊五体の意見が、完璧に一致した。
配信者はカメラに向かってドヤ顔を決める。
「絶対に帰りません!」
俺はニヤリと笑った。
「しょうがねえ。こうなったら『風さん』に頼むか。」
その瞬間。
まるで俺たちの願いに応えるかのように、腐食していた窓枠が一斉に跳ね上がった。
ガタバァン!
バァン!
バァン!
猛烈な山嵐が屋敷の中を吹き荒れる。
カーテンが狂ったように舞い上がり、数十年分の埃が竜巻となって舞い散った。
そして――。
――カ エ レ ッ !
共鳴した梁と煙突が、まるで屋敷そのものが叫んだかのような大音量を轟かせた。
「うわあああああ!」
三人組が抱き合って悲鳴を上げた。
「危険だ! 逃げろ!」
「呪われる! もう無理!」
「帰る! 帰りますからあ!」
機材も放り出す勢いで、玄関へとなだれ込んでいく。
俺たちは腹を抱えて大笑いした。
「風、強すぎだろ!」
「最高ね!」
「今日の風さん、いい仕事するわあ!」
脱兎のごとく外へ飛び出した三人組が、ドアを叩きつけるように閉め、車のエンジンを爆音で吹かす。
タイヤの焦げる匂いを残し、車はあっという間に山道を下っていった。
静寂が、再び屋敷を包み込む。
俺たちはゾロゾロと玄関に集まった。
「追い払ったな。」
坊主頭が満足そうに頷く。
「あたしたち、指一本触れてないけどね。」
若い女が笑う。
「風が勝手に追い払ってくれたからのう。」
婆さんが頷いた。
「そこらの人間より、よほど頼りになるわい。」
子供が空を見上げた。
「風さん、また助けにきてくれるかなあ。」
「来るさ。」
俺は笑って子供の頭を撫でるフリをした。
「この家、隙間だらけだからな。」
◇
数日後。
性懲りもなく屋敷へ入ってきた別の若者たちが、手元で光る小さな板――スマートフォンを眺めていた。
俺たちは彼らの背後に並び、その画面を上からこっそり覗き込んだ。
動画サイトに投稿された、あの時の動画。
タイトルは大きくこう書かれていた。
『【閲覧注意】本物の悪霊に「帰れ」と脅迫されました。命の危険を感じて緊急脱出』
再生数は、すでに五十万回を超えている。
「……。」
俺たちは沈黙した。
若い女がボソッと呟く。
「……ただの風なのに。」
「風なのになあ。」
流れてくるコメント欄を目で追う。
《あの「帰れ」はマジでヤバい》
《絶対、強い悪霊が潜んでる》
《最後、霊が何体も叫んでた気がする……》
《神回確定》
俺たちは顔を見合わせた。
「何体もいた気がする、だってよ。」
子供が楽しそうに笑う。
「あたりー! 五体もいるよー!」
婆さんが誇らしげに胸を張った。
「おるのに、誰ひとり見えんのじゃがのお。」
俺は可笑しくてたまらなかった。
「人間ってのは本当に、見たいものしか見えないんだな。」
若者たちが怯えながら奥へ進んでいくと、窓の隙間からすうっと冷たい風が吹き込んできた。
ヒュウウ……。
風は俺たちの体を心地よくすり抜け、屋敷の奥でまたあの低い音を響かせた。
――か……え……れ……。
俺たちは顔を見合わせ、一斉に吹き出した。
若い女が窓の外へ向かって声をかける。
「風さん、今日もお疲れ様。」
俺は硝子窓の向こうを見た。
澄み切った青空と、鮮やかな緑の山々が広がっている。
俺は小さく息を吐いた。
「さて。」
がらんとした我が家を見回す。
「次にやってくるのは、どんな馬鹿だろうな。」
その直後、山道の下から、またブォンと車のエンジン音が聞こえてきた。
俺たちは全員で顔を見合わせた。
「……。」
「もう来たわね。」
婆さんが大きなため息をつく。
「やれやれ、人間というやつは、本当に懲りんのう。」
俺はニッと口角を上げた。
吹き抜ける風が、屋敷を小さく鳴らす。
――か……え……れ……。
俺たちは声を揃えて、玄関の方角へ叫んだ。
「そうそう。とっとと帰れ!」
今度だけは。
風と俺たち幽霊の意見が、完璧に一致していた。




